ring.1 過去と未来 | 魔人の記

ring.1 過去と未来

ring.1 過去と未来


~第1部~


遠い夏の日。

まだ、暑さと死が強く結びついていなかった時代。
誰もが予言を鼻で笑いながら、どこかで恐れていた時代。

ふたりの少年は、川の土手から離れられずにいた。

川面はきらきらと美しく輝き、草むらにはさまざまな虫が元気に飛び回っている。
天然の遊び場で、少年たちはその無垢な体いっぱいに自然の恵みを享受していた。

──わけではない。

「お、おい! はやくつぎいけって」

「まってよ、ボクまだ見てる…」

少年ふたりは、川の土手に落ちていた本から目を離せずにいた。
川面のきらめきも虫たちの戯れも、どうでもよかった。

本には女性の裸が載っている。
急かされた側の少年が、ページ送りの主導権を握っていた。

その証となるのが、細い木の枝である。

「よし…つぎ、いくよ」

「お、おう」

ふたりは、この得体の知れない本を素手で触ることができなかった。
急かされた側の少年が、木の枝を紙の間に差し込みめくることで、ようやく次のページを見ることができた。

「う…うわ……!」

「すっご」

教科書でもなく、マンガ本でもない。
どこで売っているのかすら、ふたりにはわからない。

女性の裸が載ったいかがわしい本は、少年たちの心身を大いにかき乱した。
彼らの知らない世界が、そこには確かに存在した。

「こ、この人たち、なんでハダカなんだろう? なにやってるのかな…」

「しるかよ。でもなんかすげえな、オトナのオンナってみんなこんなカンジなのか?」

「えっ? みんなってことはもしかして…」

「せ……先生とかも…!?」

「……ええ……!?」

話をしながらも、ふたりの目は本に釘づけだった。
見てはいけないものだからもうやめよう、とどちらかが言い出すことはなかった。

そのうち、ページ送りの主導権を持つ少年が異変に気づく。

「あれ…」

「どした?」

「なんか、つぎのページがやけにオモイ……」

「んん?」

もうひとりの少年が、体を右に傾けて本を底側から見てみる。

枝に乗ったページが他よりも厚い。
どうやら紙と紙が接着し、重なっているようだ。

「なんか、くっついちゃってるな」

「えっ? なんでだろ…」

「もしかしたら」

少年は右に傾けていた体をまっすぐにし、緊迫した面持ちでこう告げる。

「もっとすげえヒミツってのが、かくされてんじゃねーか…!?」

「もっとすごいヒミツ!?」

女性の裸が載っているだけでもすごいのに、さらなる秘密があるというのか?
木の枝を持つ少年が、思わず大声をあげた。

それを、もうひとりの少年がしかめっつらでたしなめる。

「バカ! こえがでけえ」

「あっ! ご、ごめん…でも、ヒミツってなに…?」

「んなことわかんねーよ。とにかく、くっついてるのをはがせ」

「ええ? ボクがやるの? まぁくんやってよ」

「お、おれがか!?」

まさか自分にお役目が回ってくるとは思わなかったのだろう。
『まぁくん』と呼ばれた少年は、思わず大声をあげた。

今度は木の枝を持った少年がたしなめる。

「まぁくん! こえがおおきいよ」

「わ、わりぃ…いやでも、はがすってどうすりゃいいんだよ」

「ボクがページもっとくから、りょうてでペリペリって」

「ウソだろ、まさか手でやれってのか?」

「だってボクはページもってるから…おねがい、まぁくん」

「うぐっ…! しょ、しょうがねえなあ……!」

友だちに頼み込まれては断れない。
『まぁくん』と呼ばれた少年は、しぶしぶながらも両手をいかがわしい本へと近づけ始めた。

「うう…」

本は見知らぬ誰かが捨てたものであり、決して状態はよくない。
そんなものに触ること自体、気分のいいものではない。

加えて、内容が内容である。
女性の裸という、少年たちが今まで知ることのなかった世界が、何ページにも渡って繰り広げられていたのだ。

『まぁくん』にとって、この本にふれるということは禁忌や深淵にふれることと同義だった。

「…はあ、はあ…」

だが、嫌悪感や恐怖ばかりに支配されているというわけではない。

重なったページを開いた時、そこに何があるのか。
純粋な好奇心もまた、彼の中には存在していたのである。

「……っ」

成長しきっていない心臓が、周囲の空気すら振動させる勢いで高鳴る。
『まぁくん』の手と本の距離が、5センチを切る。

高鳴りが聴覚を圧倒したその瞬間、彼の両手が本にふれた。



「阿久津(あくつ)さん! いるんだろ、阿久津さん!」

ドアを乱暴に叩く音と、老女のしゃがれた怒鳴り声が聞こえる。
阿久津 正文(まさふみ)にとって、それは望まざる目覚ましだった。

続いて老女は宣告する。

「開けるよ!」

(え…?)

正文の中にぼんやりとした疑問が浮かんだ。

(開ける…? ページを? あんたが……?)

眠気で朦朧としたままそんなことを考えていると、カギがガチャリと音を立てる。
ドアは難なく開けられ、老女が玄関に入ってきた。

入ってすぐ、老女は怒りと呆れの混ざった声を吐き出す。

「相変わらずきったないねェ!」

「ちょ、ちょ…」

正文は事態を理解できない。
老女の勝手な行動が、彼の眠気を消し飛ばした。

のそのそとした動きで、布団から体を起こす。
抗議しようと口を開けたはいいものの、言葉も声も出てこない。

そんな正文をよそに、老女は部屋の中にまで侵入する。
背の低いテーブルに目をつけると、乗っているもの全てを払い落として天板の上に座った。

そこから正文を見下ろしながら言い放つ。

「今日こそいい返事を聞かせてもらうよ!」

「いや…マジで勘弁してくださいよ、大家さん…」

正文は弱々しい声で返答した。
彼としてはこれが精一杯の抗議だった。

しかし強気な老女、つまり大家は意に介さない。

「勘弁してもらいたいのはこっちの方さ! 出てってくれって言ってんのに、いつまでも居座ってんじゃないよ!」

「……」

「しかもこんなに汚してくれちゃってさァ」

老女が部屋を見回す。
四畳半一間の和室には、そこかしこにホコリが積もっていた。

他にもペットボトルやコンビニ弁当の空き箱などが散乱し、生活のすさみ具合を表しているようにも見える。
ただし物が散らかっているのは、大家がテーブルの上にあったものを払い落としたためだった。

大家の傍若無人な行為は、他の場所にも爪痕を残した。
例えば、カラーボックスの上に置かれたテレビの画面には、弁当の空き箱に残った汁が付着していた。

汚れた画面にはこんなニュースが表示されている。

”誘致の失敗と汚職をめぐり議会紛糾”

付着した汁の透明度が低いせいで、誰が何の誘致に失敗したのかはわからない。
スピーカーからは蚊の鳴くような声しか聞こえてこないため、音声から判別するのも不可能だった。

これはスピーカーが壊れている、もしくは汁の付着で壊れたというわけではない。
もともと正文が、テレビのボリュームを1まで絞っているためだった。

ただ、聞くに足るレベルにまでボリュームが上がっていたとしても、その内容は聞き取れなかっただろう。

「あたしゃ情けないよ!」

大家の声があまりに大きく、そして圧に満ちていたためである。
小柄な体からは想像もできないほど、声の勢いは強かった。

「そんなでかいナリしてさァ、いつまでウジウジしてるつもりなんだい?」

「……すいません」

対照的に、正文の声は小さい。
でっぷりと太った体はとても大きかったが、圧や勢いといったものは感じられなかった。

そのことも気に入らないのか、大家は一度大きな鼻息を出してからこう続ける。

「ここに来た頃はハキハキしててさァ、掃除だって毎日してたじゃないか。あたしゃ感心してたんだよ」

「…はあ…」

「掃除が好きなのかってあたしが訊いたら、あんたはそうじゃないって言ってさ。『掃除ってのは失敗を許すための行為』だとかなんとか言ってたろォ? あたしゃ憶えてるよ」

(そんな昔のこと言われてもな…)

正文の心が淀む。
これを、大家は鋭敏に感じ取った。

「昔の話なんか知るか、って顔してるねェ?」

「……! い、いえ」

「だったら、あんたの好きな未来について話そうじゃないか」

大家はそう言うと、上体を前傾させる。
シミとしわだらけの顔を、正文に近づけた。

「あんたは今月中にここを出ていく」

「!」

「居座ってりゃどうにかなるなんて思わないことだね。来月アタマには業者が来て、あんたが住んでようが住んでまいがここを取り壊す」

「そんな」

「しかし…だ。あたしも鬼ってわけじゃない」

「え?」

「いいトコ紹介してやるよ。あんたを助けてくれるはずさ。こっちとしても、思い詰めて自殺なんてされちゃかなわないからねェ」

大家は意味ありげに笑いながら、正文に1枚のメモを手渡すのだった。


→ring.2へ続く

・目次へ