魔人の記 -2ページ目

ring.85 弛緩が生む同時

ring.85 弛緩が生む同時


スカーフェイスが正文に襲いかかる。
狼男のような姿の通り、その動きは速い。

さらに、あることが正文に錯覚をもたらした。

(こいつもそれなりにでかい!)

スカーフェイスは当初、キルメーカー運営の女エージェントv685(ゔぇー・ろくはちごー)の後ろから現れ、彼女のそばに立っていた。

v685は2メートル近くという高身長と、それに見合う横幅を持つ。
そんな巨体との対比で、正文の目にはスカーフェイスが小さく見えていた。

だがそれはv685が大きすぎただけであり、スカーフェイスの体格も決して小さなものではなかった。
そのことを正文は、スカーフェイスが攻撃を開始してから気づいたのである。

つまりは遠近感が狂った。
このことが正文の中に一瞬のとまどいを生み、そのとまどいが彼に後退を強制する。

(一回ここはひいて…)

「逃がすかよ!」

スカーフェイスはますます感情を高ぶらせ、右腕を大きく振り上げる。
指先に生えた長く鋭い爪で、正文の体を切り裂こうとした。

これを見た正文は、無意識に左腕で防御を試みる。
だがすぐにそれをやめた。

(防御なんかできるか! 腕がなくなるぞ!)

正文は自身を叱り飛ばしながら、新たな手段を講じる。
脳内に、燃え盛る火球をイメージした。

そのイメージを後頭部から打ち出して、精霊たちの力を借りる。
ここでいう精霊とは、空気中に漂うウイルスなどの極小構造体を指す。

そして先ほど防御を試みた左腕、その先にある左手を、スカーフェイスにかざして言い放った。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

正文は精霊魔法『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を使った。
左手から2センチ先に、彼がイメージした通りの『燃え盛る火球』が出現する。

火球はスカーフェイスめがけて飛んだ。
相手から接近してくれるおかげで、着弾までの距離はすこぶる近い。

しかし。

「おせェ!」

スカーフェイスは鋭く叫ぶと、正文の体を切り裂くはずだった爪で火球をひっかく。
親指を除く四指の先端にある爪が、火球を4つに切り分け霧散させた。

それだけではない。
突然、スカーフェイスの姿が消えたのだ。

「!?」

正文は敵の行方を探るため、周囲を見回そうとする。
その時だった。

「どこ見てんだ?」

やけに近くで、スカーフェイスの声が聞こえた。
それが左耳のすぐそばだと正文が認識した直後、左脚に激痛が走る。

「ぐああっ!」

正文はたまらずその場に座り込んだ。
左脚に目をやると、ズボンの外側面が血で赤く染まっている。

(こ、これは…!? 俺は一体、何をされたんだ?)

「ケッ」

正文の驚愕ぶりを見て、スカーフェイスがつまらなそうに吐き捨てる。
彼は攻撃態勢を解いてまっすぐに立ち、腕組みをしながら話し始めた。

「なんだよ、おい。話に聞いてたのと全然違うじゃねーか」

「…くっ…」

「それにテメェ、左目を『使えてねえ』な?」

「!?」

正文はぎょっとしてスカーフェイスを見る。
その表情には、「なぜそれがわかる?」という疑問がありありと浮き出ていた。

これにスカーフェイスはあきれてみせる。

「ずいぶんとナメられたもんだぜ。『名無し』のガキどもといっしょにすんなっての」

そう言うと彼は左を向く。
後方にいるv685へ、左肩越しに尋ねた。

「おいヴェー! コイツ、ぶっ殺しちまってもいいんだよなあ?」

「ムッ、ムホホ…ッ、少々お待ちを……」

v685は右手にタブレット端末を抱え、左手に持ったスタイラスペンで何やら書いている。
曲線の長さからして文字を書いているのではなく、絵を描いているようだ。

彼女は興奮した表情で、自身が描いているものをうわごとのように語った。

「チェインドとして一坂に送られながらもアンチェインドとなり、某タワマンまで制覇した期待の能力者…! それが、ネームド(名有り)の前にひざをついて今にも凌辱されつつある……ヒョホハ…ッ!」

「おい、テメェ…」

スカーフェイスの表情がうんざりしたものへと変わる。

「また『ビーエルボン』とかいうの描いてんのか。誰もこんなオッサンなんざりょーじょくしねえよ」

「いいのです、いいのです…! これはワタクシの妄想ですから……! じゅるっ」

v685はよだれをすすると、さらに情熱的な口調で自らの妄想を口にした。

「ああっ、このことをボスが知ったらどんな顔をするでしょう?」

声の高まりに比例して、タブレットの画面を走るペンの速度が上がる。

「丹精込めて調教したオモチャが別の男に汚されたと知った時、そこには間違いなく狂おしいまでの嫉妬と、そこはかとない『ねぬてーあーる』の快感が!」

「ボスまで巻き込んでんのかよ。テメェいつか処されるぞ」

「大丈夫です……! 仕事さえこなしていれば、ボスはワタクシの妄想など気にもしませんから…」

v685とスカーフェイスの間で、緊張感のない会話が続いた。

正文はこの隙に乗じ、メギと思念で話をする。
ただしこちらはかなり深刻だった。

(くそっ、思ったよりも傷が深い…!)

”まぁくん、痛さはボクが引き受けるよ! そしたら今まで通りに動けるし、反撃のチャンスだって作れるはず…”

(ダメだ! メギに痛い思いなんてさせられない!)

”でも”

(それに、メギに痛さを渡すと魔法が使えなくなる……俺ひとりじゃ、イメージしたものを後頭部から打ち出して精霊たちと反応させる、なんてこと…無理なんだよ)

”…あ…”

メギが落胆する。
彼女も、提案の致命的な欠陥を理解した。

正文ひとりでは、精霊魔法を使えない。
かといって正文の能力を使えば、蛇が彼自身を食ってしまう。

(ヤツの言った通りだ…俺は左目を使ってない。いや、使えなかった)

なぜなら左目は『蛇降ろし』によって蛇の力を得ている。
使ってしまえば、共食いによる消滅が進行してしまうかもしれない。

(鎖や鉄球、そして8匹の蛇に比べれば、左目で使うエネルギーは大したことない。でも俺はもう頭しか残ってない……こうして動けるのも、メギが俺と同化してくれてるからだ)

”まぁくん…”

(もし頭が変な食われ方をしたら、それだけで俺は『終わる』)

”!”

(死にはしないだろうけど、メギのことさえわからなくなる可能性がある……)

”…じゃあ、どうしたらいいの?”

(それがわからないんだよ…!)

正文は悔しげに唇を噛んだ。
鋭い痛みは左足からの激痛と競合するものの、互いに打ち消し合うことはない。

そして正文とメギが何も思いつかないまま時はすぎ、v685とスカーフェイスの会話も終わってしまった。

「…もういいか」

スカーフェイスがつぶやき、正文に顔を向ける。
彼は襲いかかった時とは打って変わって、冷たい声でこう言った。

「けっこう長いこと時間をやったつもりだが、反撃どころか何も言ってこねーとはなあ。興ざめもいいとこだぜ」

(じ、時間切れ…か…!)

正文の心が悔しさにまみれる。
事ここに至っても、窮地を脱するための策が思い浮かばない。

その一方で、スカーフェイスは淡々と語る。

「人殺しを探し出して何をするつもりだったかは知らねえ。だが、『名無し』のガキどもを逃がしたことから察するに、殺すなら人殺しだけにしようとか思ってんだろ。甘っちょろい野郎だ」

ここでスカーフェイスは何気なく、右足で正文を蹴り上げた。
正文の口から、小さくない悲鳴が漏れる。

「うぐっ!」

何気ない暴力は、スカーフェイスがそれだけ多くの修羅場をくぐってきた証だった。

「すぐには殺さねえ」

スカーフェイスはそう言うと、蹴り上げたことで天に向いた足を下ろす。
それは、正文が『名無し』たちを倒した後でやった動きとよく似ている。

スカーフェイスは、正文に当てつけてみせているのだ。
その上で、変わらぬ冷たい声で言葉を続けた。

「っていうか、『オレは殺さねえ』」

「な、なに……?」

正文が苦しげに息を吐き出しつつ問う。
これにスカーフェイスは、右手だけで『やれやれ』というジェスチャーをしながら答えた。

「テメェを殺すのは、テメェが今まで見逃してきた『名無し』のガキどもだ」

「…!」

「人殺しを探してたんだろ? だったら喜べよ。あいつらがテメェを殺して、人殺しになる。テメェが人殺しを生み出すんだ。ある意味これも、『キルメーカー』なのかもなあ」

スカーフェイスはそう言うと、口をわずかに開いて牙を見せた。
笑っているようだ。

キルメーカーの名前が出たことで、エージェントのv685が反応する。

「ムホホ…ッ、うまいこと言いますね」

「テメェにゃ言ってねーよ」

「これはしつれ…ムホッ!?」

v685の言い終わりに奇妙な声が混ざった。
それは妄想が高まり切ったことで生まれた奇声ではない。

驚愕を意味していた。

「なにッ!?」

スカーフェイスもほぼ同時に叫ぶ。
目の前にいたはずの正文が、突如として消えてしまったのだ。

「においがしねえだと? 一体どこに行きやがった!」

狼の嗅覚をもってしても行方はわからない。
そんな中、v685がいち早く冷静な顔になったかと思うと、

「…ムホホ…ッ」

何かを悟ったかのように、またも奇妙な笑い声をあげるのだった。


正文とメギはお菓子の家に戻っていた。
ふたりの拠点ともいえる場所である。

「な…?」

「えっ、どういうこと!?」

拠点であるにもかかわらず、なぜ戻ってこれたのかふたりにはわからない。
正文は頭部だけの状態に戻り、メギはそんな彼を小脇に抱えている。

そこへ、ある人物が声をかけてきた。

「ずいぶん探したでェ」

特徴的な方言を使うその人物は不機嫌そのものといった表情を浮かべ、右ひざを立てた状態でベッドに座っている。
正文とメギは同時に、相手の名前を口にした。

「「α7!」」

「久しぶりやなあ、ふたりとも」

名前を呼ばれてもα7の表情は変わらない。
彼女は出し抜けに話し始めた。

「10日ほど前のことや。いきなりミカガミに行けんくなってなあ…何が起こったのか調べようにも、誰も何もわからん。ボスが悪さしたんかと思ったけど、別にそういうわけやないらしい」

α7は、正文とメギを交互に見る。
正文が頭部だけで生きているのを目にしても、驚く様子はない。

彼女はそっけなく、正文に尋ねた。

「説明してもらおか」

「せ、説明って…何を」

正文が尋ね返す。
途端にα7が激高した。

「何をって全部に決まってるやろ! 全部説明せえ! ウチにはそれを知る権利がある! なんもなかったとは言わせへんで!」

α7は本気で怒っていた。
その怒りは、頭部だけの正文を見た驚きがかすむほど激しいものだった。

(…全部、って…)

彼女のまっすぐで力強い怒りに、正文は苦い表情になる。

(できるわけないだろ…! 全部説明するなんて無理だ! 七不思議たちもミカガミも、俺の蛇が食ってしまったなんて……!)

α7は他のエージェントたちとは違い、七不思議たちに対する支援を行っていた。
それを知っているからこそ、正文は何も言えずただうつむくのだった。


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ring.84 暗い決意

ring.84 暗い決意


お菓子の家とは、その名の通りお菓子でできた家のことである。
それは夜闇で黒く染まった廃屋の軒下に、ひっそりと建っていた。

表面に白い格子模様が入ったピンクの三角屋根はウエハース、茶色の壁はクッキー、透明な窓は水あめで構成されている。

大きさは、縦横高さがそれぞれ5センチほどしかない。
そんな小さな家の中に、どういうわけか正文とメギがいた。

メギはベッドの上に座っている。
そしてぴっちり閉じられた彼女の太ももの上に、頭部だけの正文が乗せられていた。

(プロフェッサーと戦ってた時、いきなり乱入してきたドラゴン…あれが……バルディルス……)

正文は神妙な表情で、あることを思い返す。
それは10日前にメギから説明された内容だった。

(バルディルスは、俺をあの場所から連れ出した。それまで俺はプロフェッサーと互角以上の戦いができてたけど、力を使いすぎたせいで…蛇たちに体を食われ始めていた…)

このままでは正文の存在自体が消滅する。
それを防ぐため、バルディルスは彼をミカガミへと運んだ。

ミカガミ内・夜の一坂小学校にいたメギと七不思議たちは、バルディルスから説明を受けた。
そして正文が消滅してしまうくらいならと、自分たちが身代わりになることを決意した。

(でも、メギと七不思議たちだけじゃ俺の消滅を止められない…だからみんなは、メギ以外の全てを…ミカガミまでも蛇たちに食わせることにした。それでどうにか、俺は……頭だけ……消えずにすんだ)

正文の表情が苦々しく歪む。
彼にとっては受け入れがたい内容だが、それでも認識力に関しては平時に近い状態にまで戻っていた。

メギから説明された当初はショックのあまり、聞いている間に記憶がたびたび飛んだ。
正文は内容を理解できず、何度も彼女に説明してくれと頼んだ。

これにメギはいやな顔ひとつせず、正文に請われるまま説明を繰り返した。
おかげで10日たった現在は、彼ひとりで内容を思い返せるほどになった。

(メギもつらかったはずなのに…)

正文は、何度も説明させたことを申し訳なく思いつつ、意識をメギへ向ける。
彼の頭頂部はメギの腹部側にあるため、メギが正文を見ていれば視界上部に彼女の顔が逆さまに映るはずだった。

しかしそこにメギの顔はない。

「むぁーっ! 今思い出してもイライラするーっ!」

メギが突然、クッキーの壁に向かって怒りを吐き出した。

「なんだよ! なんなんだよあのおじいさん! まぁくんに助けてもらったのに怒ったりしてさあ!」

どうやら昼間に遭遇した老人への怒りが爆発したようだ。

「あ、あはは…」

メギの激怒ぶりに正文は思わず苦笑する。
それが聞こえたようで、彼女が素早く見下ろしてきた。

「まぁくんはイライラしないの!?」

「え!?」

強い口調で問われ、正文は驚く。
少し考えてから、彼女にこう返した。

「う、うーん…イライラしても、しょうがないというか…」

「しょうがない? 何がしょうがないの?」

「あの人、狼のリアライザに殺されそうになってただろ。だから余裕がなかったんじゃないかな」

「余裕がなかった…」

メギは一瞬だけ冷静になる。
だが怒りはすぐに再燃した。

「そうだとしても! やっぱり怒るのはおかしいよ! ボク納得できない!」

「それは俺も同じさ」

「だったら!」

「だから言い返してやったんだよ。『次とかない』って」

「うう~」

メギは口をとがらせ、顔をしかめる。

怒っても仕方がないという正文の言い分を、彼女もわかってはいるのだ。
しかしどうにも怒りが収まらない。

「まぁくん!」

メギは両手を伸ばし、正文の頭を180度回転させてから持ち上げる。
互いの目の高さを同じにしてから、悔しげにこう言った。

「なんかボクだけイライラしてるのやだよお!」

「お、おい、メギ、いきなり回さないでくれ」

「まぁくんはあの人に言い返せてスッキリしただろうけど、ボクは言い返せないまんまなんだよ! どうしたらいいの?」

「それは……あっ」

正文はふと、メギの変化に気づく。
口元を見ながら彼女に尋ねた。

「メギ、マスクはどうしたんだ?」

「…マスク?」

メギがきょとんとした顔で問い返す。
先ほどまでの怒りは露と消え、代わりに軽い呆れの表情が現れた。

「マスクはもうしなくても大丈夫だ、って言ったよ。おとといくらいに」

「そ、そうだったか…ごめん、忘れちゃってたんだな俺」

正文はすまなそうに目を伏せる。
これを見たメギの顔から、軽い呆れが消えた。

「…まぁくん」

彼女はそっと、正文を胸に抱きしめる。

「まぁくんは、いっぱい…いっぱい、いろんなことを考えてるよね。あのおじいさんなんかよりよっぽど、余裕がないはずだよね」

「メギ…?」

「でもね、少なくともボクや七不思議たちのことは、気に病まないでほしいんだ」

「……」

「前にまぁくんの傷を治した時から、ボクたちはみんな『メギルェの皮膚細胞を持つ者同士』…だからこそまぁくんが消えるのを止められたし、今はボクとまぁくんとで『同化』できる。それにね」

メギの声は、まるで母親が子どもへ語りかけるかのように優しい。

「最初に説明した時、ボクが泣いたのは……七不思議のみんなやミカガミが消えてつらかったからじゃないんだ」

「それは…憶えてる」

「じゃあ、教えてくれる?」

「俺にそこまでさせたことが…つらかった」

「その通りだよ」

メギは、正文の髪に頬を寄せた。

「メギルェのために怒ってくれて、あの人と戦ってくれたのは嬉しかったけど、でも…なにもまぁくんがここまで苦しい思いをしなくても、って思ったんだ」

「ありがとうな、メギ」

「…うん」

「七不思議のみんなにも、メギルェにも…ミカガミにもありがとうだ」

「ちゃんと、伝わってるよ」

メギはそう言うと、ゆっくりとした動きで正文の髪から頬を離す。
頭だけの彼を持ち上げて、再び目線の高さを同じにしてから言葉を続けた。

「みんな、本当はいなくなったわけじゃないから。ひとつになっただけだから」

メギが微笑む。
瞳に涙をためたその笑顔はとても美しく、正文の中にあたたかな感情が芽生えそうになる。

だが、彼はそれを振り払った。

(メギに抱きしめられて思い出した…メギルェのにおいを)

メギの肌からかすかに立ち上る芳香が、メギルェとのファーストキスを思い起こさせた。
それは同時に、彼女のむごたらしい姿をも記憶の中心に持ってきた。

(俺は、みんなに助けてもらった命を使って人を食う)

暗い決意が、正文の目に宿る。

(食って食って食いまくって体を取り戻す。そして…今度こそあいつを倒して、メギルェを元に戻すんだ)

左右で瞳孔の形が違っても、思いの強さと激しさに違いはない。

「……」

メギは、正文に微笑みを向けたまま何も言わずにいる。
瞳にたまった涙が、音もなく頬を伝い落ちた。


正文は再び『チグサレ』となった。
その名は、血鎖の蛇を従えた人食いの化物を意味する。

ただし今は蛇をほとんど使わない。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

使うのは精霊魔法である。
これはメギルェが持つ素養であり、メギに受け継がれたものだった。

なぜ、メギに受け継がれたものを正文が活用できるのか。

”火の熱さを、もっとしっかり意識して! 魔力を後頭部から出すスピードも遅いよ!”

(先生は厳しいな)

昼間の正文は、頭部だけでなく胴体も四肢もしっかり存在していた。
その中を、メギの叱咤が駆け巡る。

”茶化さないで! 右からもくるよ!”

正文とメギはひとつに『同化』していた。
その証こそ、首元の黒いチョーカーだった。

(遅いからこそうまくいくってこともあるんじゃないのか、な!)

正文は、心で言い終わるタイミングで再び『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を放つ。
右手の先から火球が現れ、彼に飛びかかろうとしていた狼のリアライザに直撃した。

「ぎゃあああッ!」

狼のリアライザは地面に落下し、たまらずのたうち回る。
これは老人に襲いかかったものとは別の個体だった。

正文は狼のリアライザに近づくと、右手をかざす。
そして低い声で尋ねた。

「お前…人を殺したことはあるか?」

「うっ、ぐ、ぐぉおお」

「人を殺したことは?」

正文は声を強めて問い立てる。
すると、狼のリアライザが苦しげな息の下、小さく答えた。

「ね、ねえよ……」

「そうか」

正文は即座に相手の答えを受け入れた。
疑う様子など微塵もない。

これに驚いたのが狼のリアライザである。

「な…なんだよ、お前…そんなあっさり信じるのか」

「現行犯なら話は別だが、過去のことは知りようがない。だったら相手の言うことを信じるしかないだろう」

「敵の言葉を信じるってのか。バカじゃねえの……」

狼のリアライザが呆然とした様子で言う。
その直後だった。

「そんなに知りてえなら!」

「今からテメェを殺してやらあ!」

正文の左右後方から、2体の敵が飛びかかってきた。
2体とも狼のリアライザであり、呆然としている個体の仲間だった。

”まぁくん!”

体内にメギの声が響く。
正文はそれに向けて「わかってる!」と声で返事をした。

彼は素早く、太く大きな体を反時計回りにぐるりと回す。
そうしながら右足をピンとななめ上に伸ばした。

まるで丸太を振り回すかのような回し蹴りが、2体の敵をまとめてなぎ倒す。

「ぐあっ!?」

「おごぉっ!」

狼のリアライザ2体が地面に叩きつけられた。
彼らを背後に、正文は整然とした動きで右足を下ろす。

それはまるで、事前に殺陣の打ち合わせでもしていたかのような美しさだった。

(…元の体じゃ…こうはいかないな)

正文にとっても会心の出来だったのか、思わず笑みがこぼれる。
狼のリアライザ3体は、彼に恐れをなして逃げていった。

だが、まだここでの戦闘は終わらない。

「ムホホ…ッ、さすがですねえ……阿久津 正文さん」

奇妙な笑い声とともに、物陰から何者かが姿を現す。
それは全身に黒いスーツをまとった女だった。

「…え」

黒いスーツを着た人物といえば、殺人ギャンブル『キルメーカー』運営のエージェントである。
しかし正文は、この場にエージェントが現れたということよりも別の事実に驚いていた。

(で、でかい!)

エージェントの女は、明らかに正文より大きい。
正文も背が高い方なのだが、それよりもさらに大きかった。

おそらく2メートル近くはあるだろう。
横幅も長身に見合った太さで、並の男が肉弾戦で勝つことは難しいと感じさせる。

髪は闇色で長く、特に後ろ髪は腰まで伸びている。
奇妙な笑いとともに口が左右へ不気味に広がるのと猫背もあいまって、怪異の一種にすら見えた。

「申し遅れました……ワタクシ、エージェントの『v685(ゔぇー・ろくはちごー)』です。以後、お見知りおきを。ムホホ…ッ」

エージェントの女が陰気な物言いで名乗りを終える。
するとその後ろから、彼女よりもひと回り小さな狼のリアライザが現れた。

この個体は、他とは違って顔に傷がある。
傷は両目の間を、正文から見て左ななめ上から右ななめ下に刻まれていた。

「彼らは独自の価値観を持っておりまして…」

v685が左手で、新たなリアライザを示した。

「…人間だった頃の名前はすでに捨てたとのことです。彼らの中で名前を持てるのは、力を認められた者のみ」

「『スカーフェイス』だ」

狼のリアライザが、v685の話に割り込む。
そのまま会話の主導権を握った。

「人殺しもできねーようなガキに、名前なんかいらねえだろ?」

スカーフェイスはニヤリと笑ってみせる。
これに正文は険しい表情を返し、相手に確認しようとした。

「つまり、お前は…」

「テメェがご所望の、人殺しよ」

言うが早いか、スカーフェイスが地面を蹴る。
戦いの火ぶたは唐突に、切って落とされた。


→ring.85へ続く

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ring.83 弱者と強者

ring.83 弱者と強者


~第4部~


人気のない住宅街に、ふぞろいな足音が響く。
足音は2種類の異なる音で構成されていた。

耳をすませるまでもなく、どんな音かがわかる。
ひとつは靴底が道路表面のアスファルトをこする音、そしてもうひとつは何か固いものでアスファルトを突く音だった。

「…はあ、はあっ、ひぃ」

不規則で荒い呼吸が、足音に混ざる。
ひとりの老人が、息も絶えだえに走っている。

お世辞にも、足が速いとは言いがたい。
筋肉の落ちた太ももはほとんど上がっておらず、靴底が道路表面のアスファルトをこする。

両足を交互に前へ出す合間に、右手に持った杖でアスファルト突く。
それでやっと老人は前進していた。

杖は、歩くのを補佐する3本目の足としては機能しているものの、走るのには到底向かない。

「し…ひぃ、死にたく、ふぅっ、ない…!」

老人は必死に、何かから逃げていた。
そしてその何かは、みるみるうちに距離を詰めてくる。

「あっ!?」

老人が、何もないところでつまずいた。
太ももがほとんど上がっていなかったため、爪先を道路の表面に引っかけてしまったのだ。

彼はバランスを崩して転倒する。

「ううっ!」

杖をついているのでは受身のしようもない。
老人の体が道路に叩きつけられた。

倒れても、すぐに起き上がれれば逃走を再開できる。
背後に迫る何かに追いつかれずにすむ。

しかし悲しいかな、彼にはそれができない。
転倒した拍子に杖から手を離してしまったのだ。

「クククククク…」

笑い声が近い。
老人はついに追いつかれた。

逃げ続けていた何かに、追いつかれてしまったのである。

「もう鬼ごっこは終わりかあ? ジジイよぉ」

追跡者が老人に話しかける。
その姿は異様だった。

人語を操ってはいるが、全身が灰色の毛に覆われている。

何よりその顔が人間離れしていた。
鼻と口が前にせり出しており、狼のようである。

ただ、立ち姿は四つんばいではなかった。
人間と同じく2本の足で立っており、両手には鋭い爪がある。

人間と狼が混ざり合ったような存在。
つまりそれは狼のリアライザだった。

「こっちとしちゃあ、もっともっと走ったっていいんだぜ。なにしろ、体力がありあまってしょーがねえからなあ」

「はあ、ぜぇ…」

「どうしたあ? 息が切れてしゃべれねえってかあ? まったく、ジジイってのはクソだよなあ。つまりクソジジイだよなあ」

狼のリアライザは、自身の腰に両手を当てて上半身を前傾させる。
道路に倒れたまま立ち上がれない老人を、嘲笑しつつ眺める。

それから右腕を前に出すと、老人に向けて右手人差し指をのばしてみせた。

「…お前らは、今すぐにでも死ぬべき存在なんだぜ」

この言葉に嘲笑はない。
狼のリアライザは、途端に真剣な声で老人を非難する。

「生物学的、っつーのか? それでいうと、お前らはもう死んでるはずなんだ。生きてるわけがねーんだよ」

「う、うぅ」

「だからお前はここで死ぬ。何の意味もなくオレに殺される。それがお前の人生だ。それでお前の人生は終わりだ」

狼のリアライザはそう言うと、右手の人差し指以外の指もまっすぐに伸ばす。
それから右腕を後ろへ引いた。

「後悔するんだな。今まで長々と生きてきたことを」

狼のリアライザが老人のすぐそばにしゃがみ込む。
右手の先端に出そろった鋭い爪を、枯れた背中に突き刺そうとした。

その時──

「待て」

誰かがそう言った。
同時に、狼のリアライザの鼻先へ何かが突きつけられる。

それは杖の先端だった。
老人が転倒した拍子に思わず手を離した、あの杖だった。

「!?」

狼のリアライザはあわてて後ろに飛びのき、声のした方を見る。
そこには、太く大きな体の男が立っていた。

体のサイズだけでなく、首元にあるチョーカーも目を引く。
黒という色、そして幅のせまさもあって、それは首が切れた痕にも見えた。

「なんだてめェ!」

狼のリアライザが吠える。
すると、男は軽く首をかしげながらこう言った。

「最近の犬は、しつけがなってないんだな」

「なにィ…?」

「俺は『待て』と言ったんだ」

男は、杖の向きを横から縦に変える。
それから言葉の続きを口にした。

「後ろにさがっていいなんて言ってないぞ」

「誰が犬だ、誰がァ!」

狼のリアライザは怒り、両腕を開いて手指を鎌のように曲げる。
十指の先にある鋭い爪を、男に見せつけた。

「てめェもそこそこ老けてやがんなあ! 生物学的にはもう、死んでなきゃいけねーんじゃねーのか!」

「…だったら?」

「オレがぶっ殺してやんよお!」

言うが早いか、狼のリアライザが跳躍する。
男に襲いかかった。

「えーっと」

男は、杖を縦に構えたまま何やら考える。
全身毛むくじゃらの狼男が飛びかかってこようとしているにもかかわらず、あせるそぶりもない。

やがて考えがまとまったのか、男は狼のリアライザに向かって杖を振りかざした。

「!」

狼のリアライザは敏感に反応し、滞空中にもかかわらず体をひねって軌道を変える。
だが、何も起こらない。

「…? なにを…」

やろうとしていたんだ、と狼のリアライザが言おうとしたその時だった。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

男が精霊魔法の名前を言い放つ。
杖を振りかざしたタイミングから遅れに遅れて、バレーボール大の火球が飛び出した。

火球は、狼のリアライザが避けた先めがけて素早く飛ぶ。

「なんだとぉッ!?」

二度目の軌道変更は間に合わない。
火球が、狼のリアライザに直撃した。

「ぐわあああああッ!」

狼のリアライザは全身を火に包まれながら道路に落下した。
左右に転がって火を消そうとするも、体毛の長さが災いしてなかなか消えない。

やがて鎮火した頃には、上半身の毛がほとんどなくなってしまった。

「う、ぐ…うぐおお」

当然ながら火傷もひどく、先ほどまでのような素早い動きはもうできない。
そこへ男が近づいた。

「お前…」

杖を、刀剣の刃よろしく首元に当てる。
先ほどまでとはまるで違う、低い声で尋ねた。

「人を殺したことはあるか?」

「……誰かさんのせいで、たった今しくじった…ッ」

「そうか」

男は杖を下げた。
狼のリアライザに背を向けると、声の高さを戻してこう告げる。

「ハウス」

「…犬じゃねえ、って…言ってんだろ……!」

狼のリアライザは悔しげに反論するが、新たな攻撃をしかける気配はない。
体毛が燃え尽きるとともに、力も覇気も失われたようだ。

戦いは終わった。
狼のリアライザは、よろよろとふらつきながら逃げていった。

「…ふう」

男はため息をつく。
その後で老人に声をかけた。

「大丈夫ですか」

「なんで…」

「え?」

「なんで、殺さんかったんじゃ」

老人は、男をにらみながらそう言った。

男と狼のリアライザが戦っている間に起き上がったのだろう。
彼は道路にあぐらをかいている。

そしてその体勢で、まるで説教でもするかのように、男に怒りの言葉を叩きつけた。

「お前がヤツを逃がしたせいで、ヤツはまたワシを殺しにくる! 一体どうしてくれるんじゃ!」

「……あー、えっと…」

「次はちゃんと殺すんじゃぞ!」

「次?」

「なんじゃその不思議そうな顔は! 次にヤツが襲ってきた時に決まっとろうが! お前はヤツを逃がしたんじゃぞ、最後まで責任とらんかい!」

「すいませんけど」

男はにっこりと笑う。
その表情のまま、老人にこう回答した。

「次とか、ないです」

「なんじゃと!? そんなバカな話があるか! ワシが殺されてもいいっちゅーんか!」

「そうなったらもうしょうがないんじゃないですか」

男は何の危機感もなく、あっさりと言う。

「それがあなたの人生…その集大成、みたいなことなんでしょう」

「お、おい……! 本気で言うとるんじゃなかろうな」

ゴネ得を期待していた老人は、男の反応に青ざめる。
これに男は、穏やかな口調で次のように返した。

「命を助けてもらったっていうのに、ひと言の礼も言えない…そんな人が生きていられるほど、この場所は甘くないんです。おつかれさまでした」

太く大きな体の男──正文は、老人のかたわらにそっと杖を置く。
相手が言葉を失っても気にすることなく、その場を去っていった。


→ring.84へ続く

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