Act.1 嘆きは邂逅の兆し | 魔人の記

Act.1 嘆きは邂逅の兆し

Act.1 嘆きは邂逅の兆し


株式会社・皿山商事の受付には、女性社員がひとりいる。

エントランスから入ってきた訪問者の用件を聞き、必要に応じて案内をする。
場合によっては、警備員に助けを求める場合もある。

ただ、この日はその必要はなかった。

「…はい、承りました。少々お待ち下さい…」

鈴の音色のようなかわいらしい声でそう言うと、どこかへと内線電話をかける。
その間、訪問者は彼女の前に立って、自身の用件がどのように推移するのかを見守る。

そんなことがここ受付では繰り返されている。
至極日常の、ありふれた光景だった。

「……」

その様子を、進藤 悟(しんどう さとる)はあまり表情のない顔で見ている。
女性社員から訪問者へ視線を移した後で、小さくため息をついた。

彼は、受付から離れた自動ドアの脇に立っている。
着ているスーツは、まだ紫外線による色落ちがない。

真新しい、という言葉がぴったりくるその色の中では、少し前まで汗にまみれていた体が、この場所の強力な空調によって乾き始めていた。

悟は、一度腕時計を見る。
短針と長針は、午前10時30分を指そうとしている。

「…30分…か」

悟は小さくつぶやいて、すっと顔を上げた。
受付へと目を向けると、先ほどいた訪問者はいなくなっている。

恐らく、用件が進展したのだろう。
悟のすぐそばを通らなかったということは、社内へ入り込むことができたということだ。

「はあ…」

それを知った悟は、もう一度ため息をついた。
ちょうどそれに合わせるかのように、受付の電話が鳴り始める。

「……そろそろかな」

電話の応対を始めた女性社員を見て、悟はそう言った。
彼のポケットに入ったスマートフォンが震え始めたのは、まさにそんな時だった。

驚くこともなく、彼はスマートフォンを取り出して操作する。
そしてそれを左耳に当てた。

「…はい、進藤です」

”君ねぇ!”

「うっ…」

応答直後に飛び込んできたのは、男性の怒鳴り声だった。
その声に大きさに、悟は思わず左目のまぶたを閉じる。

と同時に、スマートフォンも耳から離していた。
ただそれでも、スピーカーから男性の声が聞こえてくる。

”面接の時間、30分も過ぎてるんだがどういうことなんだ! 冷やかしか? やる気ないのに応募してきたのか!”

「…いえ、そんなことは…」

悟は、スマートフォンを離したまま応答する。
静かな口調ではあったが、通る声を意識して出した。

そのため、スマートフォンから顔を離していても、相手に自分の声が聞こえないということはない。
相手は悟の声がしっかり聞こえたようで、すぐさま続きの言葉を吐き出してくる。

”そんなつもりがないならどういうつもりだ! イタズラじゃないだろうな? 場合によっては威力業務妨害で訴えるぞ!”

「いえ、ホントに…そういうつもりはないんです」

”とにかく、面接の時間に30分も遅れる上にその連絡もしてこないような人間は、こちらとしては必要ない! 悪いが今回はなかったことにさせてもらう!”

「…わかりました」

”うちがあまり大きくない会社だからって、あまりナメたことをしない方がいいぞ…!”

「いえ、ですからそういうつもりはまったく…あ」

悟が話している途中で、会話は終わった。
向こうが電話を切ってしまったらしい。

「……はぁ……」

悟は大きなため息をついた。
がっくりと頭を垂れ、スマートフォンを待ち受け画面に戻してそれをポケットに入れる。

その後で、もう一度受付を見た。
新たな訪問者はなく、女性社員はじっと自分の席に座っている。

彼女は受付なので、当然ながら視線は出入口である自動ドアへと向いている。
その視野には、いや視界の中には悟がいる。

だが、彼女は何かに気づく様子がない。

「…もう断られちゃったし、しょうがないか…」

悟はそう言いながら、腕時計を見つつ自動ドアへ近づいた。
センサーが反応し、自動ドアはその名の通り自動で開く。

「…?」

この時、悟の背後で受付の女性社員が何かに気づいた。
だが彼に声をかけることはなく、ただ首をかしげるばかりだった。


皿山商事を出た後で、悟はスーパーに来ていた。
買い物カゴに、野菜や魚をいくつか入れ、レジへと持っていく。

特に他のものを見るということはしなかった。
昼前ということで店にはたくさんの人がいたが、彼はただ淡々と食料品を買った。

買い物をすませた彼は、自身の家へと戻ってきた。
木造の少し古い2階建ての家が、彼の家だった。

「ただいまー」

ガラガラと音が鳴る、昔ながらの引き戸を開ける。
中へと入り、後ろを向いて戸を閉めようとしたあたりで、彼は家の中から皿山商事で聞いたものとは別の怒鳴り声を聞いた。

「悟ぅぅううううううう!!」

「うわ…」

悟はゲンナリとした表情で、ゆっくりと戸を閉める。
カギをかけ、廊下からの激しい足音を聞きながら、これから起こる災難を覚悟した。

彼が、ちょうど前を向いた時。
怒りで顔を真っ赤に染め上げた、進藤 ハナ(しんどう はな)が彼にこう言い放った。

「今、皿山商事の人から電話がきたよ! あんたまた面接すっぽかしたそうだね!」

「いや、すっぽかしたわけじゃないって…」

悟は、ゲンナリした表情のまま反論する。
ハナはそれを聞いて、すぐさま怒鳴り声で尋ねてきた。

「じゃあどうしてたんだい!」

「どうしてた、って…待ってたんだよ、呼ばれるの」

「待ってたんだよ、じゃないだろう! そういうのは待たないんだよ! 自分からどんどん行くもんなんだ!」

「そうは言ってもさ…」

「ホントにあんたはグズでのろまな孫だよ! まだ勤めてもいない会社の人に頭を下げる、アタシの身にもなってくれないかね!」

「…それは…悪いと思ってる」

「ホントにそう思ってんなら、今度は自分からガンガンいくんだよ! わかったね!」

「はい…ごめんなさい」

悟は力なくそう言いながら頭を下げた。
それを見たハナは、フンと大きく息を吐く。

彼女は、彼が持っているスーパーのビニール袋を見た。
くるりと体を反転させ、のしのしと足音を響かせながら、家の中へと戻っていく。

そうしながら背中越しにこう言った。

「じゃあ早くごはんにしとくれ! アタシゃお腹がすいて死にそうだよ! アタシを殺す気かい!」

「…すぐ作るよ」

ハナが離れていったのを感じ取ると、悟はゆっくりと顔を上げた。
怒鳴られたことで体内にたまった何かを、大きなため息で吐き出す。

それで完全に心が晴れるわけではないが、やらないよりはマシだった。
彼は疲れた表情で靴を脱ぎ、ようやく家の中へと入った。

それから彼はジャケットだけを脱ぎ、台所へと向かう。
ダイニングテーブルの椅子に脱いだジャケットをかけた後で、冷蔵庫から鍋を取り出し、コンロの上へ置いた。

ガスの火をつけ、すぐに弱火へつまみを動かす。
その後で、スーパーで買ってきたものをシンク横の台へと出していった。

鍋とその中身が温められ、味噌汁の香りが漂い始めた頃、悟は野菜を切り終えてそれを鍋の中へ投入する。
その後で、魚の頭と尾、わたを取り除いてからガステーブルのグリル調理器へ入れた。

火を使う工程が終わる間、別の野菜を付け合わせとして切る。
盛り付けに皿を出そうとした。

そこで、ハナの怒鳴り声が飛んでくる。

「またお前は、お皿を出すのを後回しにしたね!」

「…あ、バレた」

「バレた、じゃないよ! お皿は先に出して、できあがったものをたったか盛り付けていくんだよ! なのにあんたは切った後にお皿を出す」

「……」

「それじゃあ二度手間になっちまうだろう! 野菜を切ってから一度手を洗わないと、お皿に野菜の汁とかがくっついちまうじゃないか!」

「…それはさ…また洗えばいいじゃん」

「だからそれは二度手間だ、って言ってるだろう!」

「そんな何分もかかんないことじゃん……そんなに言うなら、ばあちゃん手伝ってくれよ…」

「やなこった。早くするんだよ! アタシを殺す気かい!」

ハナはそう言って、台所から去っていった。
悟はまたため息をつきつつ、手を洗って皿を出していった。

その後、白飯と野菜の味噌汁、焼き魚に付け合せの野菜という昼食を作り上げた悟は、ハナとともにそれを食べた。

昼食の完成後は、部屋着に着替えろと悟はまたハナに怒られていた。
夕食は夕食で、昼食を準備していた時と同じように、段取りが悪いと怒られていた。


翌日。
彼はまた面接に出かけていた。

今日向かう会社はかなり大きく、本社ビルだという巨大な建物を見て、悟は思わず声を漏らす。

「でかい…」

地上20階ではきかない、かなり背の高いビルだった。
まるでおのぼりさんのようにそれを見上げながら、彼は小さくつぶやく。

「ハローワークを出禁になったの、伝わってると思うんだけどな…なんで面接してくれる気になったんだろ」

だが、つぶやいてしまった後で彼はすぐに苦笑した。

「…何を期待してるんだか…どうせいつものパターンだよな」

そして今日すでに何度か吐いているため息をつき、彼はビルの中へ入っていった。

会社が大きいということは関わる会社が多いということでもあり、ビルの大きさもあってあらゆるものの規模が破格だった。

昨日の皿山商事は受付の女性社員がひとりしかいなかったが、この会社にはなんと3人もいる。
しかもひっきりなしに訪れる客に対して、それぞれが速やかな応対をこなしている。

「すごいな…」

悟は、女性社員の美しさよりも先に、その仕事ぶりに目を見張った。
心の中に、何か小さな期待めいたものが生まれつつあるのを感じる。

「…もしかしたら、ここはこれまでとはちがう…のかも?」

つい先ほど、自分の中に生まれた期待をつぶしたというのに、彼はまた新たな期待が自分の中にあるのを感じている。

しかもそれを、今回はつぶしてしまおうとは思わなかった。

「……がんばってみるか、よし」

ぐっ、と両手を握り締めて、気合いを入れる。
そして彼は、期待に心を任せながら受付へと向かった。

受付に到着すると、3人の訪問客がそれぞれひとりずつ応対を受けていた。
悟は左の客の後ろへ並び、順番を待つ。

すぐに彼の順番は回ってきた。
緊張しつつも、意を決して女性社員に声をかける。

「あ、あの…面接でうかがった、進藤と申しますが」

「面接の方ですね、承っております。担当者を呼びますので、少々お待ちください」

女性社員は、すぐさま内線電話をかけ始めた。
担当者と少し話したらしい彼女は、悟に結果を伝えてくる。

「担当者がすぐに参りますので、もう少々お待ち下さい」

「は、はい」

女性社員に笑顔で言われ、悟は思わずドギマギした。
仕事用のスマイルなのはわかっているのだが、心に小さく生まれた期待もあって、彼の心は少しだけ震えてしまった。

彼はその場で、面接の担当者を待つことになった。
受付にある時計を見ると、9時30分を少し過ぎたところだった。

「……」

その間も、途切れることなく訪問客はやってくる。
受付に3人も女性社員がいるというのに、しかも彼女たちはみな仕事が早いというのに、行列ができ始めていた。

「………」

悟の背後にも、当然ながら行列ができる。
彼はだんだんと、いたたまれない気持ちになってきた。

ゆっくりと、女性社員の正面から脇へと移動する。
すると、順番がきたと思った後ろの訪問客が、彼を押しのけるように先頭に立った。

「お疲れさまです、ハノーヴァー・インシュアランスの武井と申しますが…」

「…はい、少々お待ち下さい…」

悟のすぐそばで、女性社員は先頭の訪問客への応対を始めた。
その様子を見て、彼は何か苦いものが小さな期待をつぶし始めていることを感じる。

面接の担当者は、まだ来ない。

「………」

悟を担当した女性社員は、またひとり、またひとりと訪問客への応対を続けている。
彼はずっと、脇に立ってその様子を見つめている。

「……」

ため息をつきそうになる。
だが、彼は首を横に振った。

「ばあちゃんにも言われたんだ…たまにはがんばってみないとな」

彼は小さくつぶやき、受付の脇から離れた。
そして居並ぶ訪問客たちの後ろに並ぶ。

担当者がまだ来ないのなら、もう一度催促しようと考えたのだ。
それ自体は特別なことではない。

ただ、彼にとってそれは…特別なことだった。

「…あの…」

並び直した悟の順番がやってくる。
彼はもう一度、女性社員に声をかけた。

「いらっしゃいませ」

女性社員は、笑顔でこう言った。
まるで初めて彼に会ったかのように、他の訪問客たちと同じ口調でそう言った。

「……」

この時、彼は心の中で何かがひび割れる音を聞いた。
だがそれでも、無理やりに気持ちを奮い立たせ、女性社員に言う。

「面接にうかがった進藤と申しますが、担当者さまはいらっしゃいますでしょうか?」

「はい、面接の方ですね。承っております…担当者を呼びますので、少々お待ち下さい」

女性社員はそう言って、内線電話をかけた。
そして数秒の後、悟に向かってこう告げる。

「担当者が参りますので、恐れ入りますがもう少々お待ち下さい」

「…はい」

女性社員の言葉に彼はうなずき、後ろで待っている人のために脇へと移動する。
言われた通りに担当者を待った。

行列を作っていた訪問客たちは、女性社員たちの手早い仕事ぶりによって、この頃にはもうほとんどいなくなっていた。
悟の後ろにいた客が、この時最後の行列客だった。

その応対が終わると、当然ながら悟だけが残る。

「……」

受付の脇、間違いなく女性社員に見えているであろう位置で、彼は面接の担当者を待つ。
だが、担当者は来ない。

それでも待っている彼の耳に、女性社員たちの声が聞こえてきた。

「はぁ…さすがにちょっと疲れたね」

「だねー。ってかちょっと聞いて、またあのセクハラオヤジきたんだけど」

「えっマジ? アイツほんとウザいよね…もうくんなって感じ」

3人の女性社員たちは、小声で話をしている。
彼女たちの誰からも、悟は見える位置に立っている。

「……」

悟は腕時計を見た。
短針と長針は、9時55分を指している。

それが58分を指した時、悟はもう一度女性社員に声をかけた。

「あの…」

「はい、いらっしゃいませ」

女性社員は、また悟にそう言った。
彼女は初めて見るような顔で、彼を見ていた。

「…面接に来た……進藤と、申します…が」

その眼差しに、彼は声を震わせながらそう言った。
女性社員は、彼の用件よりも声の震えが気になったようで、こう尋ねてきた。

「あ、あの…大丈夫、ですか?」

「大丈夫、です…あの、面接に来たんですけど」

「あ、ああ、面接…えっと、お名前をうかがってもよろしいですか?」

「進藤…です」

「進藤さまですね、承っております。少々お待ち下さい」

女性社員は、悟の体調を心配してはいたが、それ以外に不思議そうな素振りは見せなかった。
彼女が内線電話を終えると、苦笑いしながら彼に告げる。

「申し訳ありません、面接の時間はもう終了したとのことです」

「……そう、ですか…」

悟は、心の中で何かが壊れた音を聞いた。
彼の期待は見事に潰え、受付の時計は10時を2分すぎたところだった。


「はあ…」

悟は公園に来ていた。
日陰に覆われたベンチに座り、コンビニ弁当をひざに乗せている。

食欲は、なかった。

「今回は…がんばったと思うんだけどな…」

彼は力なくつぶやいた。
食欲はないが、弁当のからあげを箸で持つ。

それをひと口かじった。
丸ごと食べるほどの気力はなかった。

かじった分を咀嚼し、飲み込んでから大きなため息をつく。

「今日はさすがに、買い物して昼メシ作る気にもならないや…」

からあげを箸でつまんだまま、白飯の上に置く。
顔を上げる元気もなく、ただじっとからあげを見つめていた。

やがて、ポケットに入れたスマートフォンが震え始める。
だが彼はもう、それを取り出すつもりもなかった。

誰が連絡してきたか、彼には大体の予想がついている。
その相手に申し訳程度の反抗をするため、彼は着信を無視してからあげを食べようとした。

「あ」

その反抗心が、手に余計な力を入れさせてしまう。
箸がからあげの表面を滑り、支えを失ったそれは彼の足元に落ちた。

砂にまみれてしまい、もはやとても食べられそうにない。

「……はぁあ…」

これ以上なく、彼は打ちのめされた。
全身から力が抜けるのを感じた。

潰された期待のあとには、とてつもない無力感があった。
彼にはもう、泣き出す元気すらなかった。

落ちたからあげは地面をバウンドして転がり、彼から50センチほど離れた場所まで移動していた。
だが落下してしまった時点で、彼はもうその行方など見ていなかった。

「もう無理だ…」

思わず、言葉が口をつく。
そこから気持ちがあふれ出した。

「もう無理だろこれ……3回も受付に行ったのに、面接さえできないってどうすりゃいいんだよ…なんでおれだけ、こんな………」

無力感にまみれるまま、彼は嘆く。
もう立ち上がる気力もなかった。

ただ、そんな時でも彼の聴覚は敏感に翼の音を聞き取る。
自分のそばで聞こえたのもあって、少し驚いた悟はそちらを何気なく見た。

「…うお」

思わず声も出た。
彼の視線の先には、黒い鳥がいる。

それはカラスだった。
もちろんカラス自体は悟も見たことがあるのだが、問題はその位置である。

約50センチの距離と、とても近い。
間近で見るカラスは、悟が思ったよりも大きかった。

「……」

カラスは、どうやら悟が落としたからあげを狙って下りてきたようだった。

それをクチバシで挟もうとするのだが、悟にとっては食べかけでもカラスにとっては少し大きく、丸呑みはとてもできない。

しかもカラスはかなり弱っているのか、からあげを挟もうとしたままその場に転んでしまった。

「お、おい…大丈夫か?」

カラスが転ぶ姿など見たことがない悟は、思わず心配してしまう。
だがカラスは何も言わず、転んだ状態のままじっと悟を見ていた。

その眼差しに何かを感じた彼は、小さく苦笑する。

「…取りゃしないよ。食えるんなら食いな」

悟は、鳥であるカラスがからあげを食べようとしていることに、少しばかり奇妙なものを感じはした。

だが、カラスが人間のゴミをあさるというのはよくあることだし、あまり深く考えなかった。

「……」

カラスは、悟がちょっかいをかけてこないことに安心したのか、翼を少しばたつかせて立ち上がる。
そして地面に落ちたままのからあげに、鋭いクチバシを軽く突き刺した。

丸呑みは無理でも、小さく裂くことで食べることができると判断したようだ。
カラスがからあげをつつくたびに、少しずつ位置がずれて悟に近づいてくる形になった。

「…ふぅ……」

悟は、これまでとは少しだけちがうため息をついた。
少しだけ無力感が消えた気がした。

「オマエも…きっと、いろいろ大変なんだよな……」

そうつぶやきながら、彼はカラスを見ている。
カラスがもともと元気であったなら、彼はこう思わなかっただろう。

カラスが転倒し、衰弱している姿を見たからこそ、彼は妙な親近感を覚えたのだ。
無力感はまだ消えていないが、先ほどよりはかなりやわらいでいた。

一度、弁当の方へ視線をやる。

「…食えないかもって思ってたけど…ちゃんと食って、帰るか」

期待をつぶされたことへのせめてもの慰め。
そう思って買ったコンビニ弁当も、カラスがやってくるまではのどを通らなかった。

だが、カラスが一生懸命、それこそ衰弱していても食べる姿を見て、食べ物に関してはちゃんとしなければいけないと悟は思った。

食欲が出たわけではない。
ただ、自分がつらいからといって、買った食べ物を食べもせず捨ててしまうのはよくないと考えたのだ。

落ちたからあげを食べるカラスのそばで、悟はどうにかコンビニ弁当を食べきった。
空き容器をビニール袋に入れ、その口を結ぶ。

「ゴミ箱…」

容器を捨てようとゴミ箱を探すが、この公園にはそれがなかった。
仕方がないので、家まで持って帰ることにした。

「…ばあちゃんになんて言われるかな……それだけはしんどいけど」

ハナの形相を想像し、思わずため息をつく。
だがカラスとの出会いのせいなのか、それとも腹が膨れたせいなのか、怒られるのが怖くて帰れなくなるというほどではなかった。

ふとカラスがいた場所を見る。
落ちたからあげはなくなっており、カラスもいない。

「アイツ、元気になったんだな」

どこかへ飛び立ったのだろうと思い、悟は小さく笑った。
そしてベンチから立ち上がろうとしたその時。

突然、何かが空から落ちてきた。

「!?」

その衝撃に、悟は声も出せずにひっくり返る。
ベンチから転げ落ち、革のカバンと空き容器を入れたビニール袋が胸に落ちてきた。

「っ…!」

その衝撃で痛みの声も出ない。
加えてその直後、彼は思わぬものを目撃する。

(なんだ…ヒト!?)

空から落ちてきたのは、人型の物体だった。
悟がそれを見た頃には、土煙が収まり始めていた。

その姿は、どこかで見たことがあるような気がする。

(なん…なんだあれ、コスプレ…? 小さい頃に見た、ヒーローものの…)

落ちてきた人型の物体は、普通の格好ではなかった。
光沢のある赤い全身タイツを身にまとい、頭や肩、腰と足には甲冑のような防具がくっついている。

しかも何かを探しているようで、しきりに周囲を見回している。
向こうからは死角になっているのか、悟はまだ見つかっていない。

(コスプレ、って言っても…えぇ? だって今、落ちてきたよな…?)

そう思いながら、物体の足元を見る。
地面に穴が空くというようなことは起こっておらず、この物体を中心に砂が放射状の模様を描いているだけだった。

しかし確かに、人型の物体は空から落ちてきたのである。
そうでなければ、悟はベンチから転げ落ちることなどなかったのだ。

(な…なんだ、一体なんなんだ、あれ…?)

倒れたままの悟が、心から素直な疑問を思い浮かべた時。


”アレか。アレはな、アナザーフェイス状態っつーんだ”


すぐそばで、そんな声が聞こえた。

「!?」

聞き慣れない声に、しかもすぐそばで聞こえた声に驚き、悟は思わず声がした方を向く。
そこには…

”よォ、感謝するぜニンゲン。からあげうまかったぞ”

カラスがいた。
倒れた悟の左肩に乗っかり、クチバシをパクパク動かしている。

(…は……?)

悟には何が起きているのか理解できない。
彼はただ呆然とした表情で、カラスをじっと見つめることしかできなかった。


>Act.2へ続く

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