魔人の記
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Ch.127 来訪者は嵐の夜に

Ch.127 来訪者は嵐の夜に


『魔女の真実』初稿版が出た頃から、リーエイルは自身の家を中心とした結界を張るようになった。
その結界は、家はもちろん家周囲にある開けた空間をも、すっぽり覆うほどの広さを持っていた。

結界の色は薄青なのだが、それを認識できるのは作り出したリーエイル本人だけである。
他の者は、丸太づくりの家どころか開けた空間すら見ることができない。

彼らに見えるのは、開けた空間の外縁にある森だけなのだ。
しかも結界に半歩でも足を踏み入れようものなら、一瞬にして家をまたいだ反対側の外縁へ飛ばされる。

おまけに飛ばされても認識できない。
誰も、彼女が住む家とその周囲に近づくことはできなくなった。

(まったく…売りたい本より、売れんでもいい本の方が売れるとはのう…)

リーエイルは、居室でハーブティーを飲みながらため息をつく。
『禁忌たる結界魔法の基礎』よりも『魔女の真実』初稿版の方が何倍も売れていることを、少なからず嘆いていた。

(まあ理解できんわけではない。『禁忌たる結界魔法の基礎』は腐っても学術書じゃ。それにひきかえ『魔女の真実』は平易な読み物としての性質が強い…おかげで、最近はこの山にも人間がちらほら現れるようになってしもうた)

『魔女の真実』初稿版が売れてからというもの、開戦直後に戦争を止めた魔女にひと目会いたいと考える者たちが現れた。
その目的は弟子入りやただ会ってみたいという微笑ましいものから、軍事的な引き抜き、はたまた暗殺するためと幅広い。

彼らはディクトーリア国のすみずみまで探検し、この山にまで捜索範囲を伸ばしてきた。

リーエイルが結界を張ったのは、そういった者たちの目から逃れるためだった。
モニター代わりにしている壁には今この瞬間にも、何人かの訪問者が結界によって外縁から反対側の外縁へ飛ばされたという報告が表示されている。

(まあ、そういう連中がここへたどり着くようなことはない。その心配はいらんのじゃが…)

彼女はハーブティーを飲み終えると立ち上がる。
寝室に入り、ベッドそばの小さなテーブルに置かれた箱を両手でそっと持ち上げた。

箱はケフィトが遺したものである。
フタを開けると、中には彼の想いが詰まった手紙が入っている。

それを見たリーエイルの表情が、沈んだ。

(時を経て、紙の色もずいぶん変わった。インクなどはもうかすれ始めておる…この結界で、少しでも消えるのを遅らせることができればいいんじゃがのう…)

彼女の懸念は手紙の劣化だった。
いくら箱の中に入れて大切にしていても、それを避けることはできない。

リーエイルは、ケフィトが遺した手紙を何度も読んできた。
この家に住み始めた当初は特に、狂ってしまうのを防ぐため1日に4回も5回も彼の言葉にすがりついていた。

それから数十年が経ち、ようやく精神的に落ち着いてきた頃、彼女は手紙が色あせていることに気づいた。
特にインクのかすれは一大事だった。

リーエイルは描きかけだった魔法陣に古代文字を書き加え、劣化を遅らせる性質を付与した。
こうして彼女の存在を隠すばかりでなく、手紙を保護する薄青の結界ができあがったのである。

ただそれでも、安心はできなかった。

(時々…昔のことが思い出せなくなる。まるでかすれたインクのように、あるのはわかっておるのに読み取れん…人間のクセに長く生きすぎた報いか?)

自虐の笑みを浮かべながら、リーエイルは手に持っている箱のフタをひっくり返す。
フタ天面の裏側に当たる場所には、魔法陣の痕跡があった。

(ディクトーリアとヴェンジェランの戦争を止めた時、少しばかり…はしゃいでしもうたな)

この魔法陣は、ケフィトが生前に仕込んだものだった。
フタだけでなく箱の内側側面から底にかけても別のものが描かれており、ふたつが合わさることでひとつの魔法陣として完成する。

完成した魔法陣は、引き離されることで効果を発揮する仕組みだった。
つまり箱が開かれることで結界魔法が発動し、リーエイルはケフィトから長命の一部を受け継いだというわけである。

彼女はこのことに気づくと、初めて恋文をもらった乙女のように喜んだ。
喜びのあまり、いつか自分でも使いたいと考えていた。

ディクトーリア国が戦争を始めたと知ったのは、それから10日ほど経った頃だった。
リーエイルは喜び勇んで王宮に乗り込み、王やその配下たちに対してケフィトの箱と同じ仕組みの魔法陣を使用した。

それがあの、唇に忍ばせた魔法陣だった。

彼女はただ同じことをするのではなく、結界魔法を使った事件がないか調べていた頃に描いた各地の魔法陣を再利用し、効果を増幅させることで戦争を止めることに成功したのである。

(まさか箱の方に新たな発見があるとは思わんかったでの。ケフィトが見ていたら、なんと言われたじゃろうな…)

リーエイルは在りし日のケフィトを思い浮かべ、自分を叱る姿を想像する。
会うことすらかなわない彼女にとっては、どんな姿でも甘い追憶になるはずだった。

「…!」

リーエイルは衝撃を受ける。
想像のケフィトは、一部が欠けていた。

首元にあるネックレスがただのチェーンだったのか、何らかのペンダントトップを持つものだったのか、思い出せない。

「く…」

リーエイルは頭を左右に振る。
意識を想像から現実へと戻し、箱を閉じた。

(劣化しているのはインクだけではない。わしも同じじゃ…このままでは、ケフィトのことを完全に忘れてしまうやもしれん。あやつの無念さを世に知らしめるためにも、もっと完全な、それこそわしの全てを記した『真実』を残すべきなのでは…)

リーエイルは、長命の残り時間が少なくなっていることを感じていた。

結界魔法の応用編は、完成までまだはるか遠い。
しかも、できあがったところで基礎編よりも読んでもらえる可能性が少ない。

一方、『魔女の真実』初稿版は、娯楽の限られた低所得層を中心によく読まれている。
こちらの完全版を先に出した方がいいのではないか。

彼女は迷っていた。
そしてその迷いが、応用編の完成をさらに遅らせてしまっていた。


それから数年後、嵐が山を襲った。
嵐はとても激しいものだったが、リーエイルの家はもともと頑丈であった上に薄青の結界で守られていたため、遠くに風の音を聞くばかりだった。

(いつもは一晩もあれば通り過ぎるが…今回は少し続きそうじゃな…)

彼女は居室でくつろぎながら、結界魔法で作った壁のモニターで周囲の様子を見ている。

(最近はここに来る連中も減っておったし、これで完全におらんようになるやもしれんの)

嵐が過ぎれば、久しぶりに結界の外へ出られるかもしれない。
どこへ行こうかと、散歩のルートをぼんやり考えているその時だった。

突然ドアが開き、誰かが入ってきたのである。

「…!?」

リーエイルは驚いて振り向く。
ドアのそばに、ずぶ濡れの少年が倒れていた。

「なに…!」

入ってこれるわけがない。
いや、家を見つけることさえできないはずなのだ。

しかし現に、少年は彼女の目の前にいる。
よほど疲労しているのか、すでに気を失っていた。

(とにかく、放っておくわけにもいかん!)

リーエイルは少年を抱き上げると、急いで寝室へ連れていく。
濡れた体を拭いてやり、あたたかなベッドで寝かせてやるのだった。

少年は2日間眠り続け、3日目に意識を取り戻した。
ちょうど嵐が過ぎ去って朝日が空を赤く染め上げる頃、目を覚ました格好だった。

「む、起きたか」

リーエイルが少年に声をかけると、彼は開口一番こう返してきた。

「僕を弟子にしてください!」

聞けば、少年は魔女リーエイルに弟子入りするためこの山へ入ったのだという。
それだけなら、今まで山にやってきた者たちと変わらない。

だが、この少年は結界の中に入ってきたのだ。
リーエイルはその理由を知りたいと思った。

つまり、少し興味を持ったのである。
久しぶりの他人ということもあり、彼女は問答無用で追い出すということはせず、まずは会話を楽しむことにした。

「いきなり弟子にしろとは性急もいいところじゃな」

「せいきゅう?」

「せっかち、ということじゃ。まずは名を名乗れ。挨拶くらいしろと、周りの者に教わらんかったか?」

「ご、ごめんなさい…僕、気がついたらひとりで…あっ、名前はサイアーヌといいます」

「サイアーヌか。気がついたらひとりとは、なかなか穏やかではないな…ともあれ」

リーエイルはベッドそばにあるテーブルを指差す。
これまでケフィトの箱が置かれていたそこには、サイアーヌの服がたたんで重ねられていた。

「お前の服はもう洗って乾かしてある。それを着たら出てくるがいい」

「えっ…? あ!」

サイアーヌは、自分が裸であることに気づいて顔を真っ赤にする。
あわてて掛け布団にくるまると、消え入るような声で「わかりました…」と言った。

その後リーエイルは、服を着て居室へやってきた彼に食事を出した。

育ち盛りの少年が、最低でも丸2日何も食べていなかったのである。
パン2つとボウルいっぱいのスープは、またたく間になくなった。

サイアーヌがひと心地ついた後で詳しく話を聞いてみると、どうやら彼は記憶をなくしているようだった。

「何か怖いことがあったのはわかってるんです。でも、それが何かはわからなくて…夢中で走ってたらいつの間にかここに」

「ふむ…」

リーエイルは腕組みする。
やがてそれを解くと、サイアーヌが着ている服についてこんな話をした。

「お前が着ておる服の様式じゃが、ディクトーリアでもヴェンジェランでもない別の国のものじゃ。わしの記憶が確かならば、おそらくはクレイソート」

「クレイソート? 僕はその国の人間なんでしょうか?」

「しかしお前のような子どもが、クレイソートからここまで走ってこれるわけがない。馬でさえどれほどかかるかわからんのじゃからな」

「じゃあ、どういうことなんでしょう…」

「さあてな」

リーエイルは、サイアーヌから目をそらす。
彼女にはある程度の予測がついていた。

(クレイソートは今、かなり荒れていると聞く。大方、内紛に敗れた貴族の子どもじゃろう。親と離ればなれになったところをさらわれて、人買いに売られ…閉じ込められる前に嵐のおかげでできた隙を突いて、どうにか逃げ出したというところか)

サイアーヌが着ている服は、クレイソート様式であるのもそうだが庶民が着るにしてはあまりに高級だった。
この家に来た時点でまだそれを着ていたということは、彼の家が内紛に敗れてからまだそれほど日が経っていないことを意味している。

(大変なことが立て続けに起こったんじゃろう、自分の姓すら忘れるほどに記憶が混濁しておる。ここから放り出すのは不憫…)

リーエイルは、同情にゆるみかけた表情を険しくする。

(いやだからといって、わしの研究に巻き込むわけにはいかん。人が増えればそれだけ事故の確率が増すんじゃ。子どもであればなおさらな)

そう思ってはみたものの、口から出たのはこんな言葉だった。

「とにかく、しばらくは休んでおれ。この家の中にいれば、お前は安全に過ごせる」

「あ、あの…! それは弟子入りさせてもらえるってことですか?」

「それとこれとは別じゃ。いいか、余計なことをすれば即刻叩き出す…いや、結界魔法の生贄にしてやるからな。とにかくじっとしておれ」

「わ、わかりました…」

まだ幼い少年といえるサイアーヌが、恐れと落胆を声に出す。
その姿を見て、リーエイルは胸がちくりと痛むのを感じるのだった。

彼女も子どもの頃に苦労していたため、サイアーヌに対しては非情になりきれなかった。
『しばらく』という期間はどこまでも伸び続け、いつの間にか彼に精霊魔法を教えるようになっていた。

そして10年の歳月が過ぎた頃、サイアーヌは美しい青年魔導士に成長した。

「師匠! 今日こそ『ヴァリー(空間転移)』について教えてください!」

「教えるわけがなかろう!」

リーエイルは一喝する。
それから声の調子を大幅に落としてこう付け加えた。

「それに誰が師匠じゃ。弟子なんぞとった覚えはない」

「私がこの家に来てからもう10年になるんですよ。さすがにそれは通らないでしょう」

サイアーヌは輝くばかりの笑顔で言う。
相手の怒りを恐れている様子など、微塵もなかった。

「通る通らんの問題ではないんじゃ」

リーエイルは真剣な表情で彼に告げる。

「空間魔法はこの世界の禁忌じゃと、何度も言ったじゃろうが」

「それは結界魔法も同じはずですが」

「同じではない」

「どう同じではないんです?」

「…それは…」

リーエイルは口ごもる。
代わりに、質問した側のサイアーヌが答えた。

「結界魔法の方が、禁忌の度合いは上ですよね?」

「! お前、それを知ってて」

「お願いします師匠、あと少しでつかめそうなんです。『ヴァリー(空間転移)』さえ習得できれば、私はクレイソートの王宮魔導士になることができる。誰からも文句など出ません」

サイアーヌは両手で、リーエイルの手を包み込む。

「王宮魔導士にさえなれば、全てを明らかにできるんです。私がどこの家の者で、私の家に何が起きたのか」

「調べるだけならわざわざ王宮魔導士に就く必要はない。魔導士としての能力を高めたいというのであればまだわかるが、王宮魔導士の権力を利用しようとする根性が気に食わん」

リーエイルはそう言いながら、サイアーヌの手を振り払った。

ふたりの間で、この議論は何度も繰り返されてきた。
どちらも譲らず、平行線をたどったまま妥協点を見出すことなく自然消滅する、というのがいつものことだった。

「確かに、空間魔法より結界魔法の方が禁忌の度合いは上じゃ。しかしそれは古代と同じ使い方をした場合に限る! 暴走を抑える構文を使えば、その地におる精霊たちを根絶やしにすることはない。よってわしの場合は空間魔法の方が禁忌の度合いは上じゃ!」

「もう禁忌の度合いについて、なんて話はしてないんです。師匠だって知ってるでしょう! クレイソートは今や民を食い物にするばかりの最低な国になっています! そんな国で自由に動くためには、権力を手に入れるのが一番手っ取り早い!」

「馬脚をあらわしたな? 手っ取り早いじゃと! 過程を軽視するようなヤツが禁忌に触れれば、それこそ何が起こるかわかったものではない!」

リーエイルは鋭い声で言いながらサイアーヌに背を向ける。
今回の議論も、そろそろ自然消滅へと向かい始めていた。

「調べたいなら今すぐそうすればいい。わしは止めん。じゃが、『ヴァリー(空間転移)』について教えることは何ひとつない」

「師匠!」

「ええいうるさい! わしはお前のような弟子を持った覚えはない!」

ここでリーエイルが家から出ていけば、議論は終わる。
彼女がしばらく散歩をして帰ってくると、サイアーヌが茶の用意をして待っている。

それがここ数年繰り返されてきたことだった。
しかしこの日、サイアーヌは師の背中に向かってこう言った。

「わかりました。それでは明日、私は出ていきます」

「…勝手にしろ」

リーエイルは振り返ることなく静かに返した。
やがて彼女が散歩から帰ってきても、茶の用意はされていなかった。

その夜、リーエイルは工房でケフィトが遺した箱を見つめていた。
手紙を読みたい気持ちもあったが、結界で保護しているとはいえ触れれば触れた分だけ劣化が進むように思われて、フタを開けることができなかった。

「ついに、あやつも独り立ちじゃ」

彼女は寂しげに笑いながら、箱に語りかける。

「弟子にした覚えなどないのに、師匠師匠といつもつきまとってきた。それがなくなるんじゃ、せいせいするのう」

言葉とは裏腹に、声は沈んでいた。

「ずっと見てきたが、あやつのことはついぞようわからんかった。野心家のような言葉を吐くが、その割に邪気がない…まあ、わしがもうろくして感じ取れんようになっただけかもしれんがの」

リーエイルは大きくため息をつく。
それから炉で燃える火を見つめた。

「あやつがクレイソートへ行けば、何かが大きく動くじゃろう。そうなれば、ここも無事ではすまんやもしれん。その時は…」

続きを言おうとして、彼女は口をつぐむ。
今度は悲しげに笑うと、箱を胸に抱きしめるのだった。


>Ch.128へ続く

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Ch.126 暗躍する魔女

Ch.126 暗躍する魔女


自ら魔女と名乗ったリーエイルは、目の前にいる王へ告げる。

「この戦争で得るものは何ひとつない」

その声は静かでありながら、かすかに踊っていた。

「即刻、開戦を撤回すべきじゃ」

「何をバカな!」

王は激高しつつ玉座から立ち上がると、右手を勢いよく振って衛兵たちに合図する。
すでに武器を構えていた彼らは、待ってましたとばかりにリーエイルを取り囲んだ。

ただ、扉を開けることなく突然この場に現れた彼女を警戒しているらしく、あと2歩進めば触れられるというところで接近をやめる。
リーエイルを中心に、半径1.5メートルほどの車輪に似た陣形ができあがった。

「もう逃げられんぞ!」

「王への無礼は許さん!」

衛兵たちが口々に威嚇の言葉を発する。
彼らの装備は、うっすらと青白く光る金属でできた盾と全身鎧こそ共通していたが、得物は槍と剣とが半々の割合だった。

槍は現状における主役であり、車輪に似た陣形においてスポークを形作っている。
その切っ先はすでに魔女のローブに触れるか触れないかという位置にあり、腰を入れて突き出すだけで標的を血祭りにあげることが可能だった。

対して、今回脇役に甘んじている剣は取り回しのよさが利点である。
もし標的が包囲から逃れても、素早く対応することができる。

近距離と中距離を征服する二段構えの攻勢は、これ以上なく完璧に仕上がっていた。

「ふはははははっ!」

王が得意になって笑う。
余裕の笑みを顔から消さないまま玉座に腰を下ろし、脚を組んだ。

「魔女リーエイル…とか言ったか。勇んでやってきたのに残念だったな。お前の命はもう風前の灯だ」

ひじ置きに右ひじを立てて頬杖をつく。

「誰に頼まれたか知らんが、開戦の撤回などできん。これはメンツの問題というばかりでなく、国そのものが生きるか死ぬかの問題なのだ。ヤツらを…ヴェンジェランを討ち果たさねば、我らディクトーリアに明日はない」

ディクトーリアとは、リーエイルが住む山を版図に含める国である。
この国とヴェンジェラン国は、100年を超える長きに渡ってにらみ合いを続けていた。

丸太づくりの家を作った木こりが新兵として参加した軍こそ、ディクトーリア軍だった。
つまり両国のにらみ合いがなければ、リーエイルが丸太づくりの家で結界魔法の研究に励むことはなかったのだ。

それは不思議なめぐり合わせといえた。

「お前たちはもう長い間、『大人しくいがみ合ってきた』じゃろう」

衛兵に動きを封じられても、リーエイルが取り乱すことはない。
静かに、そしてやはりどこか踊っているような響きを持つ声で、ディクトーリア王へ尋ねた。

「なぜ今ごろになって戦争など」

「この状況でも臆することなく口を利くか。その胆力に免じて、もう少しだけ話してやろう…ただ」

王がそこまで言った時、玉座の後ろから紫色のローブを着た魔導士が現れる。
まるで示し合わせたかのようなタイミングだった。

「お前がヴェンジェランから来た間者とも限らん。その力、封じさせてもらうぞ」

「《バジェル・ビィグ(毒霧・魔封)》!」

王の言葉に続いて、魔導士が魔法を放つ。
リーエイルに向かって振りかざした杖の先から、紺色の霧が放たれた。

それは水属性の精霊魔法である。
紺色の霧を吸い込めば、どんなに強い魔導士であっても魔法が使えなくなる。

魔導書を一度読むだけでどんな精霊魔法でも覚えることができるリーエイルですら、例外ではなかった。

「…うっ…!」

「ふははっ、吸ったな!」

ディクトーリア王は愉快そうに笑う。
自身の魔導士をそばに控えさせたまま、魔女に向かって意地悪くこう言った。

「話してやってもいいが、まだ知りたいか?」

「…こんな土産までもらっては、聞かんわけにもいかんじゃろ」

「おもしろいヤツだな、お前…いいだろう、話してやる」

そして王は開戦に至った経緯を語る。
それは単純ながらも深刻なものだった。

「お前が言った通り、我がディクトーリアと憎きヴェンジェランは『大人しくいがみ合ってきた』。国境周辺は常に一触即発の危険をはらみ、兵たちには昼夜の別なく臨戦態勢を強いらねばならなかった」

「そんなことでは消耗も激しかろう」

「当然だ。このような状態を100年以上も維持できたのは、豊かな実りが我が国にあったからだ。しかし一昨年、記録的な不作に見舞われてな…」

農業を主たる産業としていたディクトーリアは、この不作で大打撃を受けた。
それを知ったヴェンジェランが、今こそ決着をつける時と国境に全勢力を集結させた。

「…向こうに潜入させていた者たちを使って撹乱することで、どうにか1年はもたせた。しかしもう限界を超えてしまったのだ。我らは戦うしかなくなった。だからこその開戦なのだ」

「ふむ…」

「ディクトーリアは農の国だ。土を血で汚し踏み荒らす戦争など望んではおらん。これは国と民を守るための戦い…だからこそ」

王の目に、鋭い光が宿った。

「開戦を撤回しろなどという要求を飲むわけにはいかん」

「やむを得ず戦う、という認識でよいのか?」

「ああ。そして戦時である今、こんなところまで侵入してくるお前のような者を生かしておくわけにもいかん」

「…ほう」

リーエイルはわざとらしく驚いてみせる。

「わしを殺すというのか。この魔女リーエイルを」

「魔法を封じられた魔女など、ただの老婆に過ぎん。だがお前の胆力には楽しませてもらったからな、その礼としてできるだけ苦しまず死ねるよう取り計らってやる」

「毒でも盛ってくれるのかえ?」

「この上なく甘い毒をな」

「なるほど、ディクトーリア王の温情というわけか。ところで」

リーエイルは、紫色のローブを着た魔導士に声をかける。

「お前はこの国の王宮魔導士じゃろう。であるなら、魔法については詳しいはずじゃな」

「…? なんだ、いきなり」

まさか自分が話題の中心になるとは思わなかったのだろう。
魔導士は少々面食らった。

彼は王に顔を向け、魔女と話していいのかどうかを目で尋ねる。
王がうなずいたのを確認してから、再び口を開いた。

「いかにも俺こそがこの国の王宮魔導士だ」

ディクトーリア国の王宮魔導士は、修行僧のように頬のこけたいかつい顔を、嘲りに歪める。

「少なくとも、『バジェル・ビィグ(毒霧・魔封)』をまともにくらうマヌケな魔女よりは、魔法に詳しいという自負がある」

「ではそのマヌケな魔女が教えてやろう」

リーエイルは、顔を隠すフードからわずかにのぞく唇を舌でぺろりとなめる。
すると、上唇と下唇それぞれに半円状の魔法陣が出現した。

そのまま歯は動かさず、唇だけを閉じて口内に巻き込む。
上下の魔法陣が合わさり真の形ができあがった。

そして巻き込んだ唇を、前方へ解き放つように開く。

「んっぱ」

その一連の動作は、口紅の塗れ具合いを上下の唇で均等にする仕草とほぼ同じだった。

「うおっ!?」

突然、衛兵と王宮魔導士が床にひざをつく。
玉座で頬杖をついていたディクトーリア王も、いきなり前傾して転げ落ちそうになった。

彼らは同時に声をあげ、全員が全員とも驚愕の表情を浮かべている。
何が起きたのかわからない、といった様子だった。

そこへ、リーエイルが解答を提示する。

「『サッジャ・レーショナ・ン・バリグアス(強き夢が生む明日)』じゃ。まるで徹夜と二日酔いが合わさったかのように、体が重かろう?」

「な、なに…!?」

声をあげたのは王宮魔導士だった。
これはお前がやったのかと、どうにか顔を上げて魔女をにらみつける。

その視線を受けて、リーエイルは肩をすくめてみせた。
どうにも仕方ないといった雰囲気を振りまきながら、もったいぶった口調で語る。

「わしはお前によって魔法を封じられておる。つまり魔封状態、魔法を使えん状態じゃ。『しかしわしは魔法を使った』。これがどういうことかわかるか?」

「……」

「わかるか? と訊いておるんじゃがな」

「…わ、わからん…!」

「ならば教えてやろう。これこそはるか昔に捨て去られた禁忌、結界魔法じゃ」

「なんだと!」

さすがに名前くらいは知っているのだろう。
王宮魔導士は真っ青な顔で叫んだ。

「ありえん! 結界魔法など、現代の魔導士が使えるわけ…」

「ではこの状況をどう説明する?」

リーエイルは両手を広げ、自身以外誰ひとりとして動けない光景を指し示す。

「まさか、お前の『バジェル・ビィグ(毒霧・魔封)』が不発だったとでも言うつもりか?」

「…う」

「敬愛する王の前で使ってみせた魔法が、お前という王宮魔導士がこの上もなく無防備でマヌケな魔女に使ってみせた魔法が、まさか不発だったとでも?」

「く…!」

「言えるはずがない。言えるはずがあるまいなあ! そう、お前は認めざるを得ん! 自分が今、結界魔法にしてやられておるのじゃと!」

「き、きさまァ!」

王宮魔導士は怒りに震える。
反撃しようとするものの体はあたかも床に吸いついているようで、杖どころか指一本すら動かすことができない。

そんな彼に、リーエイルは顔をぐっと近づけてこう言った。

「お前は勉強が足らん」

国を代表する王宮魔導士に向かって、これ以上の侮蔑はない。
だが、彼女の言葉はこれで終わらなかった。

「ケイル・トリーフィエが書いた、『禁忌たる結界魔法の基礎』を読むがいい。そうすれば、わしの100万分の1くらいにはなれるじゃろう」

リーエイルは自分が書いた本の宣伝をした。
自分とケフィトの知識が渾然一体となって生まれた本を読めと、ディクトーリア国の王宮魔導士に言った。

全てはこのために仕組まれていた。
玉座の前に突然現れたのも、魔法を封じられたことさえも、本を売り込むための営業活動だった。

リーエイルの声がどこか弾んでいたのはこのためである。
彼女はいつ売り込みのタイミングが来るかと、楽しみで仕方なかったのだ。

ただ、それだけが目的というわけでもない。
リーエイルは、床に這いつくばって動けない衛兵たちを文字通り踏み越えて、王のすぐそばまで近づいた。

「ディクトーリア王、お前はわしを老婆と言ったが…」

ローブのフードを後ろへ倒す。
すると、艶やかなる美貌が現れた。

「これでもまだ、老婆と言うのかえ?」

「い、いや…なんと美しい」

「そうじゃろう。顔だけではないぞ、体もまだまだしおれてはおらん」

リーエイルは満足げに笑う。
フードをかぶり直してから、王にこう告げた。

「わしはこれからヴェンジェランへ行く。戦争を止めてやるから、王宮図書館に『禁忌たる結界魔法の基礎』を置け」

「な、なに?」

「読めとは言わん。誰かに読ませろとも言わん。ただ置け。そしてずっと保管するんじゃ。人目につかん倉庫でもいい、とにかく読める状態で保管しろ。できるな?」

「できるかどうかで言えばもちろんできる。が…なぜそんなことを?」

「なぜ、か…」

リーエイルの顔に、郷愁にも似た微笑みが浮かぶ。
彼女はディクトーリア王に背を向けると、そっとつぶやくように言った。

「それが、『わしらの復讐』じゃから…じゃな」

「復讐?」

王が訊き返した時にはもう、魔女は姿を消していた。


リーエイルはディクトーリア王に宣言した通り、ヴェンジェランへ赴いた。
こちらの王は王子といってもいいほどの若さで血気盛んだったが、その分思慮が浅くディクトーリア王よりも容易に陥落した。

「ケイル・トリーフィエが書いた、『禁忌たる結界魔法の基礎』を王宮図書館に置け。そうすれば、わしの機嫌を損ねることなくディクトーリアを倒せるやもしれん」

「お、置けばいいんだな!? わかった! わかったから体を元に戻してくれ! オレが女になったなんて知ったら、じいやが驚きすぎて死んでしまう!」

「ふふ、その姿も悪くはないと思うがのう? いっそのこと、ディクトーリア王と結婚したらどうじゃ」

「勘弁してくれ…! 本当に頼む、元に戻してくれえ!」

彼女が戦争を止める行動に出たのは、本の営業をするとともに自分が住む山や森を守るためだった。
丸太づくりの家は、ディクトーリアとヴェンジェランがぶつかればいずれ必ず戦場となる位置にあり、静観しているわけにはいかなかったのである。

『禁忌たる結界魔法の基礎』は、約束通り両国の図書館に置かれた。
ほとんどの者はその存在すら知ることはなかったが、ディクトーリアの王宮魔導士やヴェンジェラン王などは愛読していたという。

一方、民衆は盛大な肩透かしをくらって呆然としていた。
戦争が始まったかと思ったら突如として終わってしまったのだ、無理もない。

この頃と前後してある本が、怪しげな魔導書を置くような店で売り出され始めた。

「魔女が戦争を止めたって?」

「なんでも、いきなり王宮にまで乗り込んだとか」

「あと、すげえ美人なんだってよ!」

ある本とは『魔女の真実』である。
ただしそれはリーエイルの人生全てを記録したものではなく、不完全な初稿版だった。


>Ch.127へ続く

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Ch.125 狂気と血の年月

Ch.125 狂気と血の年月


リーエイルは目を覚ました。
瞳に映る空は赤く染まっていたが、それが朝焼けなのか夕焼けなのかすぐにはわからなかった。

一体どれほどの時間が経ったのか。
時間どころか日が経ったのか。

時計や日を教えてくれる他人がなければ、自分がどんな時を生きているのか知ることはできない。

リーエイルは、大きな木のそばで目覚めた今ほど、人が持つ社会性を感じたことはなかった。
そして自分はそれをかなぐり捨てるしかなかったのだということを、思い知らされた。

(…行こう…)

彼女はケフィトが遺した箱を抱きしめたまま、大きな木から離れる。

とにかく何か食べなければならない。
リーエイルは森の中で食料を探し始めた。

木々や草花が生い茂る森には、食料など掃いて捨てるほどあるように見える。
だがそれは、街の生活に慣れた人間が抱きがちな幻想だった。

(あれも…これも毒だ)

リーエイルは薬屋を手伝っていた経験から、目にする草やキノコの多くが毒を持ち、食べられないことを知っていた。

特に蜜をたたえた花を見つけた時などは、口中に唾液がたまるのを感じながらも、ケフィトの言葉を思い出して踏みとどまったものである。

”花は誰に対しても美しく咲いてみせているが、実際のところは花粉を運ぶ虫たちのために咲いている。お前が思うよりも毒を持つ花は多い”

(うっ…)

”外で花を見つけても、直接口をつけて蜜を吸おうなどとは思わないことだ。彼女たちの怒りを買えば、お前の体は深刻な損害をこうむることになる。もっとも、その毒も弱めれば薬になるのだが”

花を『彼女たち』と表現するケフィトの言葉にどこか詩的なものを感じつつも、リーエイルは落胆とともに花から離れるのだった。

(森で食べ物を探すなど、家を飛び出した時以来だな…)

リーエイルの元実家が所有していた森には、狩猟用の小動物がいくらでもいた。
メイドたちが自分を捕らえに来るまでは、それらを魔法で狩って食べることで飢えをしのいでいた。

だがここには、小動物はいても野生のものしかいない。
人になど全くなれておらず、リーエイルの姿を遠くに見ただけで逃げ出してしまう。

(…魔法を使うなら、獲物にだけ当たるようにしなければならない。植物を傷つければ、回り回って果実を得られなくなる…つまり私が損をする)

何も考えず、好き勝手に行動するわけにはいかなかった。
自由があふれているように見える森は、食物連鎖という関係性の糸が緻密に張り巡らされた厳しい自然だった。

よそ者として冷遇されることを考えても、人間が作った別の街に行く方がどれほど生きやすいか知れない。
それでも、リーエイルは山を下りようとは思わなかった。

この山、そして森は、ケフィトが彼女に遺す箱を埋めると決めた場所である。
リーエイルはどうしてもここで生きていきたいと考えていた。

(あいつは、私なら優しい世界に行けると言ってくれた。きっとどうにかなるはず…むっ?)

森の奥へ進んでいくと、突然開けた場所に出る。
その場所の真ん中には、丸太を組んで作られた家があった。

(ここは…?)

リーエイルは家に近づき、ドアを開けた。
中には申し訳程度に家具が残されているものの誰もいない。

居室とは別に薪を作るための作業場があり、壁には斧やナタなど大型の刃物が立てかけられている。
それらの刃は赤茶色に錆びて、最近使われたようには見えない。

(木こりの家か。住人はどこへ行ったんだ?)

家のすみずみまで調べてみたが、人の姿はなかった。

森の真っ只中でありながら、木のない場所に建つ無人の家というのはなかなか奇妙な存在といえる。
しかし住処にするのであればこれ以上のものもない。

(使わせてもらうとするか)

リーエイルはこの家をもらい受けることにした。
ここ最近の彼女にしては珍しく、あまり深く考えることなくそう決めた。

当時この森がある国の情勢は緊迫しつつあり、兵として働ける男はいくらでも稼ぐことができた。
木こりがつとまるほど体が頑強な者であればなおさらである。

この家の住人は、薪を売りに行った街で新兵募集の張り紙を目にした。
そこに書かれていた待遇のよさに目がくらんだ彼は、薪を売り切った後すぐに軍へ参加したという。

ただ、当時のリーエイルがそんなことを知るはずもない。
彼女はとにかく生き抜かなければと、木こりが残した家を拠点として生活を始めた。

家から少し歩けば川があり、飲み水や魚などの食料を調達することができる。
人の目がないため、服を脱いでその魅惑的な丸みに満ちた体を洗うこともできた。

さらに足を伸ばせば、果実を実らせる木も多くある。
森を知る木こりが建てた家だけあって、周囲には生活の役に立つさまざまなものがあった。

(誰かは知らないが、ここに家を残しておいてくれて助かった)

外で雨風が暴れる夜などは、特にそう思った。
窓がない丸太の家は天候の変化にとても強く、嵐の中でもリーエイルは安心して眠ることができた。

生活が安定してくると、魔法について考える余裕が出てくる。
リーエイルは、薪を作る作業場を魔法研究のための工房へと少しずつ作り変えていった。

その歩みはとても遅く、少し這っては戻るようなたどたどしいものである。
しかしケフィトから命の一部を受け継いだ彼女には、時間がいくらでもあった。

(結界魔法の基礎をまとめた本を出そう。できるだけ早く…!)

リーエイルはケフィトの復讐を、代わりに果たそうとしていた。
基礎と応用を含めた知識全てではなく、まずは基礎から世に出すことを決めた。

ケフィトをして残虐非道と言わしめたこの世界のこと、力に貪欲な者は多い。
そういった者が結界魔法の基礎を修得すれば、人間たちが自滅する第一歩になると考えていたのだ。

とはいえ、他人が理解できるように解説するというのは簡単ではない。
特にこの頃はまだ、焼かれた薬屋の光景を夢に見ることも多かった。

「うわあああああッ!」

悪夢の中で絶叫し、その絶叫で自ら夢を破り、半狂乱となって家を飛び出す。
そのまま川に飛び込んで流れに逆らって泳ぎ、体力が尽きる頃に岸へ戻る。

ほとんど這うように家へ帰ると、工房の炉に火炎魔法で火を入れて服と体を乾かした。
体から水滴が完全に消えたのを確認してから、ケフィトが遺した箱を開けて手紙を読んだ。

”ケフィトはリーエイルを愛している。これは揺るぎない真実だ”

「私も…私もだ。私も愛しているからな、ケフィト…!」

リーエイルはまるでうわごとを言うかのように、誓いの言葉を口にした。
狂気へ傾こうとする心をどうにか正気に戻しては、ほとんど気絶するようにまた床につくのだった。

こういった精神的な問題に加え、結界魔法自体にも問題があった。
それは暴走である。

いくら暴走を防ぐ構文をすでに見つけ出しているとはいえ、他人に教えるとなれば慎重を期さなければならない。

彼女は細心の注意を払いながら、そしてケフィトと議論を戦わせた記憶をたどりながら、失われた理論を復活させるばかりでなく独自の解釈を加えていく。
誰にとっても理解しやすいものへと変えていった。

そして近場の木から果実を5回収穫する頃、つまり最低でも5年以上経った頃、ようやく基礎編の骨組みができあがった。

「よし…! もっと書きたいことはあるが、基礎ならこんなところだろう。変に突き詰めた内容を載せてしまうと、挑戦する前に諦めてしまうやもしれんからな」

内容を決めたリーエイルは、早速本を作り出す。
1冊1冊手で書くのではなく、工房に集めた枯れ木を結界魔法で一気に数冊の本へと変えた。

その名も『禁忌たる結界魔法の基礎』である。
著者はリーエイルではなく、ふたりの名前を混ぜ合わせて順序を入れ替えた『ケイル・トリーフィエ』という偽名にした。

これなら万が一スラム街の住人に本を見つけられても、追跡調査をされる心配がない。
まさか自分たちが追い出した元住人によって書かれた本だとは、夢にも思わないだろう。

もしかしたら彼らにも、復讐の協力をしてもらえるかもしれない。
偽名には、そんなしたたかな計算も含まれていた。

本を完成させると、リーエイルは家を出た。
ケフィトが生きていた頃は魔導書を買うための旅に出ていたが、今回はその逆、売るための旅に出た。

「精霊魔法を大きく超える力が、この本には記されている…買わないか?」

「ふむ…本当かどうかはともかく、おもしろそうではあるな。よし買った!」

怪しい魔導書を置くような店には特徴がある。
買うための旅でその特徴を感じ取っていた彼女は、順調に本を売っていった。

儲けを度外視し、売り値をかなり下げていたのも功を奏したのかもしれない。
自分の本を売り切った後は、それを元手にまた怪しい魔導書を買い、研究材料として家に持ち帰った。

本を売りに出ては本を買って戻る、ということを繰り返すうちに何年かが過ぎた。
予定していた地域まで本を売り切った彼女は、応用編の執筆にとりかかる。

だがそれは、基礎編をはるかに超える困難の連続だった。

「うっ!」

リーエイルは指先に鋭い痛みを感じて顔をしかめる。
見ると、右手の人差し指と中指の爪が消し飛んでいた。

「しまった…! こんなところで暴走など」

しかも爪がなくなったところから血が流れ出し、工房のテーブルに乗せた紙へ滴ろうとしている。
紙には研究のために描かれた魔法陣があった。

「まずい!」

彼女はあわてて右手を引く。
しかし間に合わず、毛先ほどの血が紙に付着した。

これにより、魔法陣に書き込まれていた古代語の一部が消滅する。
研究のために構築しようとしていた結界魔法は、さらなる暴走を起こした。

「うぐあっ!」

リーエイルは悲鳴をあげる。
爪のなくなった指先が縦に裂けたのだ。

右手を引いた時に、彼女の指は床へと向いていた。
裂けたところから血が吹き出し、床の表面と継ぎ目の溝を赤黒く汚す。

「もう、無理だ……!」

リーエイルはなおも裂けようとする指を、左手で強く握り込む。
これ以上魔法陣を汚さないよう気をつけつつ、工房から逃げ出した。

こういった失敗は一度や二度ではなかった。
暴走を防ぐ構文を使用しているにも関わらず、高度な結界魔法はチリひとつほどの誤差すらも許さなかった。

一度失敗すれば大ケガは免れない。
リーエイルはひとりで暮らしているため、ケガをすれば当然ながら生活にも支障が出る。

「治るまで、とてもではないが結界など描けん…! だが描かなければ研究が進まん…! くそ、くそぉっ……!」

ままならない現状に、彼女は唇を噛む。

だがそうしたところで他にやってくれる者などいない。
どれほど時間がかかろうと、一歩一歩進めていくしかなかった。

この時、苦闘の中にいるリーエイルは気づかなかったが、彼女は魔導士として飛躍的に成長を遂げていた。

結界魔法についての本を書くということは、他人に結界魔法を教えるということである。
他人に教えるということは、ただ自分で学ぶよりもはるかに深い理解が必要になる。

この深い理解を求める過程が、リーエイルを一流の魔導士に育て上げていた。
さらに失敗を恐れず結界魔法に挑むことで、暴走によって傷つけられるというデメリットとともに、魔法的な成長限界を突破するというメリットも享受していた。

「先に進むには失敗を避けられん。ならば回復魔法を修得すればいい…どうせなら医学にも手を出すか。他人を癒やすことができれば、少しは金も手に入れやすくなるだろう」

魔法を得意とするジェスティ・エルフのケフィトから長命の一部を得たことも、彼女に味方した。
精霊魔法については、魔導書を一度読んだだけでどんなに複雑なものでもすぐ使えるようになった。

その時点ですでにとてつもないことなのだが、リーエイルの目的はあくまでも結界魔法の応用を記した本を出すことだった。

目的を達成できなければ、他のことができても意味などない。
自身が必死になって生み出した小さな成果にも、彼女は喜びを感じなくなっていった。

「……待てよ…」

焦りが、こんな考えを生んだ。

「『禁忌たる結界魔法の基礎』を出して、もうかなりの時が過ぎたはず…あの木の果実を3回は収穫したはずだ。なのに、人間が結界魔法を使ったとか暴走させたとか、そういった話を全く聞かない…!」

リーエイルの家は山奥の森にある。
人間の街から遠く離れたこの場所にまで届くような出来事が起こっていないことに、彼女は危機感を覚えた。

「あの本には基礎しか書いていないが、例の通りに魔法陣を描いて発動させるだけで精霊魔法を超える力が得られる。力を求める人間なら、『威力を抑える代わりに暴走を防ぐ構文』をわざと書かずに発動させようとするはずだ。そうなればとんでもない事故が起こってもおかしくない。なのにそういったことが起こっていない。少なくとも私の耳には届いていない…!」

もしかしたら、誰もあの本を読んでいないのではないか。
読んでも、結界魔法などに興味を抱かなかったのではないか。

基礎編でそんなことでは、理論を応用するなど夢のまた夢である。
自分が文字通り身を削って研究していることに、意味などあるのだろうか。

疑いが、リーエイルの中を満たした。

「まだあるぞ…もし人生に不満を持つ者がいたとして、その不満を晴らすために結界魔法を使ったとしても、それを取り締まる側が結界魔法によって事件が起こされたと発表しなければ、誰が何をしたところで私のところへは届かない。これは由々しき事態ではないのか…?」

彼女は研究を一旦中断し、ある結界魔法を完成させるために時間を使い始めた。
それは、魔法陣を描いた場所で起こったことをつぶさに見ることができる魔法である。

数年かけてこの結界魔法を完成させると、リーエイルはさまざまな街へ行っては結界魔法を使った事件がないか調べた。
ごくたまに彼女が望む結果に出会えたりはしたものの、おかげで研究は年単位で遅れた。

しかしそれでも、心の中にあった焦りと疑いはある程度消えた。
これが彼女にとって精神的休養の意味を持つこととなり、研究を続けるモチベーションの維持につながった。

一歩進んでは回り道をし、回り道をしては一歩進む。
そういったことを繰り返しているうちに、はるかな時が過ぎた。

リーエイルやケフィトを傷つけた者たちは、みな残らず死に絶えた。
ほとんどが寿命や事故であり、憎悪をまとった復讐によるものではなかった。

それでもまだ結界魔法の応用編は完成しない。
禁忌として捨て去られた魔法を、他人に教えられるほどきちんと噛み砕いた形にするというのは、それほどまでに困難なことだった。

「あと少しで…また何か見えてきそうじゃな」

リーエイルはまだ生きていた。
森の奥にある丸太づくりの家で、結界魔法の研究を続けていた。

口調こそ老人のものへ変わっていたが、その容姿は若い頃と変わらない。
彼女はただ長く生きるのではなく、生来の美貌を保ったまま歳を重ねていた。

この頃になると、工房から一歩も動くことなく家事から食料の調達まで全て結界魔法でできるようになっていた。
しかしまだ応用編として本にするには何かが足りないと、貪欲に結果を求め続けていた。

工房から一歩も動かず家事ができるということは、動けばさらに多くのことができるということである。
この日、研究を切り上げた彼女は居室に戻ると、丸太の壁を右手で軽く叩いた。

すると横に長い長方形の枠が形成され、一瞬だけ魔法陣が現れたかと思うと消える。
2秒ほど経つと、枠の中にどこかの街が映し出された。

それは現代地球でいうところのテレビによく似ている。
リーエイルは街の風景を眺めながら、いつの間にか手元に現れたハーブティー入りのカップを持ち上げた。

枠内に映る住民のひとりが、突然興奮した面持ちで叫ぶ。

”せ、戦争が始まるぞ!”

その手には街で発行されている新聞があった。
どうやら住民は、開戦を知らせる記事を読んだらしい。

リーエイルはハーブティーをひと口飲むと、カップを受け皿に乗せた。

「いよいよか…」

低い声でつぶやき、立ち上がる。
家の出口に向かったかと思うと、ドアノブに手をかけるまでもなくその姿が消えた。

次の瞬間、彼女はどこかの城にある玉座の前に立っていた。

「な、なにやつ!?」

前触れなくいきなり現れた黒いローブ姿のリーエイルに、王も衛兵もそろって驚愕する。
その声を聞いた彼女は、ふと遠い記憶を思い出した。

”魔女め…!”

それはケフィトを殺したスラム街の住民が、逃げるリーエイルに向かって吐き出した呪いの言葉である。

「わしか?」

彼女は顔を覆うフードの下でニヤリと笑った。

「わしは魔女リーエイル。お前たちに忠告するためわざわざ来てやった…ありがたく思うんじゃな」

リーエイルは、魔女という忌むべき称号を敢えて自らの名に冠した。
その思いを理解できようはずもない衛兵たちは、彼女を礼儀知らずな侵入者とみなして武器を構えるのだった。


>Ch.126へ続く

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