Ch.1 愚問/片道切符 | 魔人の記

Ch.1 愚問/片道切符

Ch.1 愚問/片道切符


-『愚問』-

魂とは、関数である。

与えられたものに対してどのような反応を返すのか?
肉体や記憶といったものを削ぎ落とした果てに、その数式は存在する。

魂は肉体の死によってそこから離れ、三途の川に引き寄せられる。
地球で死んだ者の魂は地球ではない星へ、またその星で死んだ者の魂は地球へとやってくる。

三途の川は、地球と地球ではない星へ魂を送り合うケーブルのような存在であり、行き来には四十九日かかる。

地球ではない星――異世界ヴェスティナスを、地球から観測することはできない。
その星は、宇宙をひとつの球体として考えた時、地球と真逆の位置にある。

最も遠く、しかし直線距離は最も近い。
それは、自分の背中よりはるか遠くにある月の方が目に馴染みがある、というのに似ている。

だがこの営みは、生命本来のものではない。

死とともに存在そのものが消える。
それこそが生命であったはずなのだ。

しかし、肉体が死を迎えても魂は消えない。
存在を表す最も単純なそのデータは、三途の川というケーブルを伝ってふたつの星を循環し続けている。

まるで誰かが、消えないでくれと願ったかのように。

そう。
三途の川により魂が循環する仕組みは、誰かによって作られたものなのだ。

誰が作ったのか?
その存在を知覚することはできない。

知覚できたとして、一体誰がその存在を責めるだろう。

愛しい人が死んでも、魂は消えない。
記憶を失っても、自分が誰なのかわからなくなっても、存在はしている。し続ける。

遺された者たちにとって、これほど慰めになる事実もない。
彼らがこの事実を実感することができたなら、前を向けるようになるまで時間がいくらか…例えば数秒くらいは…縮まるかもしれない。

だがここで。
もし。

愛しい人の魂を、自分の手元に置いておける方法を知ったなら。
魂を肉体に宿らせ、蘇らせることができるかもしれないと知ったなら。

愚問だろうが、敢えて問おう。
遺された者はどうするだろうか?

それは生命の理から外れていると、何もせずにいるだろうか?
すでにすべての生命が歪んでいると知った上でも、何もせずにいるだろうか?

何もせずにいれば、胸を潰す苦しみは続く。
それを癒やすのは時間だけである。

だが行動を起こせば、没頭が苦しみを忘れさせてくれる。
それに加え、行動し続けた先に愛しい人が待っているとしたら。

一体どれだけの者が、何もせずにいることを選ぶだろうか。


-『片道切符』-

松池駅のホームで、佐々木 隆(ささき たかし)はあくびを噛み殺していた。

「うむっ…もっ」

顔の筋肉をひきつらせながらも、ある一点から目を離さない。
ある一点とは、スマートフォンの画面だった。

彼があくびを噛み殺したのは、周囲にいる人々に無防備な顔をさらさないため、ではない。
絶対に端末から目を離すわけにはいかなかったのである。

それだけ、画面内の状況は逼迫していた。

(あと17秒しかない…!)

彼はゲームアプリをやっており、敵と戦っている最中だった。
リアルタイムで現れるドット絵の小さなモンスターたちに、素早くタップすることで攻撃を仕掛ける。

大きく表示された数字が減っていき、残り時間の少なさを彼に知らせていた。

「うっ…ふぁ」

彼の意志に関係なく、体が再びあくびの態勢に入る。
ゲームとはいえ差し迫った状況にも関わらずこうなってしまうのは、睡眠が全く足りていないことを意味していた。

それはまるで、睡眠時間を削られ続けた体がデモを起こしているかのようでもある。

(待てって、あとちょっとだから! ここ乗り越えないと全部ムダになるんだよ!)

隆もどこかでそれを感じているのか、自分の体に心で訴える。
しかし言葉は届かず、徐々に口が開き始めた。

「もっ……ふおっ」

口が完全に開けば終わりである。
顔は上を向き、まぶたも閉じられてしまうだろう。

そうなればゲームどころではない。
彼は必死に、口を開くまいと力を入れる。

ゲームでの戦いに加え、隆は自分の肉体とも戦わなければならなくなった。

重なる戦いに頭は冴える。
しかし眠気が飛ぶことはなく、口を開けようとする力が弱まることもない。

ここで、画面内に変化が起きた。

(うげっ! 出たあー!)

画面の4割を占拠するほど大きな、人型のキャラクターが登場した。
これもどうやら敵らしく、小さなモンスターたちとともに隆の陣営に攻撃してくる。

(あとちょっとのとこで出るなよ! こうなったらとっておきの…)

彼は画面の左下をタップし、特別な技を放とうとした。
その時。

「ふわ」

集中がわずかに乱れたのを好機と見てか、体が口を開かせる。

(あ!)

「ふわぁあ…」

気づいた時にはもう、彼はあくびをしてしまっていた。

顔は上を向き、まぶたは閉じられ、口は限界まで開かれる。
ホームの空気を思い切り吸い込んだ。

決して清浄ではなく、ほこりっぽささえ感じる。
それでも大きなあくびは止まらず、嫌悪感をはるかに上回る気持ちよさを隆に与えてくれた。

(ああ…やっちゃった)

こうなるともう駄目だった。
吸い込んだ空気を吐き出し終わるまで、あくびから解放されることはない。

隆は視界の外で、何かが爆発する不穏な効果音を聞く。
それに続いて悲しげな音楽が流れ、戦いが終わったことを知った。

(負けたあ……)

自分の体に負け、ゲームにも負けてしまった。
ついでにあくびの気持ちよさにも負けた彼は、どうせならばとその快感を堪能した。

吸い込んだ息を吐き出し終わると、生理反応で涙がたまった右目尻を指で拭う。
その後で視線を端末へと戻した。

画面には、敗北の詳細が表示されている。
それを見て反省する気になれず、彼はすぐにタップして遷移させた。

やがてメインメニューまで戻ると、新着のゲーム内メッセージがあることに気づく。
その数は10件以上と、かなり多い。

(うわ…)

負けた直後ということもあり、隆はげんなりした表情でそれをタップした。
すると、他のプレイヤーたちから送られてきたメッセージがずらりと表示される。

”最後なんだよオマエ!”

”あんたのせいで全部パーだ、責任取れバカ!”

”死ね!”

”ありえないんだけど!!!”

内容はどれも、隆を責めるものだった。
ざっと目を通すと、彼はすぐにゲームアプリそのものを終了させる。

(しょーがねーだろ…あくびには勝てなかったんだよ……)

隆がやっているゲームには、他のプレイヤーと協力して戦うことで報酬がいいものになる、というシステムがある。
だが敵に負けてしまえば、当然ながら望む報酬は得られない。

負けても参加賞はもらえるのだが、それ目当てにわざわざ協力プレイをする者はいない。
つまり、戦いを始めれば勝つしかない。

そんな戦いで、隆はあくびをしてしまった。
あくび自体が悪いというのではなく、それによって指を止めてしまったことが問題だった。

(まさか、こんな時に限ってレアボスが出てくるとか思わないしな…)

画面の4割を占拠していたキャラクターは、ごくまれに現れるレアボスだった。
これを倒すことができれば、さらに特別な報酬をもらうことができた。

レアボス報酬は自分が所持するキャラクターを強くするだけでなく、他のプレイヤーに自慢することもできる勲章のような意味を持つアイテムだった。

だがこれも、隆のあくびによって夢と消えてしまった。

しかもタイミングの悪いことに、彼はレアボスが出てからあくびをして操作を中断した。
これが他のプレイヤーには『悪意をもってレアボス打倒を邪魔した』ように映ってしまった。

彼らの口汚い叱責は、隆を迷惑プレイヤーだと認識してのものだったのだ。

(まあ、気持ちはわかるよ…同じことされたら、オレも死ねって思う)

隆にも、彼らの怒りは理解できた。
しかしそれ以上に、仕方ないじゃないかという思いを強く持っている。

(楽しくないんだよ、毎日。バカみたいに働かされてるのに給料は増えない。アレやれコレやれって何にもできない無能なジジババの方が給料多いし、ゲームくらいしか楽しみがないのにそれもやめろやめろって言われるし)

彼は虚ろな目で前を見る。
5人ほど並んだ先には、金網と駐車場が見える。

まだ電車は来ない。

(来なくていいよ、電車)

そんな言葉を心に浮かべた後で、隆は下を向いた。

(乗りたくないよ。会社なんか行きたくない。仕事なんか全然楽しくない…)

ため息が漏れる。
同じ呼吸でも、あくびのような快感はなかった。

(人生ってなんなんだ? なんでこんな人生になっちゃったんだ? 働かなきゃ生きていけないのに、働くほど心が死ぬ気がする)

胸の奥が冷える。
考えないようにした方がいいとは思うのだが、今度は意志を止められない。

ゲームでの失敗が、彼の中にある何らかのスイッチを押してしまったようだ。
それは決して、やる気が出るといったいい意味でのスイッチではなかった。

(遅くまで仕事させられて、それからゲームやってたらそりゃ睡眠不足になるよ。わかってるよ。でもそれしか楽しみがないんだよ。普通の日は早く寝て、休みの日にまとめてやるとか無理だよ。そんなことしたら、休みの日が来る前に死んじゃうよ。それだけギリギリなんだよ……)

訴える相手はいない。
彼は心に言葉を並べるばかりだった。

孤立無援を肌で感じている。
助けを求めたところで、誰も助けてはくれない。

ネットの海に不満を流す気にもならなかった。
奈落に向けて、彼の心はどんどん落ちていった。

(どこで間違えたんだ? これが正しい人生ってヤツなのか? オレなりにマジメにやってきたのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ?)

眉間に生まれたしわが、みるみるうちに深くなる。
小さいものの、断崖絶壁と呼んで差し支えないほどの険しさを持つに至った。

だが、いつまでもそそり立っているわけではない。
隆はふっと笑みを浮かべた時、絶壁は瞬時に平地へと変わる。

(訊いたところでこう言われるんだろうな。『それがお前の選んだ道だ』とかなんとかさ)

その表情に力はないが、トゲがあった。

(恵まれてるからそんなこと言えるんだ。そうするしかなかった、今この状況になるしかなかったヤツの気持ちなんてわかんないから…そんなことが言える)

この時、電車の接近を知らせるメロディーが響き渡った。
それが終わるとアナウンスが続く。

”まもなく、3番ホームに桂沢行き電車がまいります。白線の内側まで……”

(来なくていいのに)

隆はそう強く思いながら、スマートフォンをズボンの尻ポケットにしまった。
その後で右手から力を抜くと、ジャケットの右側ポケットに手のひらが当たる。

「…?」

ふと違和感を覚えて手を入れた。
薄くて硬い角を持つ、長方形の何かがある。

(なんだ、切符か……)

感触からそう判断し、すぐに右手をポケットから出した。
再び力を抜いてぶらりと下げた時、電車がホームに滑り込んでくる。

(……あれ?)

隆は、ジャケットの右ポケットに顔を向けた。

(オレ、なんで切符なんか?)

彼は通勤するために、この駅に来ている。
つまり、仕事のある日は毎日ここに来る。

(定期持ってるのに、なんで?)

隆はもう一度ポケットに手を突っ込んだ。
中にあるものを取り出そうとした時、視界の端に電車が映り込む。

「……え?」

思わず顔を上げると、いつの間にか先頭に立っていた。
前に並んでいた人々は消え、歩いてもいないのに靴が白線を踏んでいる。

目の前には、速度を緩めて止まりつつある電車があった。
しかしその中に人の姿はない。

代わりにいたのは、うねり蠢く赤黒い触手だった。
大きく長い体がすべての車両を占拠し、どの窓からもその奇怪な姿が見えた。

「は…?」

理解が追いつかず、隆の思考が止まる。
それに合わせるかのように電車も止まった。

ここでようやく、彼の危機感が仕事をし始める。

(や、ヤバい!)

電車に背を向け、逃げようとする。
しかし、人の形をした壁がこれを阻んだ。

人々は躊躇なく隆にぶつかり、電車の方へぐいぐいと押してくる。

「ちょっ…? どけっ、どいてくれ!」

人混みをかき分けようと手を伸ばす。
しかし人々に触れた瞬間、人間らしい柔らかさとは全く違うものを隆は感じた。

(か、壁…!?)

人の形をした壁とは、立ち並ぶ人間たちを壁にたとえた言葉ではない。
それはまさに『人の形をした壁』だったのだ。

材質からして、そもそもタンパク質ではなかった。
服のように見える物体も織物ではなく、石か金属のように冷たく硬かった。

「う、うううっ」

隆は人々を押しのけようとするが、大挙して押し寄せる壁にはとてもかなわない。
逃げられない彼の背後で、ドアの開く音がした。

「!」

振り返る。
怪物が触手を伸ばしてくる。

「う、うわ」

隆の両手首と両足首に触手が巻きつく。
かと思うと、体を持ち上げられた。

「うわああああああああああっ!」

あまりの恐怖に、隆は絶叫する。
その直後、触手はものすごい勢いで彼の体を車両の中に引き込んでしまった。

人の形をした壁が、ドアのすぐ前まで来たところでぴたりと止まる。

”扉、閉まります”

落ち着いたアナウンスとともにドアが閉まり、電車はゆっくりと動き始めた。
その後、ホームから車両の姿がなくなると、人々は改札に通じる階段へと歩いていった。

隆が立っていた場所には、小さな切符が残されている。
それを、近づいてきた誰かが何も言わずに拾い上げた。


>Ch.2へ続く

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