ring.68 選択 | 魔人の記

ring.68 選択

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~第3部~


背の高い草が、風に揺れている。
彼らはあたり一面に生えて、互いにふれ合う音をかすかに響かせている。

それはとても静かな、心安らぐ風景だった。

”最後の選択だ”

どこからともなく、誰かの声がする。
草同士がふれ合う音とは似ても似つかない、無遠慮で傲慢な男の声だった。

姿は見えない。
見えない男が、中空から問いかけてくる。

”お前は止まるのか? それとも進むのか?”

そして返答を待たず、補足の言葉を付け加える。

”お前はそこに立ち止まっていられる。ただ静かに、ずっとそうしていられる。誰かがお前を悩ませることはなく、お前自身の悩みすらも消える。穏やかな時間が永遠に続く”

男が言い終わると、それを待っていたかのようにさわさわという音が聞こえてきた。
風に吹かれた草たちが、遠近の別なくふれ合っている。

その音が止むと、男はもうひとつの選択についてこう補足した。

”お前はそこから自らを進められる。圧倒的な自由を手にできる。誰かがお前を悩ませ、またお前自身の悩みもお前を切り裂く。見たくもない事実、知りたくもない真実に焼かれ続ける”

止まれば平穏、進めば波乱。
傲慢な男の声はそう告げている。

どちらを選ぶべきかについては、全く触れない。
男はただ選択肢を明示し、それぞれの選択がどういった結果をもたらすのか補足しただけだった。

空は晴れ、爽やかな青と白が天を満たす。
吹く風は穏やかで、背の高い草同士がふれ合う音も心地よい。

平和で穏やかな時間と空間だけがあり、それ以外には何もない。
安心かつ安全、誰からも不快なことをされず、自分がしてしまう心配もなかった。

”これは、取り返しのつかない選択だ”

男が言う。

”お前は必ずどちらか片方を選ばなければならない。止まったまま進むことはできないし、許されない。そして今のお前は『止まった状態』…”

ここで男の言葉が途切れる。
かと思うと、地面から同じ声が聞こえてきた。

”進めばどうなるのか? それを知らなければ、公平な判断はできまい。だからお前にはこれから『3歩だけ進んでもらう』。その上で選択するのだ”

声が止むと同時に、視界が60センチほど前へ動く。
途端に空が暗くなり雨が降り始めた。

どうやら60センチほどの前進が『1歩』にあたるようだ。
その変化はあまりに唐突で激しい。

視界はさらに60センチ進む。
2歩目である。

この時には、今まで穏やかだった風が身を切る寒さとなって吹きすさんだ。
暗さと雨に寒風までも加わった形である。

そして3歩目には、あたり一面に生えていた草が消え失せた。
残ったのは、暗く冷たく寂しい道だけだった。

だが道の先には、これまで知ることのなかった変化がある。
遠くに石造りの洋館が見えた。

”さあ、決めるのだ”

中空と地面、両方から男の声が聞こえる。

”止まるのか進むのか、『お前』が決めるのだ”

決断の時である。
そして選択はなされた。

選んだのは──


(…ここは…?)

正文は目を覚ます。
最初に見えたのは暗い空だった。

空のはずだった。
しかしよく見るとそうではない。

(天井?)

彼は体を起こし、それを凝視する。
そこまでして初めて、目覚めて最初に見たものが何であるかわかった。

それは天に向かって湾曲した天井だったのである。

(なんだこれ…)

天井といえば平面的で、照明器具が取りつけられているものという思い込みがあった。
そのため、正文は認識を誤ったのだ。

つまりどういうことかというと、天井はドーム型であり照明器具がない。
ないにも関わらず、彼がいる部屋には十分な明かりがあった。

「…お目覚めかね」

男の声が聞こえた。
正文はハッとした表情でそちらを向く。

(さっきの声!)

無遠慮で傲慢な男の声、それと全く同じものだったのだ。
振り向いたことで、声の主と部屋の様子が正文の目に映る。

男は玉座で頬杖をついていた。
玉座は背もたれと座面が真紅で、他が金色という豪奢なものである。

一般市民がこの玉座に座れば、見る者にちぐはぐな印象を与えることだろう。
しかし男が玉座に座っている姿はむしろ自然であり、正文の心に風格という言葉すら連想させた。

ただ男が着ているものはやけに現代的で、玉座とは世界観がズレている。
特に黒いロングコートは、玉座に合う服装とは言いがたかった。

また、正文が今いる場所は巨大な球体状の部屋で、かつその内側だった。
ドーム型に見えた天井は、球体の上部だった。

部屋の天頂部から7割ほど下がった高さに、正文のいる床がある。
床の中央部から前方に5メートルほど進んだ先には大階段がそびえ、その先に男が座る玉座があった。

「お前は、進むことを選んだ」

男が静かに正文へ告げる。
大階段の高さに加え5メートル以上もの距離があるにも関わらず、すぐそばで話しているかのようにはっきりと聞こえる。

「だからこそ目覚めた…自ら苦悶の人生を選んだというわけだ」

「……」

正文はすぐには返答できない。
現状に驚愕し、男の威容に圧倒されていたためだ。

だが何度かの呼吸を経て、彼は自分の言葉を見つける。
それを口から吐き出した。

「苦悶の人生、なんて…言ってなかったと思うけど」

「ほう?」

正文の言葉に、男は満足げに笑う。

「冷静だな。取り乱すものかと思ったが」

「…おかげさまで……めちゃくちゃな状況にも、ぼちぼち慣れてきた…のかも」

「ハハッ、それは喜ばしいことだ」

男は頬杖をやめ、正文に拍手を送る。
だがその動きは見るからに白々しい。

拍手を終えると、男は再び頬杖をついた。

「進むという選択をしたお前に敬意を表して、私を『プロフェッサー』と呼ぶことを許そう」

「プロ…フェッサー?」

「『教授』という意味だよ。学問を研究し、後進に教えもする者のことだ。わかりやすい例を出すなら、大学の先生といったところか」

「言葉自体の意味くらいは知って…」

正文は反論しようとしたが、その口が止まる。
教授という言葉が、彼に黒いロングコートの正体を教えたのだ。

(あれ…元は白衣か!)

プロフェッサーと名乗った男が身につけているのは、医療用の白衣を黒く染めたものだった。

「もっとも、私が研究しているものに対応する学問は、この世界に存在しないがね」

プロフェッサーが玉座から立ち上がる。
大階段に近づくと、悠然とした足取りで下り始めた。

「…!」

正文は相手の接近に気づいて身構える。
プロフェッサーはそれを見て苦笑した。

「まさか、この私と戦うつもりかね?」

「…場合によっては」

「それはどんな場合なのか、教えてもらってもいいかな?」

「……どんな場合…?」

正文は返答に困る。
プロフェッサーが何を考えているのか、どうにもわからないのだ。

(話せばわかるタイプ…だとは思う。でもなんだ? 何か……単に強いとかそういうんじゃない、何かとんでもない感じがする…)

とはいえ、このまま返答せずにいるというのも気持ちが悪い。
正文は言葉を絞り出した。

「えっと…俺を殺そうとするとか、弱い人をいじめるとか…」

「お前は殺しても死なないのではないのか?」

「なんでそれを」

「メギらと同じになったのだからな」

「…!」

プロフェッサーはメギの名前を知っている。
メギたちが殺されても死なないことを知っている。

正文の胸は激しくざわめいた。

「あんた…まさか!」

「まさか、何かね? お前がつかんだ答えを教えてくれ」

「キルメーカーの関係者…!?」

「フフフッ」

軽い笑いとともに、プロフェッサーは大階段を下りきる。
直後、胸を反らせて大笑いし始めた。

「ハハハハハハッ! 関係者ときたか! あの玉座を見て、そこに座る私を見たというのに、ずいぶんとひかえめなことだ!」

「えっ…?」

「まあいい」

プロフェッサーは大笑いをやめると、部屋の壁に目をやる。
すると壁に動画らしきものが現れた。

壁にモニターが取りつけられていて、そこに映像が映し出されたというわけではない。
壁そのものの表面、その一部が映像に変わったのである。

映像は、軍服を着た男たちが銃火器を持って通路を進んでいるというものだった。
軍服も銃火器も、明らかに他国のものである。

プロフェッサーは画像を指差し、これから起こることを正文に告げた。

「もうすぐここに奴らが来る」

「あれって、外国の軍人…?」

「お前は玉座の後ろに隠れているといい。私が何者かわかるだろう」

プロフェッサーはそう言うと、指差しをやめて正文のすぐ横を通り過ぎた。
正文は言葉の意味がわからずに、ただ振り向いて相手の背中を見つめるばかりだった。


→ring.69へ続く

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