魔人の記 -6ページ目

ring.66 レギクマ

ring.66 レギクマ


火の玉が飛んでくる。
正文に向かって、まっすぐ飛んでくる。

バレーボールほどの大きさを持つそれは、人間と狼のリアライザに変化した下野の怒りでもあった。

(また火の玉か!)

正文は身構える。
火の玉を見たのは初めてではないため、驚きはない。

そして恐怖もなかった。
すぐそばで横たわる甲03の存在が、正文に回避でも防御でもない全く別の行動を選択させる。

「『鉄球』!」

正文は、鋭い声で言い放つと同時に右拳を突き出した。

拳の先から鉄球が現れ、火の玉に向かって飛んでいく。
その直径は火の玉よりもふた回り大きい。

ただ大きいだけでなく、とても固く重かった。
それに対して、火の玉は物質的な核を持たない球状の火でしかない。

激突すればどちらが勝つのかは明白だった。

「なにィ!?」

下野が驚愕の声をあげる。
鉄球の前に、火の玉はあっけなく霧散した。

火の玉を消し飛ばした後も鉄球は消えない。
下野に向かってまっすぐに飛んでいく。

「おのれぇッ!」

下野はますます怒りを燃やし、憎しみの声を吐き出した。

「よくもわしの火の玉を、怒りをッ! 下品な鉄球なんぞでつぶしおって許さんッ! お前の鉄球もつぶしてくれる!」

人間だった時より何倍も太くなった両手で、鉄球を受け止めようとする。
正文はこれを見てすぐさま反応した。

「上がれ!」

彼がそう叫んだ直後、鉄球は急上昇する。
天井にぶつかり、めり込んで動かなくなった。

「ノーコンか、バカめ!」

下野は正文の雑な制球を笑う。

「わしの頭を狙うなら、ホップは最小限に留めにゃならんのに…」

笑いと言葉がそこで止まった。
天井にめり込んだ鉄球から、鎖が伸びているのが見えたのだ。

その方向は、先ほど下野が火の玉を放った方向と同じである。
しかも鎖はピンと張り、鉄球の中へ勢いよく消えていく。

これらの事実を認識した下野は、真っ青な顔で前を向いた。

「まさか」

「おおおおおああああッ!」

正文が雄叫びとともに宙を飛ぶ。
彼は鎖に自分の体を引っ張らせ、天井付近まで上がった。

上がったところで、右手と天井にめり込んだ鉄球とを一体化させる。
そして滞空したまま、今度は鉄球を投げ下ろした。

「!」

下野があわてて前に倒れ込む。
鉄球は彼の体に当たることなく、ステージの床にぶつかって鈍い音を立てた。

この鉄球からも鎖が伸びている。
正文は、天井付近に上がった時と同じ要領で、鎖に自身の体を引かせステージ奥に着地した。

(どうだ?)

着地してすぐに、彼は下野を見る。

「くうっ、はあ…はあ」

下野は急いで立ち上がり、正文に向き直った。
狼男といってもいいその顔は、今やあせりで彩られている。

後方を気にする余裕はないようだ。
つまり、ステージ下で横たわる甲03のことなど完全に忘れていた。

(よし!)

正文は目的を達成した。
彼は下野の攻撃に対して、反撃に見せかけた移動を行ったのだ。

下野が放った火の玉を正文が回避すれば、床で横たわる甲03に当たるかもしれない。
また鎖の網などで防御すれば、火の玉の欠片が甲03に降り注ぐかもしれない。

かといって何も考えずに反撃すれば、甲03を戦闘に巻き込むことになる。
さらに単なる移動では、無防備な甲03を下野の前に置き去りにしてしまう。

ではどうするべきか。
正文は鉄球で反撃するように見せかけつつ、天井を経由してステージ奥へと移動した。

この大胆極まりない行動により、彼は下野の注意を独占することに成功したのである。

瞬間的な状況判断も、大胆極まりない行動も、すべては甲03を守るためだった。
自分以外の誰かを守るという思いが、正文の全能力を飛躍的に伸ばしていた。

(…念のためもうひと押ししとくか。火の玉を完全に封じよう)

「下野」

正文は口を開く。

「お前は得意げに言ったよな。俺が45階でリアライザと戦った時、火の玉を受け止めている最中なのになんでその向こうが見えたのか、とかなんとか…」

「んん?」

下野の表情が、あせりから怪訝そうなものへと変わった。
正文は言葉を続ける。

「あの時点ですでに、俺はお前の催眠術に落ちているとも言ってた」

「今さら何の話を…」

「関係ないんだよ」

「なに?」

「関係ないんだ」

重ねて言ってから、正文は小さく笑う。

「催眠術にかかっていようといまいと、関係ない。俺が火の玉を見たっていう経験…いや、『そう認識したこと』かな。その事実は、揺らがない」

「むぅ…?」

「だから、お前が吐き出した火の玉も簡単に対処できた。簡単に、だ」

「!」

正文のあおりが、下野の顔から怪訝そうな表情を消す。
下野は、怒りと憎しみの牙をむき出しにした。

「キサマァ……!」

「もうやめにしよう、下野。お前は能力の使い方を間違えたんだ。俺を催眠術に落としたというなら、お前は45階で俺に『火の玉じゃないものを見せるべき』だった」

「キサマごときが、このわしに催眠術を語るか! もう少しで芸能界を支配するところまで行った、この『パラディソ・コウ』に!」

「お前も俺も、ただの人殺しだよ」

正文の口調は静かなまま、変わらない。
ただその表情に、明らかな嘲りが混ざる。

「お前は自分が優れた催眠術師だと思い込んで、それを否定した人を撲殺した。それからアンチェインドになって人を殺し続けた。俺は人殺しを殺して『共食い』をしてる。どっちもろくなもんじゃない」

「キサマごときと一緒にするなよ。わしは最強の催眠術師なんじゃ…! いずれはキルメーカーのボスさえわしにひれ伏す。そして雫とともに一坂から脱出するんじゃ。邪魔などさせん!」

「お前が最強だとか、ボスを倒すとかそういうのはどうでもいい。御堂を解放しろ。彼女には新しい人生が待ってる」

「ふざけるなァッ!」

下野が怒鳴る。
その音量と音圧は獣の咆哮にも似て、ステージ上にあるほぼ全ての物体を震わせる。

「わしとの暮らしこそ、雫の新しい人生じゃ! それ以外に、あの子が幸せになる道などない!」

「もうずいぶんといい思いをさせてもらっただろう」

正文は真顔で問う。
下野の怒鳴り声にも一切震えることなく、まっすぐに言葉を放つ。

「今度は御堂が幸せになる番だ。彼女を解放しろ」

「雫を幸せにするのはわしじゃ! わし以外におらんッ! いてたまるものかぁああああああああッ!」

怒号とともに、下野が正文に向かって走り出す。
正文のあおりが効いたらしく、火の玉を吐こうとはしない。

だが、下野の武器は火の玉だけではなかった。

「グォアアアア!」

両手を交互に振り、力任せに爪でひっかく。
筋力の高さと爪の鋭さが合わさることで、その攻撃力は人体の耐久力を軽く超える。

かするだけでも大量出血は避けられない。
この危険な攻撃に、正文は両手を鉄球と同化させることで対抗した。

「ウヌッ! フヌゥ! クォアア!」

「……」

下野が連続して攻撃するも、鉄球を切り裂くことはできない。
しかも攻撃の軌道が洗練されていないため、防御も容易だった。

正文の鉄球には、彼の思いが詰まっている。
それは、下野の危険な攻撃を雑な攻撃に変貌させるほど重いものだった。

「…下野、もう終わりだ。あきらめろ」

やすやすと爪を払いのけながら、正文が言う。
これに下野は悔しげな表情を返す。

しかし、それはフェイクだった。

「フフ」

下野は突然ニヤリと笑い、両手を開いて鉄球をつかむ。
そして前に長く伸びた口を近づけてきた。

「いい気になるなよ! キサマののど笛、食いちぎってやる!」

「!」

正文は、下野が文字通り牙をむいたことに気づいた。
鉄球と同化した両手を前に出し、相手を遠ざけようとする。

だがいかんせん体格差がありすぎた。
正文は下野を押し返せない。

「カァアアア…!」

狼の牙が正文の首筋に迫る。

「くっ、下野ォ……!」

「望み通り終わりにしてやろう。ただし、終わるのはキサマの命じゃ!」

「くそっ…」

正文は悔しげにつぶやくとまぶたを閉じた。
その様子を見て、下野が勝利を確信する。

「死ねェ!」

下野は高らかに言い放つと、正文の首筋に噛みつこうとした。

「…『鉄球』」

正文の声が鉄球を呼び寄せる。
それは彼の声に似て、とても小さなものだった。

だが数が多い。
ステージ側面の壁から現れた無数の鉄球たちが、下野の巨体へ一斉に食い込む。

「グハァッ!?」

下野はわけもわからず血を吐いた。
正文の首筋に食らいつくため開けたはずの口は、鮮血を排出するためのものへと変わった。

大量の血が、正文の顔にかかる。
あらかじめまぶたを閉じていたおかげで、血が彼の目に入ることはなかった。

そう。
正文がまぶたを閉じたのは、勝利をあきらめたためではない。

下野の血が顔にかかるのを見越してのことだったのだ。

「左右の壁から、小さな鉄球をたくさん出した」

正文はまぶたを閉じたまま、何が起こったのかを下野に教えてやる。

「小さな鉄球がショットガンの弾みたいに、お前の体に食い込んだんだ」

「う…グェ……」

「俺はここに来るまで、何人かのリアライザと戦った。その人たちはみんなチェインドだった…人生に失敗して、あげくここに連れてこられてリアライザにされた…ひどい話だよな」

「……ガ、ブフゥ…」

「お前はアンチェインドで、もともと人殺しだ。あの人たちとは違う。でもリアライザにされたのは同じ…お前はここで御堂を含むいろんな人にひどいことをしてきたんだろうけど、人間が別の生き物にされる苦しみはきっとそういうのとは次元が違う」

正文はゆっくりとまぶたを開いた。

「だから俺は話をしようと思った。あとでケジメをつけさせられるにしても、この戦いだけは話し合いで終わらせたっていいんじゃないかって思ったんだ」

「キサマ、は…」

下野が苦しげな息とともに言葉を吐き出す。

「なにも、わかってない……すべてを奪われ、なにもかもが絶望に染まった世界、で…雫だけが…あの子だけが……輝いて、いた…」

「だったら余計におかしいだろう。お前は御堂に、心を救われたんじゃないのか? そんな人に催眠術をかけていいようにするなんて」

「ククッ…ククク……」

下野は正文の言葉を遮るように笑う。
やがてまぶたを閉じると、静かにつぶやいた。

「し、ずく…どうか……おまえだけは、しあわせに…」

「…下野」

「ゲハァッ!」

「うっ」

正文は、下野が最期に吐いた血をもろに浴びる。
とっさに目と口を閉じたつもりだったが、いきなりだったため少し中に入ってしまった。

(くそ)

正文は、脱力した下野の巨体を自身の右側へどける。
その後で両手を包む鉄球を消した。

それから血みどろの顔を手でぬぐうと立ち上がる。

(下野…)

正文は下野を見下ろした。

(最後まで……わかり合えなかったな)

その表情は、勝利の喜びからはほど遠い。
どこか虚しさにも似たものが、彼の胸中を満たしていた。


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ring.65 ンミイサ

ring.65 ンミイサ


物体が動くことで空気の流れが変わる。
瞳孔が縦長になった正文の左目は、敏感にそれを察知した。

「!」

正文はほとんど条件反射で手から鎖を出す。
変化が起こった方へと振り向きながら、両手の間に鎖を渡したその時。

「アセンごろまち円柱!」

甲03が意味不明な言葉を発しつつ、巨大化した拳で殴りかかってきた。
間一髪、正文はピンと張った鎖を顔の前に出し、拳を受け止める。

(なっ…?)

防御には成功したものの、正文には甲03の言動がわからない。
そこへ、下野の残念そうな声が聞こえてきた。

「ほう…防ぐとはな」

(あっ)

正文は下野の言葉で我に返り、すぐさま後退する。
甲03と距離をとったところで事態を把握した。

(甲03はまた催眠術にやられた…いや)

ステージの上にいる下野を横目でチラリと見る。

(下野は『お前たち』と言った。俺も催眠術にやられたのか?)

「ばんこメッチ、んペツぴや!」

甲03がまたも意味不明な言葉を言い放ち、攻撃してくる。
だがその狙いは正文ではなく、正文の近くにある空間だった。

「ぺろん!」

甲03が巨大化させた拳で何もない空間を殴りつける。
その後で拳を瞬間的に小さくし、殴った威力を床に近い位置で炸裂させた。

正文は甲03を目覚めさせようと、鋭い声で彼を呼ぶ。

「甲03!」

「無駄じゃよ」

答えたのは下野だった。
彼はニヤけ顔で正文に説明する。

「こやつは完全に落ちた。わしを痛めつけとるつもりのようじゃが、それは夢を見ているようなもの…自分が現実で何をしておるのか、何を言っておるのかじぇーんじぇんわからん」

「…甲03は、催眠術を防ぐサングラスをつけてる。そんなはずは」

「カカカッ! わしの催眠術を防ぐじゃと?」

下野は嘲笑すると、舌を出してみせた。

「そんなことは誰にもできんわい」

「なに?」

「このタワマンに、どれほど多くの仕掛けを施したと思っとるんじゃ。お前たちが何気なく見た壁、床、天井…そんなところにも催眠状態に落とすためのスイッチがある」

「…!」

「そもそも催眠術は、視覚だけで発動させるものではない。『催眠音声』というものを知らんのか? 聴覚もまた、催眠状態への導入に利用できる」

そう言った後で、下野は甲03を指さした。

「お前はそやつの言葉をきちんと聞き取れておるか? もしわけのわからないことを言っていると感じとるなら、お前ももうすぐじゃ。もうすぐ落ちる」

「…な!?」

「そしてっ!」

下野が、甲03を指さしていた手を掲げ、指を鳴らす。
それまで何もない空間を殴っていた甲03が、正文に顔を向けた。

「メはひはァ」

甲03は獲物を見つけたとばかりに口角を上げて笑う。
そこへ下野の号令が飛んだ。

「完全に落ちるのを待ってやるほど、わしはのんきではない。行けッ!」

「ぱブロー戸、えんぼるメ!」

甲03が正文に向かってまっすぐ走ってきた。
これまでとは違い、明らかに正文を狙っている。

「くっ!」

正文は、下野と話すどころではなくなった。

(俺と甲03じゃ、もともとの運動神経が全然ちがう! あの時勝てたのは、能力の相性がうまく噛み合ってくれたから…)

「ずんぽ微ローバ!」

甲03が拳を巨大化させて攻撃してくる。
正文には、それを回避するという選択肢がない。

なぜなら相手の攻撃を軽やかに避けるような運動神経が、正文にはもともと備わっていないからだ。
両手の間に渡した鎖で防御するしかなかった。

「ベソ!」

「うおっ!?」

「ぱバロンて!」

「くぅおおッ!」

「れーブレたんタァーん!」

激しい連続攻撃に加え、意味不明な言葉も正文の精神を削る。

(このままじゃまずい! 俺まで下野の催眠術に落ちてしま……う?)

ふと、正文は違和感を覚えた。

(なにかがおかしい。いや、今の状況がおかしいのはもちろんだが、そういうことじゃなくて……)

彼は甲03の猛攻を防ぎつつ、その目を凝視する。

(甲03の言葉、何か…妙な部分があったような…)

「ゲてぽん、ぱんど蘭ティんがー!」

甲03のひときわ強烈な一撃が、正文の鎖を大きく押した。
巨大化した拳が眼前にくる。

この位置で殴った威力をコントロールされると、頭が破裂するおそれがあった。

(しまった!)

正文はあわててのけぞる。
その直後、殴った威力が頭のあった位置で炸裂した。

「ぐぶっ!?」

破裂は免れたものの、無傷とはいかない。
正文は後ろに転倒する。

甲03はこの好機を逃さない。
倒れた正文の上に、馬乗りになった。

「ダズぷれピヨ、ケそーん…」

もう終わりだとでも言っているのだろうか。
甲03が右手を大きく引く。

そして拳を巨大化させた。
それを見た時、正文の中に甲03の言葉が蘇る。

”阿久津さんを信用してるからこそ、こんなこと言えるんですよお。期待してますからねえ”

「!」

この瞬間、正文の中で何かがつながった。
彼は、今にも拳を振り下ろしそうな甲03ではなく、ステージにいる下野に向かって右手をかざす。

「下野ォッ!」

正文の右手から鎖が伸び、下野がかぶっているソンブレロを貫いた。
正確には、ソンブレロに取りつけられた不格好な飾りを破壊した。

「ぐぅおっ!?」

下野が声をあげ後ろに転倒する。
直後、何かが割れる音がした。

正文を攻撃しようとしていた甲03は脱力し、前へ倒れ込む。
自然と正文が受け止める形になった。

「甲03…!」

正文が呼びかけると、甲03がへらっと笑う。

「やるじゃ…ないですかあ……」

そう言うと意識を失った。

甲03は催眠状態から脱した。
しかし、催眠中に何度も『フィスト』を使わされたことで彼の体力は枯渇し、意識を失ったのだ。

正文は、甲03を受け止めたまま背中を軽く叩くと、こんな言葉を返す。

「先に信じてくれたのは、お前だよ」

それからゆっくりと体勢を入れ替え、床にそっと寝かせた。

正文は、下野がいるステージに顔を向け、立ち上がる。
その頃には、戦闘時にふさわしい緊張感を取り戻していた。

奇しくも同じタイミングで下野も立ち上がる。
彼は左手で額を押さえていた。

「し、信じられん…!」

ステージ下に正文の姿を見つけると、驚愕の表情を隠すことなく彼に問う。

「お前…! わしの催眠術を、なぜ!」

「甲03が、俺を信じてくれたおかげだ」

正文は悠然と答えた。
だが下野には意味がわからない。

「どういうことだ! 説明になっとらん!」

「甲03は気づいてたんだよ」

正文は、床に横たわる甲03を見つめる。

「自分が、催眠術にちょっとかかってしまっていることを…でもそれを俺に言おうとすれば、お前にやられる。完全に、催眠状態にされてしまう」

「…? なに…?」

「甲03はもうひとつ気づいてた」

正文の視線が、甲03から下野を経由してステージに落ちているソンブレロへ移る。

「その帽子…ソンブレロだっけ。俺には、つばのところに小物が飾られてるのが見えた。でも半分催眠状態だった甲03の目には、何も見えなかった」

「それが、それがどうしたというんじゃ」

「でも甲03は、『そこに何かがなきゃおかしい』と思ったんだよ。半分催眠状態の自分には見えないけど、俺にはきっと何かが見えていると思った。それは今まで命がけで戦ってきた者の勘みたいなもの」

「…!」

「それに甲03の能力は近距離型だ。ステージの上にいるお前には届かない。なんとかして俺に帽子のことを伝えて攻撃させなきゃいけない。そう思ったから、甲03は悪口という形で俺にヒントをくれたんだ。これにお前はあせった」

正文は鋭い目で下野を見る。

「あせったけど、それを俺に知られたくない。だからお前は、怒ったふりをして甲03を完全な催眠状態にしたんだ」

「く…!」

「俺はにぶいから、甲03がくれたヒントにすぐ気づけなかった。でもギリギリのところで、甲03が俺を信用してるって言ってくれたことを思い出せた。だから俺は、甲03の言葉に意味があると信じられた。たとえそれが敵に対する悪口であっても。そして」

正文は右手人差し指で、ステージのある場所を指し示す。
そこには、飾りの破片が散らばっていた。

「帽子の飾り…それこそが、お前の『特別な催眠術』にとって一番大切なもの。その答えを、導き出せた」

「ぬぅううううッ!」

下野は怒りの表情でうなり声をあげる。
額を押さえていた手を下ろした。

そこには、正文の鎖が当たった時についた傷がある。
下野は傷をかばうことをやめた。

「なーにが信用じゃ! なーにが『意味があると信じられた』じゃ! お前もこやつもただの人殺し、そんな言葉を口にする資格などないッ!」

下野が杖の下端でステージを叩く。
すると、着ていた民族衣装が左右に破れてみすぼらしい裸体が現れた。

「言ったはずじゃ! わしゃあキレイゴトが嫌いだと!」

ステージの床から金色の光が吹き上がり、下野の体を包む。

「わしの真なる力、思い知れぇええい!」

みるみるうちに下野の体が変化する。
まず、頭部が狼になった。

首から下は人間のままだったが、筋肉でふくれ上がる。
体格もふた回り以上大きくなった。

「誰にも邪魔させん…」

狼と人間のリアライザと化した下野が、低い声で正文に言う。

「わしと雫は永遠に一緒じゃ。もう誰にも、わしら家族の人生を邪魔させん…」

「家族?」

正文は顔をしかめた。

「お前は御堂を苦しめてるだけだ。催眠術で無理やり家族にしたって、そんなのは」

「うるさいうるさいうるさい! お前ごときが知ったふうな口をきくなァアアアアッ!」

下野は激高する。
感情をそのまま形にしたかのように、口から火の玉を吐き出した。


→ring.66へ続く

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ring.64 ンセッケ

ring.64 ンセッケ


正文と甲03は47階に到着した。
ふたりは非常階段のあるスペースで、この『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』における最終決戦への準備を進める。

(いよいよだ)

正文は左目だけでドアを見る。
47階フロア内へ通じるドアを凝視する。

(もう下野は俺たちに気づいてる。だから中でスタンバってる)

フロア内の状況をにおいと熱から分析したところ、45階と同じくフロア中央に大きな空間が設けられているのがわかった。

そしてそこには、下野 幸三らしき人間の反応がある。
左目が作り出す疑似視界に、人型のシルエットが映し出された。

(どんなヤツなんだろうな…元催眠術師ってことと、御堂のファンってことくらいしか情報がない)

正文は目を閉じる。
両手から鎖を何本か出現させ、帯のように束ねた。

それをななめに傾け、自身の頭部に巻く。
鎖の帯が、正文の右目を完全に覆った。

(これで俺は視覚に頼れない。つまり、催眠術には引っかからない)

鎖の眼帯が完成した。
簡易的な眼帯という意味では、コースター製に次ぐ二代目である。

鎖は実物ではなく、正文の力で『鎖の形をとるエネルギー体』なので、鎖輪が彼の髪や皮膚を巻き込むことはない。

(さて)

正文は左目を開く。
ふと、疑似視界に白くて丸いものを発見した。

それは包帯でぐるぐる巻きにされた甲03の左手である。

(そういえば甲03は一度外に出たんだったな…下野の能力について、何か新しい情報とか聞いてないだろうか)

正文はそう思い、甲03の顔を見る。

「あっ!」

ちょうど目が合った。

「阿久津さぁん、これ見てくださいよお」

甲03は弾む声で言いつつ、手に持っていたサングラスをかける。

「これえ、下野の特別な催眠術を打ち破るために支給されたグラサンなんですよお。似合いますかあ?」

「あ、ああ」

正文は戸惑いつつ返事をする。
この反応に、甲03はサングラスを下にずらし不服そうな目で彼を軽くにらんだ。

「阿久津さぁん、ノリ悪いですよお? もしかしてビビってるんですかあ?」

「…ああ、ビビってる」

「えっ」

発破をかけたつもりが、意外な言葉が返ってきたので甲03は驚く。
正文は緊張した面持ちで再びドアを見つめると、まるで監督が選手に助言するかのような口調でこう言った。

「ビビらないわけがないじゃないか。俺はこのタワーマンションでずっと、命がけの戦いをしてきた。そのラスボスが、ドアの向こうにいるんだぞ」

「でもお、阿久津さんはリアライザの魔法だって受け止めたじゃないですかあ」

甲03は軽く言いつつサングラスをかけ直す。

「ディフェンスに関してはあ、何も心配することなんかないと思いますけどねえ」

「うーん…ディフェンスとかオフェンスとか、そういう細かい話じゃないんだ」

「じゃあどういう話なんですう?」

「なんていうか、足元をすくわれないために『今はきっちり緊張してなきゃいけない』みたいな…そういう感じかもしれない」

「なんか大変ですねえ。僕チャンにはよくわかりませぇん」

「ああ、わからなくていいよ」

正文は甲03に向き直る。
突き放していると相手を誤解させないように、細心の注意を払ってこう付け加えた。

「これは俺の問題だから、理解しろとも言わないし」

「そうですかあ。じゃあわからないままにしときますう」

甲03の反応は一貫して軽い。
正文が心がけたことに気づいているのかいないのか、サングラスで隠れた目から読み取るのは不可能だった。

その後、ふたりは決戦に向けての最終確認を行う。

「僕チャンのサングラスと阿久津さんの眼帯でえ、下野の催眠術は封じられましたあ。アイツはもうただのおっさんですう」

「ああ」

「苦しまぎれに何かやらかしてくるかもしれませんけどお、そこはリアライザの時みたいに出たとこ勝負でいきましょお」

「出たとこ勝負、って…本当にそれでいいのか?」

「阿久津さんを信用してるからこそ、こんなこと言えるんですよお。期待してますからねえ」

「…わかった」

「じゃあ、いきましょお」

最終確認を終え、ふたりは47階フロア内に入る。
入るとすぐに、男の声が聞こえてきた。

”諸君、わしゃあキレイゴトが嫌いだ”

「!」

正文にはすぐにわかった。

(下野の声だ…タブレットから流れてくるのをさんざん聞かされた)

理解するとともに嫌悪感が顔に出る。
下野が御堂を辱めるおぞましい映像が、嫌でも思い出された。

彼の嫌悪感などおかまいなしに、下野の話は続く。

”やれ『アナタは特別な存在』だの、『がんばってればいいことある』だの、思ってもいないことを恥ずかしげもなく言ってくる。わしにはそれが我慢ならん”

下野の声はマイクを通した電子的な音声だった。
ただそれは、タブレットから流れる動画のようにあらかじめ録音されたものではない。

(ヤツは今まさに、俺たちに向かってしゃべってるんだ)

正文は左目で、壁の向こうにある人型の反応を見ながら歩く。
人型の反応は右手にマイクらしきものを持っていた。

催眠下にあった甲03はヘッドセットのマイクを使用していたが、下野はハンドマイクを使っているようだ。

(マイクを使ってしゃべるってことに、何かこだわりでもあるのか…?)

正文が不思議に思っていると、下野の語気がにわかに強まった。

”だからわしは心の底から怒り狂う!”

「!」

”お前ごときにわしの何がわかるのかと! 根拠もなしに、いいことがあるなんて無責任なことを言うなと!”

(…何の話をしてるんだ?)

”この怒りこそがわしの原動力! 日々の生活という奔流に押し流されようとも、怒りを忘れてはならん! 忘れてしまえば、大切なものを奪われたまま泣き寝入りさせられることになる!”

「プッ」

正文の後ろで、甲03が小さく吹き出した。

「下野ってばあ、ネットに転がってる励ましの言葉とかにい、いちいち目くじら立ててるんですかあ? ずいぶんとチンケな原動力ですねえ」

「……」

甲03の嘲りを、正文は無言で流す。
同調しようと思わなかったのが主な理由だが、もうひとつ重大な事実があった。

彼らがフロア内に入ってから続いていた、通路の壁が終わったのである。
正文と甲03は、ついに肉眼で下野 幸三をとらえるに至ったのだ。

(ステージ!?)

正文の中に、最初に浮かんだのがその言葉だった。
下野 幸三はきらびやかなステージの上に立っていた。

”ようこそ、諸君”

ステージの上から、下野が正文たちに声をかける。
下野は、特別な衣装を身にまとっていた。

頭にはソンブレロというメキシコの伝統的な帽子をかぶっている。
この帽子の特徴として、頭頂部分が高くつば部分が広い。

下野はこれを改造し、頭頂部分のさらに上に天使の輪らしきものを取りつけていた。
針金1本で支えているらしく、彼がしゃべる度にそれは頼りなく揺れた。

広いつばには、何やら小物がひしめきあっている。
小物はあまりに粗末なつくりで、人間を模したものなのか動物を模したものなのかすらわからない。

下野の改造はソンブレロだけでなく服にも及ぶ。
彼はネイティブアメリカンの民族衣装を着ていたのだが、そこかしこに小動物の頭骨らしきものが散りばめられていた。

頭骨らしきものはやけに精巧なつくりで、つばに取りつけられた小物とは雲泥の差である。
見る者に『もしかしたら本物なのではないか』と思わせるほどの不気味さだった。

”まさかここまで来るとは、というのが正直な感想だ”

下野はステージから正文たちを見下ろしつつ、左右に2歩ずつ動く。
その足取りは悠然としており、まるでディナーショーの主役といった様子だった。

”歓迎しよう! わしこそがこのタワマンの主…”

「だっさ!」

甲03が下野の言葉を遮る。
彼はうんざりした表情でまくし立てた。

「なんなんですかあ、その格好! それでかっこいいとでも思ってるんですかあ? あまりにもセンスなさすぎですよお! ジャストコでそろえたっぽい、阿久津さんの服の方がまだマシですう!」

”…え?”

(え!?)

下野だけでなく、正文までとばっちりを受ける。
驚くふたりをよそに、甲03の文句は止まらない。

「そもそもですねえ、ソンブレロをかぶるんなら着る衣装だってメキシコのものでそろえるべきでしょお? なんなんですかあ、頭はメキシコ体はネイティブアメリカンってえ! ひとり北米大陸ですかあ?」

”なんじゃと…!”

怒りによって下野が我に返った。

”わしの高尚なセンスがわからんのか! せっかくここまできたお前たちに敬意を表して、『パラディソ・コウ』時代の衣装を引っ張り出してきたというのに!”

「そんなヘンテコ衣装で恩を売られてもお、全然ありがたくありませえん! ラスボスと戦うからってことでマジメに気持ちを作ってきたあ、阿久津さんに謝ってくださぁい!」

(いや、別に謝ってほしいとかないけど…っていうかなんで俺を引き合いに出すんだ!?)

ステージの下から衣装がださいと言い放つ甲03、
それに対してステージの上から怒りをぶちまける下野、

そして巻き添えにされる正文。

事態は混沌としてきた。
そこには最終決戦にふさわしい緊張感などない。

「ええい、もう我慢ならん!」

怒り心頭の下野はマイクを投げ捨てる。
右手を自身の背中に回したかと思うと、立派な木の杖を出してきた。

杖といっても歩行補助に使うものではない。
上端が丸まった特徴的なその形は、甲03に新たなネタを提供する。

「ひとり北米大陸の次はあ、魔法でも使うつもりですかあ? まさか催眠術と魔法の区別もつかないなんて言いませんよねえ?」

「やかましいッ! もうちょっと引っ張るつもりじゃったが、お前にはもう退場してもらう!」

下野はそう言うと甲03に杖をかざす。
その動きは間違いなく、魔法を使う動作だった。

これに甲03は腹を抱えて笑う。

「やっぱり区別できてないんじゃないですかあ! あっははぁ、あははっ」

盛大に笑い始めるも、それは3秒と続かない。

「あは」

甲03は腹を抱えた体勢のままぴたりと固まった。
突然のことに正文は驚愕する。

「え!?」

一体何が起こったのか。
なぜ甲03は固まってしまったのか。

正文が呆然と甲03を見ていると、下野が話しかけてきた。

「阿久津とかいったか。お前…リアライザの魔法を止めたな? しかも2回」

「!」

なぜそれをという表情で、正文は下野へ視線を移す。
答えは、彼が疑問を口にする前にもたらされた。

「わしはあの戦いを見ておった。それで、じゃ……2回目に止めた時、お前はなぜリアライザの動きを見れた?」

「…なぜ、って…?」

「お前は『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を鎖の網で止めた。止めているところに、リアライザが2発目を撃とうとした。しかし、『なぜお前にその動きが見えた?』」

「何が…何が言いたいんだ」

「火の玉が目の前にあるんじゃぞ?」

下野は、何もわからない正文に嘲りの表情を見せる。

「右目は火の玉が放つ光でまぶしかろう。そして左目は、火の玉が放つ熱でこれまたまぶしかろう。なのにお前には『火の玉の向こうにいるリアライザの動きが見えた』」

「…!?」

正文の顔が青くなる。
下野はすでに、正文の左目がにおいと熱を感知する器官に変わったことを知っていた。

そしてさらに重要なのは、リアライザの動きが見えた理由である。
本来なら火の玉が放つ光と熱に遮られて見えないはずのものが、なぜ見えたのか。

「簡単なことじゃよ」

下野がニヤリと笑う。
それは、動画の中で御堂を凌辱していた時の表情にとても近い。

「お前たちはもうすでに落ちとるんじゃ。わしの…催眠術にな」

下野が静かに言い終えた直後。
右手を巨大化させた甲03が、正文に襲いかかった。


→ring.65へ続く

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