魔人の記 -3ページ目

第3部登場人物と独自用語

◯第3部(ring.68~ring.82)登場人物

 ・プロフェッサー(ぷろふぇっさー):人殺しのギャンブル『キルメーカー』の主催者。医療用の白衣を黒く染め抜いた『黒衣』を着用している。自らを『この星の荷姿』と豪語してはばからず、またその傲慢さにふさわしい最強の能力『変化』を持つ。

 ・M国財務次官(えむこくざいむじかん):キルメーカーの顧客で、M国という国の経済を取り仕切る最高責任者。国庫から5兆7000億を勝手に持ち出した上、キルメーカーで全額スッてしまう。

 ・分隊長(ぶんたいちょう):M国軍に所属する軍人。彼を含めた12人をひとつとする分隊の隊長。M国の政治腐敗を苦々しく思いつつも上層部の命令には逆らえず、財務次官のボディーガードを務める。


 ・幼い正文(おさないまさふみ):10歳ぐらいの頃の正文。現在の正文は、ちょうどこの頃の記憶を失っていた。かなりわんぱくだったらしく、用もないのにインターホンを鳴らして逃げる『ピンポンダッシュ』というイタズラをしていた。

 ・少女と化した少年(しょうじょとかしたしょうねん):幼い正文が出会い、ともに遊んだ少年のこと。川原で大人の本を一緒に読んだり、木から下りられなくなった子猫を助けてほしいと幼い正文に頼んだりした。後述のメギルェ。

 ・メギルェ(めぎるぇ):前述の、少女と化した少年。両性具有であることに加え、強い感情などの精神的作用により身体が男性にも女性にも変化する。幼い正文と出会った当初は少年だったが、のちに少女となり性別が女性で固定された。


 ・巨大な竜(きょだいなりゅう):球体状の部屋に突如として現れた謎の存在。

 ・人間らしくない声の主(にんげんらしくないこえのぬし):正文がお菓子の家で目覚めたばかりの頃に聞いた声の主。ほぼ間違いなく人間ではない。

 ・穏やかな声の主(おだやかなこえのぬし):正文がお菓子の家で目覚めたばかりの頃に聞いた声の主。人間らしくない声の主と何やら交渉していた。


 ・バルディルス(ばるでぃるす):メギによると、正文をお菓子の家にかくまっている人物らしい。


※ほぼ初登場順。
登場以降どうなったかはここで述べない。本編をお楽しみに!


□独自用語

 ・『変化(へんか)』:プロフェッサーの能力。その名の通り全てを変化させられる最強の力。これによりプロフェッサーはすでに不老不死を得ている。物理法則は元より生死すらも超越できる。

 ・『大地の鎖(だいちのくさり)』:この星に罰を与えるため、プロフェッサーが必要とする何か。メギルェが生み出せるようだが、そのためにはメギルェの性を女性で固定させなければならない。

 ・桜色のマスク(さくらいろのますく):正文がお菓子の家で目覚めた時にメギが装着していたマスク。左下部分には小花の顔がプリントされている。


 ・お菓子の家(おかしのいえ):正文が目覚めた謎の場所。彼の他にメギと穏やかな声の主もいたが、正文がまぶたを開ける前に穏やかな声の主は姿を消した。明らかに砂糖を由来とする甘い香りが漂う。甘党にとっては夢のような場所かもしれない。


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ring.82 喪失

ring.82 喪失


甘い香りがする。

花が発する芳香に、甘さを感じているわけではない。
砂糖を由来とする『本当に甘い何か』が、すぐ近くにある。

(…なんだ…?)

正文はまぶたを閉じているため、その正体がわからない。
彼はつい先ほど、暗い睡眠の闇から自身の意識を拾い上げたばかりだった。

現状を把握するため、正文はまぶたを開けようとする。
その時、離れた場所から誰かの話し声が聞こえてきた。

「……ソロソロ イイカ?」

およそ人間の声ではない。
正文はぎょっとしてまぶたから力を抜いた。

(起きてるってバレたら、もしかしてヤバいか?)

本能が危機を察知したのか、一瞬でそんなことを考える。
まぶたを開けるのはひとまず中止し、注意深く耳をそばだてた。

すると今度は、別の誰かの声が聞こえる。

「もうちょっとだけ、待っていただけませんかねえ」

こちらは人間らしい声であり、聞いているだけで気持ちが休まるほど穏やかな響きを持っていた。
どうやらこの人物が、人間らしくない声の主と会話しているようだ。

正文が盗み聞きをしているとも知らず、両者の話は続く。

「まだ寝ている人がいるんですよ」

「モウ ジュウブン マッタ。 ソイツ タタキオコセ」

「ひどいケガを負っているので、そうもいきません。オマケをつけますので、どうか」

「ムウ…」

人間らしくない声の主が考え込む。
そこへ、穏やかな声の主がささやくようにこう言った。

「ステイヤーヴィルのソーセージ」

「! ナ ナニッ」

「しかも1本丸ごと」

「ナンダトォッ!?」

「…いかがです? もうちょっと待っていただけませんかねえ」

「ショ ショウガナイ ナ… モウチョット ダケ マッテヤル」

「ありがとうございます」

どうやら話はまとまったらしい。
穏やかな声の主と人間らしくない声の主が締めの挨拶を交わした後、ドアの閉まる音がした。

そして誰かの足音が近づいてくる。

(ど、どっちなんだこれは…!?)

正文は今もまぶたを閉じたままであり、状況がわからない。
しかも意識を取り戻したばかりで冷静な思考ができずにいた。

自分に近づいてきているのが、もし人間らしくない声の主だったらどうすればいいのか。
そんなことを考えてとまどっている。

やがて足音は正文のすぐ近くで止まった。

「じゃあ、私はこれで」

穏やかな声が聞こえる。
かと思うと、さらに近くで別の誰かが短く返事をした。

「はい」

(…えっ?)

正文は驚く。
別の誰かの声が、あまりにも近かったのだ。

そばにいるどころではなく、密着している。
そう考えなければつじつまが合わないほど、返事が聞こえた場所は近い。

このことに関して正文が何か考えようとする前に、小さな風が起こった。
穏やかな声がしたあたりから起こったその風はすぐに止み、静寂が訪れる。

その静寂を、あまりに近い声が破った。

「まぁくん」

「!」

正文は、自分を呼ぶ優しい声に、思わずまぶたを開く。
相手の顔を認識すると同時に、名前を口にした。

「メギ…!?」

正文に密着している誰かとは、メギだった。
その顔は、正文の視界内で上下逆になっている。

どうやらメギに見下ろされているようだが、なぜ上下逆なのかはわからない。
ただそんな状態でも、正文はメギの顔に起こった変化をすぐに感じ取れた。

目元を隠していた3つのコブは全て消え失せ、顔の中心を境に女性と男性に分かれていた顔が女性のみになっている。

それだけでなく、メギの口元には桜色のマスクがあった。
マスクの左下、つまり正文から向かって右上には小花の顔がプリントされている。

「……?」

正文の顔は驚愕の表情で固まった。
まぶたを開く前も状況がわからなかったが、開いても状況がわからない。

一方、メギは嬉しそうに微笑んだ。

「完全に女の子になってマスクもしてるのに、ボクってわかってくれたんだね」

「え? あ、ああ…」

言われてみればそうだなと、正文は表情を驚愕から不思議そうなものへと切り替える。
彼は自分でも、なぜ相手がメギだとすぐにわかったのか理解できなかった。

しかし最もわからないのは今の状況である。
正文は素直に、メギに尋ねた。

「こ…ここはどこなんだ? なんかそこら中、甘いにおいがするけど…」

「ここはお菓子の家だよ」

「お菓子の家?」

「バルディルスがかくまってくれてるんだ」

「ばるでぃるす…?」

メギに答えてもらったはいいが、正文にはわけがわからない。
彼は数秒考えた後で、質問の切り口を変えてみた。

「なあ、メギ…なんで俺はお菓子の家にかくまわれてるんだ?」

「えっ?」

「えっ、て……なんだよその驚き」

「もしかしてまぁくん、自分が今どうなってるかわかってない?」

「俺が今、どうなってるって?」

「あのね…」

メギが懐から何かを取り出す。
それは小さな鏡だった。

彼女はその鏡で正文を映す。

「ん?」

正文は鏡に目を向ける。
すぐに自分の顔を見つけた。

鏡中の正文は、メギがなぜ鏡など見せるのかわからず、不思議そうな表情をしている。

「俺の顔なんか映してどうするん……」

どうするんだと正文が言いかけたところで、メギが鏡を遠ざけた。
鏡の中に、正文の顔だけでなくメギの太ももが映る。

それだけだった。

「………」

それ以外は、何もない。

「……ん?」

鏡に映る正文の顔が、不思議そうな表情から疑問のそれに変わる。
彼は一度鏡から視線を外し、3秒ほど考えてからもう一度鏡を見た。

やはり、鏡の中には正文の顔とメギの太ももしかない。

「なんか…おかしいな?」

「あのね、まぁくん」

たまりかねたメギが口を挟む。

「ボク、本当に嬉しかったんだ。まぁくんがメギルェのために本気で怒ってくれて」

「…え?」

「それも、ただ怒るだけじゃなくてあの人と戦ってくれた。あの人には誰も勝てない。あの人は本当の意味で無敵…でもまぁくんは本気で怒って、戦ってくれた。でもね」

彼女の声が震え出す。

「そのせいで、まぁくんは力を使いすぎてしまったの。エネルギーを全然補給しないまま、力を使いすぎてしまったんだよ」

「…ま、まさか…!」

正文は青ざめる。
鏡の中にいる自分を正視した。

そこには正文の頭部だけがある。
胴体と四肢がどこにも見当たらない。

「俺は…蛇たちに、食われた…のか?」

正文は、人としての死を食らい尽くしたことで『血鎖の蛇』の能力を得た。
これは体から最大8匹の蛇を出現させ敵を食らうというもので、圧倒的な力を得る代わりに大きなデメリットを負う。

それがエネルギー補給である。
血肉だけでなく強い精神的エネルギーも必要で、これが十分でないと蛇たちは正文の体を食い始めてしまうのだ。

つまり正文は、プロフェッサーとの戦いで何の補給もなく力を使いすぎたために、頭部以外の全てを蛇たちに食われてしまったらしい。

「……そうか…」

正文は、沈んだ表情を見せつつも納得する。

「メギに言われて思い出したけど、確かに…ヤツとの戦いでは、今までにない力の使い方をしていたと思う。そうか、俺は…蛇たちに食われて……」

「まぁくんだけじゃないの」

「…え?」

「気づかない? ボク、まぁくんに鏡を見せてるんだよ」

「鏡…」

「『合わせ鏡』が起これば、まぁくんはミカガミに行けるはずだよね。でも」

「……!?」

メギの言葉に、正文は愕然とする。
何かを言いかけたが、唇が震えるだけで言葉が出ない。

そこへ、メギが言葉の続きを口にした。

「ミカガミにはもう行けないの」

「…な…?」

「ミカガミはなくなっちゃったんだ…まぁくんの蛇が、みんな食べちゃった」

「お、おい…? 何を言ってる?」

「他のみんなももういない」

メギの両目から涙がこぼれる。
マスクの桜色が、一部だけ濃くなった。

「だけどね、そうしないとまぁくんが全部なくなっちゃうから…しょうがなかったんだよ…」

「……!」

突如として告げられた事実に、正文は言葉を失う。

『変化』を超えた代償。
その大きさを彼が実感するには、もうしばらくの時間が必要だった。


~第3部終了~

→ring.83へ続く

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ring.81 『変化』と『異変』

ring.81 『変化』と『異変』


奇妙なことが起こっていた。

「なん…だ…! これは……」

プロフェッサーが苦しげに声を絞り出す。
彼は今、床に右ひざをついている。

「こん、な、こと…は…!」

ありえない。

そう言いたいのだが、口が動かない。
動かせなかった。

プロフェッサーは先ほど、正文の頭を『変化』の力を使って踏みつぶした。
その結果、床についた右ひざのすぐそばにまで正文の血液が迫っている。

正文はすでに人間としての死を食い尽くした存在だが、その肉体には人間だったころの性質が色濃く残っている。
つまり、彼の血液であるなら赤くなければおかしい。

だが、プロフェッサーの両目が映すそれは、赤くなかった。
白と無色の間ともいうべき、虚ろな色をしていた。

「うぐぅう」

プロフェッサーがうめく。
その体勢がさらに低くなる。

足の力が抜けて、前へ倒れそうになった。

「いかん!」

彼はとっさに『変化』の力を使い、『力が抜けるという状況を変化』させる。
床に突っ伏すという事態はどうにか防いだ。

しかしまだ立ち上がれない。

「どういう、ことだ…!」

プロフェッサーの視界は、『変化』の力を使った時にわずかだけ色を取り戻していた。
だがそれも、秒が過ぎるごとに再び色を失いつつある。

そこへ、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「アヤマレ」

正文の声である。
プロフェッサーによって頭をつぶされたというのに、その声はしっかりと空気を震わせていた。

過去の記憶を見ていた時のような、思念の交換ではない。
普段と同じように発声しているのだ。

驚きべき出来事はさらに続く。

プロフェッサーのすぐそばに白い何かが現れ、ゆっくりと離れた。
この何かは他の物体と違い、色を失って白っぽく見えているわけではない。

明確な白色を持っていた。
そしてその形は、ある動物と同一だった。

「し、白猫…だと……!?」

プロフェッサーは信じられないといった様子で、とぎれとぎれの言葉を投げる。
それが聞こえたのか、白猫が振り返った。

「……」

白猫は2秒ほどプロフェッサーを見たが、すぐに背を向ける。
その態度には、興味の類がまるで感じられない。

名前を呼ばれた気がしたから振り返ってはみたが、取るに足らぬ相手だと知って顔をそむける。
そういう動作だった。

これにプロフェッサーは歯噛みする。

「…ヤツから引きはがした『力』、が……ヤツに、戻るというのか…!」

プロフェッサーは白猫について、正文の能力ではないと言っていたがそれは嘘だった。
正文から力を奪いつつ彼に精神的ショックを与えるため、『変化』の力を使って引きはがしたのである。

「………」

プロフェッサーの悔しげな言葉をよそに、白猫は血だまりの上を悠々と歩く。
胴体と同じく白い四肢は血に汚れることなく、正文の眼球付近で止まった。

そこで白猫の姿が消える。
直後、新たな異変が起こった。

「アヤマレ」

「アヤマレ」

正文の声が、増えた。
発生源ならぬ発声源が増加したのである。

発声源は目に見えない。
そしてこの『変化』は、当然ながらプロフェッサーが起こしたものではなかった。

「アヤマレ」

「アヤマレ」

「メギルェ二、アヤマレ」

方向は単一ではなく、四方八方から聞こえてきた。
声の中には『メギルェ二』という目的語を発するものも現れる。

これらに対し、プロフェッサーは険しい表情でこんな言葉を返した。

「そんなはずは、ない…ッ!」

否定である。

「ありえない! こんなことが……!」

それは現状の否定だった。
相手の行動に対する嘲笑ではなかった。

「アヤマレ」

「アヤマレ」

正文の声はさらに数を増し、プロフェッサーに謝罪を要求する。
ふぞろいだったタイミングが少しずつそろっていく。

やがてそれは斉唱のようになった。
同じ声が同じ音で積み重なり、音量と音圧が飛躍的に増加する。

次の瞬間、声たちはひときわ強く言い放った。

「アヤマレ!」

「うぉおっ!?」

右ひざをついた状態では、声たちが生み出す衝撃に耐えられない。
プロフェッサーは後ろへ転倒する。

先ほどは『変化』の力を使ってまで倒れるのを防いだというのに、声たちの一喝がその努力をあっけなく無駄にした。
ただし、このことはプロフェッサーにとって悪いことばかりでもなかった。

「……!」

彼の体に力が戻る。
視界に映る全てのものに色が戻った。

自身の回復を認識したプロフェッサーはすぐさま体を起こす。
すると前方4メートルほど先に、太く大きな何かが立っているのがわかった。

「…プロフェッサー」

その何かが、落ち着いた口調で語る。

「メギルェに謝ってもらうぞ」

太く大きな何かとは、正文だった。

プロフェッサーの『変化』によって蛇たちごと輪切りにされ、頭をつぶされたはずの正文が、何事もなかったかのように立っている。

しかもただ立っているのではない。
プロフェッサーを見下ろし、あまつさえ右手人差し指の先端を彼に向けている。

それはあまりにも鮮やかに、両者の立場が逆転したことを示していた。

「あ、くつ…まさふみィ……!」

プロフェッサーは怒りに顔を歪ませる。
かと思うと、突然笑い出した。

「ハハハハハッ、まだ言うか! 私が謝ったところで何も変わらんよ! お前は人生に失敗したまま、何も取り戻すことなく死ぬのだ!」

「俺のことなんかどうでもいい。メギルェに謝れ」

「メギルェ? メギルェだと? 彼女は私の娘であり、私は彼女の父親だ! 私とメギルェのことに、他人のお前が口を挟むな!」

「家族だろうと他人は他人だ。ひどいことをしていいことにはならない」

「それにメギルェは、私の役に立てて喜んでいる! 子どもとはそういうものだ。親を幸せにするために生まれてきたのだからな!」

「…!」

正文の顔色が変わる。
それまで落ち着いていたのが、怒りで赤く染まった。

「子どもは親の道具じゃないッ!」

彼が言い終わると同時に、無数の小さな鉄球が現れる。

「もし親の道具にされて喜ぶ子どもがいるなら、それは親に洗脳されたからだ! プロフェッサー、お前にはそのことも含めてメギルェに謝ってもらうッ!」

「断固として拒否するよ、阿久津 正文! さあ、その豆鉄砲を撃ってみるがいい! 全部まとめてお前に返してやる!」

「やってみろ! 返せるもんならなァアアアアッ!」

正文は無数の小鉄球を射出した。
それは雨あられとばかりに、プロフェッサーへと降り注ぐ。

これに対し、プロフェッサーは右手を前に出した。

「我が『変化』の力で、全て…」

彼は手に意識を集中させ、『変化』の力をより強く顕現させる。
小鉄球の軌道を『真逆に変化』させ、宣言通り正文へ全弾反射しようとする。

だが、小鉄球たちに『変化』は起こらない。
軌道が全く変わらない。

「な…ぐぉわああああああッ!?」

プロフェッサーの全身に、小鉄球が食い込む。
あるいは突き抜けて床を打つ。

白衣を黒く染め抜いた黒衣が、あっという間に血まみれになった。

「謝れぇえええええええッ!」

続いて正文は両手を上へかざし、巨大な鉄球を作り出す。

「うぉらあああッ!」

プロフェッサーに向かって両手を振り下ろした。
直径1メートルを超える超質量の鉄球が、床に座ったまま動けないプロフェッサーに襲いかかる。

「うぐ…!」

プロフェッサーは目を見開き、再び『変化』の力を使う。
巨大鉄球に対してではなく、なんと自身に対して用いた。

『座ったままでは素早く動けない』という事実を『変化』させ、瞬間移動したのである。

しかしわずかに巨大鉄球の方が速い。
完全回避とはいかなかった。

「ぎゃああッ!?」

プロフェッサーは悲鳴をあげ、床の上を転がる。
巨大鉄球がかすったことで左半身に重傷を負った。

鮮血が放射状に飛び散って、床を汚す。
その様を見て、プロフェッサーの顔から完全に余裕が消えた。

「ば、バカな…私の、血…だと……!」

小鉄球に撃ち抜かれても、巨大鉄球がかすっても、『変化』のおかげで死ぬことはない。
激痛も感じなければ、出血もすぐに抑えられる。

だが。

「お前はもう、『何も変えられない』」

「くぅうッ…!」

正文の言葉に、プロフェッサーは歯噛みを禁じ得ない。
『変化』の力が通用しないなど、彼にとってありえないことであり、あってはならないことだった。

「なぜだ!?」

プロフェッサーは正文に問う。

「私の『変化』は、物理法則は元より生死すらも超える! だというのに、なぜ…!?」

「…プロフェッサー」

正文が呆れたように笑った。

「あんたは『教授』なんだろ? あんたにわからないことが、俺にわかると思うのか?」

「な、なんだと?」

「俺の中にあるのは、あんたを許せないって気持ちだけだ」

赤黒いオーラが、正文の全身を覆う。

「メギルェにひどいことをしたっていうのに、そのことを彼女に謝りもしない。俺を必死に助けようとしてくれてる彼女を、愚かだなんてバカにした……そんなあんたを許せないってだけだ」

オーラは8匹の蛇にまで伝わり広がる。
太く大きな正文の体型もあいまって、そのシルエットはこの国に古くから伝わる怪物にも見えた。

「……」

プロフェッサーは絶句する。
これまで滑らかに言葉を紡ぎ続けていた彼の口が、小刻みに震えるばかりになる。

今のプロフェッサーは、怪物を前に茫然自失となったひとりの人間でしかない。

我こそはこの星の似姿なのだ。
そんなふうにうそぶいていた頃の勝ち誇った様子など、見る影もなかった。

「メギルェに謝れ…」

赤黒いオーラに覆われた正文が、プロフェッサーに近づく。

「謝らないなら食い殺す!」

憎悪を込めて死を宣告した。

その時である。
正文の頭上3メートルほどで何かが割れた。

割れたところから鏡に似た破片が降ってくる。
正文とプロフェッサーはほぼ同時に、音がした方を見た。

「!」

ふたりは驚愕する。
割れた跡の暗黒から、なんと巨大な竜が姿を現した。


→ring.82へ続く

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