ring.67 すべてが逆 | 魔人の記

ring.67 すべてが逆

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正文は台車を押して通路を進む。
この台車は通常のものより大きく、台の面積もその分広い。

台の上には、手足が折りたたまれた甲03が載せられている。

(下野が復活することはないだろうけど、一応…な)

正文は、意識をなくしたままの甲03を、ステージ前から別の場所へと運んでいた。

(下野の体はほとんどが溶けてなくなった。ピンク色の液体になってしまった……頭から上半身あたりまでは残ったから、α7に言われた『首だけは残せ』って要件はクリアできた…はず)

ここで台車の車輪が音を発した。
絨毯が敷き詰められたエリアを出たのだ。

むき出しの床が続く先には、スタッフルームがあった。
この部屋で、正文は台車を無断拝借してステージ前まで押していき、甲03を載せて戻ってきたのである。

(さてと)

正文はスタッフルームに到着するとそのまま中に入った。
あらかじめくっつけておいた2つのベンチそばに台車を止め、甲03の体を持ち上げる。

「…しょ、っと」

ベンチに甲03の体を寝かせた。
その後で声をかけてみる。

「甲03」

「……」

何の反応もない。
甲03は目を覚まさなかった。

(しょうがない。48階には俺ひとりで行こう)

正文は甲03を残し、スタッフルームを出る。
搬入用エレベーターに向かった。

(そういえば…御堂とは初対面になるんだったか)

歩きながら、正文は自身の右手を見る。
手のひらから前腕の真ん中あたりまでは肌色だが、それ以降は下野の血が付着して赤いままだった。

(一応顔は洗っといたけど、服はそのまんまだ…スタッフルームに替えの作業着くらいあるもんだと思ってたけど、いやあったんだけど、俺が着れるサイズがなかった…)

「はあ」

彼は今さらながら、常人よりも太く大きな自分の体を恨む。

だがそれは長続きしない。
正文は右手を下ろすと前を向いた。

(服が血まみれだって御堂に怖がられるかもしれないが、その時はしょうがない。ちゃんと説明すればわかってもらえるはず…別に持ち上げて運ぶわけじゃないんだし)

搬入用エレベーターが見えてくる。
と、正文はなぜか足を止めた。

(そういえば……甲03を持ち上げた時に、下野の血がスーツについたかもしれない。スーツが黒いから忘れてたぞ)

彼は、目を覚まして自分に文句を言う甲03の姿を想像する。
やがて小さく苦笑すると首を横に振った。

(いやそれこそしょうがないだろ、いちいち服を脱いで持ち上げるなんて変だし。もし怒られたら謝ればいい)

正文は再び歩き出す。
下野を倒したせいか、その表情は今までになく明るかった。


正文は搬入用エレベーターで48階に上がる。
ついに最上階に到達した。

47階にステージが設置されていたように、この階も特別な構造だった。

(表札に『書斎』って書いてあるぞ…)

正文は、搬入用エレベーターに最も近い住戸の表札を、驚きの表情で見つめる。

(普通ならどっかの金持ちが住むはずだった1軒の家を、『ひとつの部屋』として使ってるってことなのか……!)

高層階の住戸はただでさえ広い。
下野は、そんな住戸1戸を1部屋としてあつかい、フロア全体をひとつの住戸に作り変えたのだ。

風呂やトイレ、フローリングのあるマンションに住めるとわかっただけで小踊りしていた正文とは、発想の次元が全く異なっていた。

「……」

贅沢を超えた贅沢を目の当たりにして、正文は呆然としてしまう。
自然と呼吸も浅くなる。

体が酸素不足を訴えてようやく、彼は我に返った。

「あっ、すう…はあ……」

何度か深呼吸をし、落ち着きを取り戻す。
自分がすべきことを思い出し、左目に意識を飛ばした。

(御堂はどこにいるんだ?)

においと体温から御堂の居場所を探る。

(…いた)

何枚かの壁を隔てた向こうに、御堂らしき人間のにおいと熱反応があった。
そこへ近づいていくと、視覚を担当する右目が『しずくのへや』と書かれた表札を見つけた。

ここも本来であれば、ひとつの世帯が住まう住戸である。
しかし下野は、個室として御堂にあてがったようだ。

正文はドアレバーに手を伸ばす。

(動画で見た限りじゃ、かなり深い催眠状態だった。下野が死んだことでそれがいきなり解けて、悪い影響が出てなけりゃいいけど…)

彼がドアを開けようとしたその時、レバーがひとりでに動いて手を弾く。
ドアは中から開けられた。

「!」

「!?」

御堂が外に出ようとドアを開けたのである。
ふたりははちあわせになった。

「くっ」

御堂があわててドアを閉めようとする。
正文はとっさに靴を隙間に差し入れ、それを防いだ。

「くそっ!」

御堂は悔しげに言い、ドアレバーから手を離して奥へ逃げる。
正文はドアを開けながら彼女に呼びかけた。

「助けに来たんだ! 俺はあんたを助けに来た!」

「嘘!」

奥から御堂の反論が聞こえる。
正文は玄関に進入しつつ言葉を返した。

「ウソじゃない! 命がけでここまで来たんだ!」

(命がけどころか何度も殺されたんだぞ!)

彼はのどまで出かかった本音を飲み込む。
事情を知らない御堂が聞けば、話を聞いてもらえなくなるとわかっていた。

(体調に問題はないみたいだけど混乱してるな。どうにか落ち着かせないと)

物音で御堂を刺激しないよう、正文はゆっくりと廊下を進む。
やがてリビングに続くドアまで来ると、声の勢いを落として彼女に語りかけた。

「俺は世の中のことにうとくて、芸能界のこととかよく知らない。だから申し訳ないんだが確認させてくれ。あんたは元女優の御堂 雫だよな?」

「……そう、だけど」

御堂が意外そうな声で質問に答える。
自分の名前を、11股逆寝取りというセンセーショナル極まるスキャンダルと並べて語らなかった正文に、興味を持ったようだ。

彼女の反応を受けて、正文は言葉を続ける。

「じゃあやっぱり、俺があんたを助けに来たってことに間違いはない」

「本当に? 本当に助けに来たの? あの殺し屋たちを追い払ったの?」

「…なんだって?」

「下にたくさんいたはずよ! 銃を持った殺し屋とか、なんか…わけわかんない化け物…とか……」

「アンチェインドとリアライザたちのことを言ってるのか? 確かに追い払ったというか、倒してはきたが…」

「じゃあ父さんには会った? 目立つ格好だから、会えばすぐわかると思うんだけど」

「父さんって下野 幸三か?」

「そうよ! 会ったのね? 父さんは無事なの? 私を守るって飛び出して、それっきり帰ってこなくて…」

「……」

正文は言葉を失う。
彼が知る事実と御堂の認識が、あまりに食い違っている。

だが正文はすぐに、ある可能性に思い当たった。

(まだ催眠術が解けてないのかもしれない。だったら下手に刺激したらまずい気がする。ここは話を合わせて…)

その時だった。
正文の後方で、玄関ドアが勢いよく開く。

「あーっ! ここにいたんですねえ、阿久津さぁん」

そう言いながら無遠慮に入ってきたのは、甲03だった。

「起きたら下野いないしい、知らないとこで寝てるし阿久津さんいないしでえ、びっくりしましたよお」

彼が発した言葉と物音が、御堂を強く刺激する。

「なに? だれ!?」

「あっ、御堂がいるんですかあ? じゃあさっさと連れて帰りましょお」

正文が止める間もなく、甲03はドアを開けてリビングに入った。
これに御堂は動転し、テーブルの上にあった鉈を手にとって構える。

「あ、あ…あなた、誰? 今、チラッと下野って聞こえたけど」

「下野ですかあ? 下野なら死にましたよお」

甲03は右手人差し指で、左肩越しに正文を指し示す。

「阿久津さんがすっごいがんばって殺したんですう」

「!?」

御堂は真っ青な顔で正文を見る。
唇をわななかせながら、かすれた声を吐き出した。

「ころし…た? 父さんを……?」

これに正文はすぐさま弁解する。

「御堂、落ち着いて聞いてくれ! あんたは下野の催眠術にかかって…」

「うわああああああああッ!」

御堂は半狂乱に陥り絶叫する。
何を思ったか、バルコニーに向かって走り出した。

(まずい!)

正文は右手から鎖を放つ。
鎖は一直線に飛んで、御堂の左手首に巻きついた。

(勝手に記憶を見ることになるが、この際仕方がな…)

「あああああああッ!」

御堂が右手に持った鉈を振り上げる。
それを見た正文は、強い口調で制止の声を放った。

「やめろ御堂! そんなもので俺の鎖は切れやしないッ!」

「ああああああああああ!」

御堂が鉈を振り下ろす。
その先は──

「ぎぃやああああああッ!」

──彼女自身の、左前腕だった。

「なにィイイイイイイイッ!?」

正文は、御堂の左前腕が床に落ちるのを見て絶叫する。
そしてここで、記憶の流入が始まった。

”雫先輩、あたし…あたしもう耐えられない”

気弱そうな女が抱きついてくる。
それはすぐに消える。

”思い上がりが運の尽きだぞ、御堂 雫”

傲慢そうな男が仁王立ちで笑う。
それもすぐに消えた。

見慣れない男女の姿と声が、正文の中に流れ込む。
右目の視界も左目が作る疑似視界も、現実を映さなくなる。

”せっかく今まで実績を積み上げてきたというのにな”

”あたしイヤだって言ったのに、無理やり…!”

”お前の女優人生は終わりだ”

声が語る内容には、直接的なつながりがない。
だが、その根底にあるものは共通しているようだ。

場面が切り替わり、薄暗く広い部屋に飛ばされる。
そこには裸の男が11人と、下着姿の女がひとりいた。

(まさか)

正文は気づく。

(御堂は後輩の女の子を守ろうとして、芸能界の暗部か何かに触れてしまった? それで薬を盛られて、11股逆寝取りのスキャンダルをでっち上げられた…そして)

”先輩、せめて楽しんでくださいね”

(最初から後輩の女の子もグルだった……そういうことなのか?)

答えが出ないまま、さらに別の記憶が流れ込んでくる。
まだ老いさらばえる前の下野が、慈愛の笑みを浮かべていた。

”お父さんのために作ってくれたのか、ありがとう”

下野は大事そうに両手で何かを持っている。

(これは!)

楽しげに踊る小人の模型だった。
正文はこれに見覚えがあった。

(ソンブレロにくっついてた飾りだ! 俺が壊した時は何かよくわからなかったけど、それは…時間がたちすぎて劣化していたから…!)

そして彼は、経年劣化という言葉が持つ真の意味に気づく。

(下野は本当に、御堂の父親だったってことなのか!? 催眠術で思い込まされたわけじゃなく…! じゃあタブレットの動画はウソ……?)

ここで記憶の流入が終わる。
正文は、御堂の部屋とは全く違う場所で目を覚ました。

(非常階段!?)

しかも階数表示から見るに1階である。
2階への階段には、家具の残骸が押し込められており上れない。

代わりに地下1階への下り階段が見えた。

(こんなの…前はなかったはずだぞ。何が……一体何がどうなってるんだ…!?)

家具の残骸は正文の周囲にも及び、下り階段以外に進む道はない。
彼は仕方なく階段を下りていった。

下り階段は地下2階で終わる。
そこは駐車場だった。

車は1台も止まっておらず、離れたところにピンク色の何かが見える。

(異臭がする…)

不思議なことに、その異臭はどこかで嗅いだことがあるような気がした。
正文は周囲を警戒しつつ、ピンク色の何かに近づく。

(し…下野!)

コンクリートでできた床に、裸の下野が大の字で横たわっていた。
股間を中心として、ピンク色の液体が広がっている。

中心地を含むほとんどの部位が隠れるほど、液体の量は多い。

(わかったぞ。これは、血と精液だ……そのふたつが混ざってピンク色になったんだ)

よく見ると、下野の周囲には何やら魔法陣のようなものが描かれている。
詳細を確認するためかがもうとした時、背後から声をかけられた。

「阿久津さぁん、すいませえん」

甲03である。
謝罪の言葉を聞いて、正文は振り返った。

「甲03…」

「本当にい、ごめんなさあい」

二度の謝罪が、正文の表情をやわらかなものへ変える。
彼は穏やかな口調で甲03に話しかけた。

「きっと、悪気はなかったんだよな。御堂はどうなっ」

「先に謝りましたからねえ」

何かが破裂する。
いや、それに似た音がした。

「え…?」

正文の体から力が抜ける。
みるみるうちに、目の前が真っ暗になった。

闇しか見えなくなった中で、甲03の声が聞こえる。

「ボスの命令なんでしょうがないんですよお。おつかれさまでしたあ」

正文は甲03に撃たれた。
包帯が巻かれていたはずの左手には、拳銃があった。


~第2部終了~

→ring.68へ続く

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