ring.65 ンミイサ | 魔人の記

ring.65 ンミイサ

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物体が動くことで空気の流れが変わる。
瞳孔が縦長になった正文の左目は、敏感にそれを察知した。

「!」

正文はほとんど条件反射で手から鎖を出す。
変化が起こった方へと振り向きながら、両手の間に鎖を渡したその時。

「アセンごろまち円柱!」

甲03が意味不明な言葉を発しつつ、巨大化した拳で殴りかかってきた。
間一髪、正文はピンと張った鎖を顔の前に出し、拳を受け止める。

(なっ…?)

防御には成功したものの、正文には甲03の言動がわからない。
そこへ、下野の残念そうな声が聞こえてきた。

「ほう…防ぐとはな」

(あっ)

正文は下野の言葉で我に返り、すぐさま後退する。
甲03と距離をとったところで事態を把握した。

(甲03はまた催眠術にやられた…いや)

ステージの上にいる下野を横目でチラリと見る。

(下野は『お前たち』と言った。俺も催眠術にやられたのか?)

「ばんこメッチ、んペツぴや!」

甲03がまたも意味不明な言葉を言い放ち、攻撃してくる。
だがその狙いは正文ではなく、正文の近くにある空間だった。

「ぺろん!」

甲03が巨大化させた拳で何もない空間を殴りつける。
その後で拳を瞬間的に小さくし、殴った威力を床に近い位置で炸裂させた。

正文は甲03を目覚めさせようと、鋭い声で彼を呼ぶ。

「甲03!」

「無駄じゃよ」

答えたのは下野だった。
彼はニヤけ顔で正文に説明する。

「こやつは完全に落ちた。わしを痛めつけとるつもりのようじゃが、それは夢を見ているようなもの…自分が現実で何をしておるのか、何を言っておるのかじぇーんじぇんわからん」

「…甲03は、催眠術を防ぐサングラスをつけてる。そんなはずは」

「カカカッ! わしの催眠術を防ぐじゃと?」

下野は嘲笑すると、舌を出してみせた。

「そんなことは誰にもできんわい」

「なに?」

「このタワマンに、どれほど多くの仕掛けを施したと思っとるんじゃ。お前たちが何気なく見た壁、床、天井…そんなところにも催眠状態に落とすためのスイッチがある」

「…!」

「そもそも催眠術は、視覚だけで発動させるものではない。『催眠音声』というものを知らんのか? 聴覚もまた、催眠状態への導入に利用できる」

そう言った後で、下野は甲03を指さした。

「お前はそやつの言葉をきちんと聞き取れておるか? もしわけのわからないことを言っていると感じとるなら、お前ももうすぐじゃ。もうすぐ落ちる」

「…な!?」

「そしてっ!」

下野が、甲03を指さしていた手を掲げ、指を鳴らす。
それまで何もない空間を殴っていた甲03が、正文に顔を向けた。

「メはひはァ」

甲03は獲物を見つけたとばかりに口角を上げて笑う。
そこへ下野の号令が飛んだ。

「完全に落ちるのを待ってやるほど、わしはのんきではない。行けッ!」

「ぱブロー戸、えんぼるメ!」

甲03が正文に向かってまっすぐ走ってきた。
これまでとは違い、明らかに正文を狙っている。

「くっ!」

正文は、下野と話すどころではなくなった。

(俺と甲03じゃ、もともとの運動神経が全然ちがう! あの時勝てたのは、能力の相性がうまく噛み合ってくれたから…)

「ずんぽ微ローバ!」

甲03が拳を巨大化させて攻撃してくる。
正文には、それを回避するという選択肢がない。

なぜなら相手の攻撃を軽やかに避けるような運動神経が、正文にはもともと備わっていないからだ。
両手の間に渡した鎖で防御するしかなかった。

「ベソ!」

「うおっ!?」

「ぱバロンて!」

「くぅおおッ!」

「れーブレたんタァーん!」

激しい連続攻撃に加え、意味不明な言葉も正文の精神を削る。

(このままじゃまずい! 俺まで下野の催眠術に落ちてしま……う?)

ふと、正文は違和感を覚えた。

(なにかがおかしい。いや、今の状況がおかしいのはもちろんだが、そういうことじゃなくて……)

彼は甲03の猛攻を防ぎつつ、その目を凝視する。

(甲03の言葉、何か…妙な部分があったような…)

「ゲてぽん、ぱんど蘭ティんがー!」

甲03のひときわ強烈な一撃が、正文の鎖を大きく押した。
巨大化した拳が眼前にくる。

この位置で殴った威力をコントロールされると、頭が破裂するおそれがあった。

(しまった!)

正文はあわててのけぞる。
その直後、殴った威力が頭のあった位置で炸裂した。

「ぐぶっ!?」

破裂は免れたものの、無傷とはいかない。
正文は後ろに転倒する。

甲03はこの好機を逃さない。
倒れた正文の上に、馬乗りになった。

「ダズぷれピヨ、ケそーん…」

もう終わりだとでも言っているのだろうか。
甲03が右手を大きく引く。

そして拳を巨大化させた。
それを見た時、正文の中に甲03の言葉が蘇る。

”阿久津さんを信用してるからこそ、こんなこと言えるんですよお。期待してますからねえ”

「!」

この瞬間、正文の中で何かがつながった。
彼は、今にも拳を振り下ろしそうな甲03ではなく、ステージにいる下野に向かって右手をかざす。

「下野ォッ!」

正文の右手から鎖が伸び、下野がかぶっているソンブレロを貫いた。
正確には、ソンブレロに取りつけられた不格好な飾りを破壊した。

「ぐぅおっ!?」

下野が声をあげ後ろに転倒する。
直後、何かが割れる音がした。

正文を攻撃しようとしていた甲03は脱力し、前へ倒れ込む。
自然と正文が受け止める形になった。

「甲03…!」

正文が呼びかけると、甲03がへらっと笑う。

「やるじゃ…ないですかあ……」

そう言うと意識を失った。

甲03は催眠状態から脱した。
しかし、催眠中に何度も『フィスト』を使わされたことで彼の体力は枯渇し、意識を失ったのだ。

正文は、甲03を受け止めたまま背中を軽く叩くと、こんな言葉を返す。

「先に信じてくれたのは、お前だよ」

それからゆっくりと体勢を入れ替え、床にそっと寝かせた。

正文は、下野がいるステージに顔を向け、立ち上がる。
その頃には、戦闘時にふさわしい緊張感を取り戻していた。

奇しくも同じタイミングで下野も立ち上がる。
彼は左手で額を押さえていた。

「し、信じられん…!」

ステージ下に正文の姿を見つけると、驚愕の表情を隠すことなく彼に問う。

「お前…! わしの催眠術を、なぜ!」

「甲03が、俺を信じてくれたおかげだ」

正文は悠然と答えた。
だが下野には意味がわからない。

「どういうことだ! 説明になっとらん!」

「甲03は気づいてたんだよ」

正文は、床に横たわる甲03を見つめる。

「自分が、催眠術にちょっとかかってしまっていることを…でもそれを俺に言おうとすれば、お前にやられる。完全に、催眠状態にされてしまう」

「…? なに…?」

「甲03はもうひとつ気づいてた」

正文の視線が、甲03から下野を経由してステージに落ちているソンブレロへ移る。

「その帽子…ソンブレロだっけ。俺には、つばのところに小物が飾られてるのが見えた。でも半分催眠状態だった甲03の目には、何も見えなかった」

「それが、それがどうしたというんじゃ」

「でも甲03は、『そこに何かがなきゃおかしい』と思ったんだよ。半分催眠状態の自分には見えないけど、俺にはきっと何かが見えていると思った。それは今まで命がけで戦ってきた者の勘みたいなもの」

「…!」

「それに甲03の能力は近距離型だ。ステージの上にいるお前には届かない。なんとかして俺に帽子のことを伝えて攻撃させなきゃいけない。そう思ったから、甲03は悪口という形で俺にヒントをくれたんだ。これにお前はあせった」

正文は鋭い目で下野を見る。

「あせったけど、それを俺に知られたくない。だからお前は、怒ったふりをして甲03を完全な催眠状態にしたんだ」

「く…!」

「俺はにぶいから、甲03がくれたヒントにすぐ気づけなかった。でもギリギリのところで、甲03が俺を信用してるって言ってくれたことを思い出せた。だから俺は、甲03の言葉に意味があると信じられた。たとえそれが敵に対する悪口であっても。そして」

正文は右手人差し指で、ステージのある場所を指し示す。
そこには、飾りの破片が散らばっていた。

「帽子の飾り…それこそが、お前の『特別な催眠術』にとって一番大切なもの。その答えを、導き出せた」

「ぬぅううううッ!」

下野は怒りの表情でうなり声をあげる。
額を押さえていた手を下ろした。

そこには、正文の鎖が当たった時についた傷がある。
下野は傷をかばうことをやめた。

「なーにが信用じゃ! なーにが『意味があると信じられた』じゃ! お前もこやつもただの人殺し、そんな言葉を口にする資格などないッ!」

下野が杖の下端でステージを叩く。
すると、着ていた民族衣装が左右に破れてみすぼらしい裸体が現れた。

「言ったはずじゃ! わしゃあキレイゴトが嫌いだと!」

ステージの床から金色の光が吹き上がり、下野の体を包む。

「わしの真なる力、思い知れぇええい!」

みるみるうちに下野の体が変化する。
まず、頭部が狼になった。

首から下は人間のままだったが、筋肉でふくれ上がる。
体格もふた回り以上大きくなった。

「誰にも邪魔させん…」

狼と人間のリアライザと化した下野が、低い声で正文に言う。

「わしと雫は永遠に一緒じゃ。もう誰にも、わしら家族の人生を邪魔させん…」

「家族?」

正文は顔をしかめた。

「お前は御堂を苦しめてるだけだ。催眠術で無理やり家族にしたって、そんなのは」

「うるさいうるさいうるさい! お前ごときが知ったふうな口をきくなァアアアアッ!」

下野は激高する。
感情をそのまま形にしたかのように、口から火の玉を吐き出した。


→ring.66へ続く

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