ring.83 弱者と強者
ring.83 弱者と強者
~第4部~
人気のない住宅街に、ふぞろいな足音が響く。
足音は2種類の異なる音で構成されていた。
耳をすませるまでもなく、どんな音かがわかる。
ひとつは靴底が道路表面のアスファルトをこする音、そしてもうひとつは何か固いものでアスファルトを突く音だった。
「…はあ、はあっ、ひぃ」
不規則で荒い呼吸が、足音に混ざる。
ひとりの老人が、息も絶えだえに走っている。
お世辞にも、足が速いとは言いがたい。
筋肉の落ちた太ももはほとんど上がっておらず、靴底が道路表面のアスファルトをこする。
両足を交互に前へ出す合間に、右手に持った杖でアスファルト突く。
それでやっと老人は前進していた。
杖は、歩くのを補佐する3本目の足としては機能しているものの、走るのには到底向かない。
「し…ひぃ、死にたく、ふぅっ、ない…!」
老人は必死に、何かから逃げていた。
そしてその何かは、みるみるうちに距離を詰めてくる。
「あっ!?」
老人が、何もないところでつまずいた。
太ももがほとんど上がっていなかったため、爪先を道路の表面に引っかけてしまったのだ。
彼はバランスを崩して転倒する。
「ううっ!」
杖をついているのでは受身のしようもない。
老人の体が道路に叩きつけられた。
倒れても、すぐに起き上がれれば逃走を再開できる。
背後に迫る何かに追いつかれずにすむ。
しかし悲しいかな、彼にはそれができない。
転倒した拍子に杖から手を離してしまったのだ。
「クククククク…」
笑い声が近い。
老人はついに追いつかれた。
逃げ続けていた何かに、追いつかれてしまったのである。
「もう鬼ごっこは終わりかあ? ジジイよぉ」
追跡者が老人に話しかける。
その姿は異様だった。
人語を操ってはいるが、全身が灰色の毛に覆われている。
何よりその顔が人間離れしていた。
鼻と口が前にせり出しており、狼のようである。
ただ、立ち姿は四つんばいではなかった。
人間と同じく2本の足で立っており、両手には鋭い爪がある。
人間と狼が混ざり合ったような存在。
つまりそれは狼のリアライザだった。
「こっちとしちゃあ、もっともっと走ったっていいんだぜ。なにしろ、体力がありあまってしょーがねえからなあ」
「はあ、ぜぇ…」
「どうしたあ? 息が切れてしゃべれねえってかあ? まったく、ジジイってのはクソだよなあ。つまりクソジジイだよなあ」
狼のリアライザは、自身の腰に両手を当てて上半身を前傾させる。
道路に倒れたまま立ち上がれない老人を、嘲笑しつつ眺める。
それから右腕を前に出すと、老人に向けて右手人差し指をのばしてみせた。
「…お前らは、今すぐにでも死ぬべき存在なんだぜ」
この言葉に嘲笑はない。
狼のリアライザは、途端に真剣な声で老人を非難する。
「生物学的、っつーのか? それでいうと、お前らはもう死んでるはずなんだ。生きてるわけがねーんだよ」
「う、うぅ」
「だからお前はここで死ぬ。何の意味もなくオレに殺される。それがお前の人生だ。それでお前の人生は終わりだ」
狼のリアライザはそう言うと、右手の人差し指以外の指もまっすぐに伸ばす。
それから右腕を後ろへ引いた。
「後悔するんだな。今まで長々と生きてきたことを」
狼のリアライザが老人のすぐそばにしゃがみ込む。
右手の先端に出そろった鋭い爪を、枯れた背中に突き刺そうとした。
その時──
「待て」
誰かがそう言った。
同時に、狼のリアライザの鼻先へ何かが突きつけられる。
それは杖の先端だった。
老人が転倒した拍子に思わず手を離した、あの杖だった。
「!?」
狼のリアライザはあわてて後ろに飛びのき、声のした方を見る。
そこには、太く大きな体の男が立っていた。
体のサイズだけでなく、首元にあるチョーカーも目を引く。
黒という色、そして幅のせまさもあって、それは首が切れた痕にも見えた。
「なんだてめェ!」
狼のリアライザが吠える。
すると、男は軽く首をかしげながらこう言った。
「最近の犬は、しつけがなってないんだな」
「なにィ…?」
「俺は『待て』と言ったんだ」
男は、杖の向きを横から縦に変える。
それから言葉の続きを口にした。
「後ろにさがっていいなんて言ってないぞ」
「誰が犬だ、誰がァ!」
狼のリアライザは怒り、両腕を開いて手指を鎌のように曲げる。
十指の先にある鋭い爪を、男に見せつけた。
「てめェもそこそこ老けてやがんなあ! 生物学的にはもう、死んでなきゃいけねーんじゃねーのか!」
「…だったら?」
「オレがぶっ殺してやんよお!」
言うが早いか、狼のリアライザが跳躍する。
男に襲いかかった。
「えーっと」
男は、杖を縦に構えたまま何やら考える。
全身毛むくじゃらの狼男が飛びかかってこようとしているにもかかわらず、あせるそぶりもない。
やがて考えがまとまったのか、男は狼のリアライザに向かって杖を振りかざした。
「!」
狼のリアライザは敏感に反応し、滞空中にもかかわらず体をひねって軌道を変える。
だが、何も起こらない。
「…? なにを…」
やろうとしていたんだ、と狼のリアライザが言おうとしたその時だった。
「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」
男が精霊魔法の名前を言い放つ。
杖を振りかざしたタイミングから遅れに遅れて、バレーボール大の火球が飛び出した。
火球は、狼のリアライザが避けた先めがけて素早く飛ぶ。
「なんだとぉッ!?」
二度目の軌道変更は間に合わない。
火球が、狼のリアライザに直撃した。
「ぐわあああああッ!」
狼のリアライザは全身を火に包まれながら道路に落下した。
左右に転がって火を消そうとするも、体毛の長さが災いしてなかなか消えない。
やがて鎮火した頃には、上半身の毛がほとんどなくなってしまった。
「う、ぐ…うぐおお」
当然ながら火傷もひどく、先ほどまでのような素早い動きはもうできない。
そこへ男が近づいた。
「お前…」
杖を、刀剣の刃よろしく首元に当てる。
先ほどまでとはまるで違う、低い声で尋ねた。
「人を殺したことはあるか?」
「……誰かさんのせいで、たった今しくじった…ッ」
「そうか」
男は杖を下げた。
狼のリアライザに背を向けると、声の高さを戻してこう告げる。
「ハウス」
「…犬じゃねえ、って…言ってんだろ……!」
狼のリアライザは悔しげに反論するが、新たな攻撃をしかける気配はない。
体毛が燃え尽きるとともに、力も覇気も失われたようだ。
戦いは終わった。
狼のリアライザは、よろよろとふらつきながら逃げていった。
「…ふう」
男はため息をつく。
その後で老人に声をかけた。
「大丈夫ですか」
「なんで…」
「え?」
「なんで、殺さんかったんじゃ」
老人は、男をにらみながらそう言った。
男と狼のリアライザが戦っている間に起き上がったのだろう。
彼は道路にあぐらをかいている。
そしてその体勢で、まるで説教でもするかのように、男に怒りの言葉を叩きつけた。
「お前がヤツを逃がしたせいで、ヤツはまたワシを殺しにくる! 一体どうしてくれるんじゃ!」
「……あー、えっと…」
「次はちゃんと殺すんじゃぞ!」
「次?」
「なんじゃその不思議そうな顔は! 次にヤツが襲ってきた時に決まっとろうが! お前はヤツを逃がしたんじゃぞ、最後まで責任とらんかい!」
「すいませんけど」
男はにっこりと笑う。
その表情のまま、老人にこう回答した。
「次とか、ないです」
「なんじゃと!? そんなバカな話があるか! ワシが殺されてもいいっちゅーんか!」
「そうなったらもうしょうがないんじゃないですか」
男は何の危機感もなく、あっさりと言う。
「それがあなたの人生…その集大成、みたいなことなんでしょう」
「お、おい……! 本気で言うとるんじゃなかろうな」
ゴネ得を期待していた老人は、男の反応に青ざめる。
これに男は、穏やかな口調で次のように返した。
「命を助けてもらったっていうのに、ひと言の礼も言えない…そんな人が生きていられるほど、この場所は甘くないんです。おつかれさまでした」
太く大きな体の男──正文は、老人のかたわらにそっと杖を置く。
相手が言葉を失っても気にすることなく、その場を去っていった。
→ring.84へ続く
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~第4部~
人気のない住宅街に、ふぞろいな足音が響く。
足音は2種類の異なる音で構成されていた。
耳をすませるまでもなく、どんな音かがわかる。
ひとつは靴底が道路表面のアスファルトをこする音、そしてもうひとつは何か固いものでアスファルトを突く音だった。
「…はあ、はあっ、ひぃ」
不規則で荒い呼吸が、足音に混ざる。
ひとりの老人が、息も絶えだえに走っている。
お世辞にも、足が速いとは言いがたい。
筋肉の落ちた太ももはほとんど上がっておらず、靴底が道路表面のアスファルトをこする。
両足を交互に前へ出す合間に、右手に持った杖でアスファルト突く。
それでやっと老人は前進していた。
杖は、歩くのを補佐する3本目の足としては機能しているものの、走るのには到底向かない。
「し…ひぃ、死にたく、ふぅっ、ない…!」
老人は必死に、何かから逃げていた。
そしてその何かは、みるみるうちに距離を詰めてくる。
「あっ!?」
老人が、何もないところでつまずいた。
太ももがほとんど上がっていなかったため、爪先を道路の表面に引っかけてしまったのだ。
彼はバランスを崩して転倒する。
「ううっ!」
杖をついているのでは受身のしようもない。
老人の体が道路に叩きつけられた。
倒れても、すぐに起き上がれれば逃走を再開できる。
背後に迫る何かに追いつかれずにすむ。
しかし悲しいかな、彼にはそれができない。
転倒した拍子に杖から手を離してしまったのだ。
「クククククク…」
笑い声が近い。
老人はついに追いつかれた。
逃げ続けていた何かに、追いつかれてしまったのである。
「もう鬼ごっこは終わりかあ? ジジイよぉ」
追跡者が老人に話しかける。
その姿は異様だった。
人語を操ってはいるが、全身が灰色の毛に覆われている。
何よりその顔が人間離れしていた。
鼻と口が前にせり出しており、狼のようである。
ただ、立ち姿は四つんばいではなかった。
人間と同じく2本の足で立っており、両手には鋭い爪がある。
人間と狼が混ざり合ったような存在。
つまりそれは狼のリアライザだった。
「こっちとしちゃあ、もっともっと走ったっていいんだぜ。なにしろ、体力がありあまってしょーがねえからなあ」
「はあ、ぜぇ…」
「どうしたあ? 息が切れてしゃべれねえってかあ? まったく、ジジイってのはクソだよなあ。つまりクソジジイだよなあ」
狼のリアライザは、自身の腰に両手を当てて上半身を前傾させる。
道路に倒れたまま立ち上がれない老人を、嘲笑しつつ眺める。
それから右腕を前に出すと、老人に向けて右手人差し指をのばしてみせた。
「…お前らは、今すぐにでも死ぬべき存在なんだぜ」
この言葉に嘲笑はない。
狼のリアライザは、途端に真剣な声で老人を非難する。
「生物学的、っつーのか? それでいうと、お前らはもう死んでるはずなんだ。生きてるわけがねーんだよ」
「う、うぅ」
「だからお前はここで死ぬ。何の意味もなくオレに殺される。それがお前の人生だ。それでお前の人生は終わりだ」
狼のリアライザはそう言うと、右手の人差し指以外の指もまっすぐに伸ばす。
それから右腕を後ろへ引いた。
「後悔するんだな。今まで長々と生きてきたことを」
狼のリアライザが老人のすぐそばにしゃがみ込む。
右手の先端に出そろった鋭い爪を、枯れた背中に突き刺そうとした。
その時──
「待て」
誰かがそう言った。
同時に、狼のリアライザの鼻先へ何かが突きつけられる。
それは杖の先端だった。
老人が転倒した拍子に思わず手を離した、あの杖だった。
「!?」
狼のリアライザはあわてて後ろに飛びのき、声のした方を見る。
そこには、太く大きな体の男が立っていた。
体のサイズだけでなく、首元にあるチョーカーも目を引く。
黒という色、そして幅のせまさもあって、それは首が切れた痕にも見えた。
「なんだてめェ!」
狼のリアライザが吠える。
すると、男は軽く首をかしげながらこう言った。
「最近の犬は、しつけがなってないんだな」
「なにィ…?」
「俺は『待て』と言ったんだ」
男は、杖の向きを横から縦に変える。
それから言葉の続きを口にした。
「後ろにさがっていいなんて言ってないぞ」
「誰が犬だ、誰がァ!」
狼のリアライザは怒り、両腕を開いて手指を鎌のように曲げる。
十指の先にある鋭い爪を、男に見せつけた。
「てめェもそこそこ老けてやがんなあ! 生物学的にはもう、死んでなきゃいけねーんじゃねーのか!」
「…だったら?」
「オレがぶっ殺してやんよお!」
言うが早いか、狼のリアライザが跳躍する。
男に襲いかかった。
「えーっと」
男は、杖を縦に構えたまま何やら考える。
全身毛むくじゃらの狼男が飛びかかってこようとしているにもかかわらず、あせるそぶりもない。
やがて考えがまとまったのか、男は狼のリアライザに向かって杖を振りかざした。
「!」
狼のリアライザは敏感に反応し、滞空中にもかかわらず体をひねって軌道を変える。
だが、何も起こらない。
「…? なにを…」
やろうとしていたんだ、と狼のリアライザが言おうとしたその時だった。
「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」
男が精霊魔法の名前を言い放つ。
杖を振りかざしたタイミングから遅れに遅れて、バレーボール大の火球が飛び出した。
火球は、狼のリアライザが避けた先めがけて素早く飛ぶ。
「なんだとぉッ!?」
二度目の軌道変更は間に合わない。
火球が、狼のリアライザに直撃した。
「ぐわあああああッ!」
狼のリアライザは全身を火に包まれながら道路に落下した。
左右に転がって火を消そうとするも、体毛の長さが災いしてなかなか消えない。
やがて鎮火した頃には、上半身の毛がほとんどなくなってしまった。
「う、ぐ…うぐおお」
当然ながら火傷もひどく、先ほどまでのような素早い動きはもうできない。
そこへ男が近づいた。
「お前…」
杖を、刀剣の刃よろしく首元に当てる。
先ほどまでとはまるで違う、低い声で尋ねた。
「人を殺したことはあるか?」
「……誰かさんのせいで、たった今しくじった…ッ」
「そうか」
男は杖を下げた。
狼のリアライザに背を向けると、声の高さを戻してこう告げる。
「ハウス」
「…犬じゃねえ、って…言ってんだろ……!」
狼のリアライザは悔しげに反論するが、新たな攻撃をしかける気配はない。
体毛が燃え尽きるとともに、力も覇気も失われたようだ。
戦いは終わった。
狼のリアライザは、よろよろとふらつきながら逃げていった。
「…ふう」
男はため息をつく。
その後で老人に声をかけた。
「大丈夫ですか」
「なんで…」
「え?」
「なんで、殺さんかったんじゃ」
老人は、男をにらみながらそう言った。
男と狼のリアライザが戦っている間に起き上がったのだろう。
彼は道路にあぐらをかいている。
そしてその体勢で、まるで説教でもするかのように、男に怒りの言葉を叩きつけた。
「お前がヤツを逃がしたせいで、ヤツはまたワシを殺しにくる! 一体どうしてくれるんじゃ!」
「……あー、えっと…」
「次はちゃんと殺すんじゃぞ!」
「次?」
「なんじゃその不思議そうな顔は! 次にヤツが襲ってきた時に決まっとろうが! お前はヤツを逃がしたんじゃぞ、最後まで責任とらんかい!」
「すいませんけど」
男はにっこりと笑う。
その表情のまま、老人にこう回答した。
「次とか、ないです」
「なんじゃと!? そんなバカな話があるか! ワシが殺されてもいいっちゅーんか!」
「そうなったらもうしょうがないんじゃないですか」
男は何の危機感もなく、あっさりと言う。
「それがあなたの人生…その集大成、みたいなことなんでしょう」
「お、おい……! 本気で言うとるんじゃなかろうな」
ゴネ得を期待していた老人は、男の反応に青ざめる。
これに男は、穏やかな口調で次のように返した。
「命を助けてもらったっていうのに、ひと言の礼も言えない…そんな人が生きていられるほど、この場所は甘くないんです。おつかれさまでした」
太く大きな体の男──正文は、老人のかたわらにそっと杖を置く。
相手が言葉を失っても気にすることなく、その場を去っていった。
→ring.84へ続く
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