魔人の記 -8ページ目

ring.64 ンセッケ

ring.64 ンセッケ


正文と甲03は47階に到着した。
ふたりは非常階段のあるスペースで、この『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』における最終決戦への準備を進める。

(いよいよだ)

正文は左目だけでドアを見る。
47階フロア内へ通じるドアを凝視する。

(もう下野は俺たちに気づいてる。だから中でスタンバってる)

フロア内の状況をにおいと熱から分析したところ、45階と同じくフロア中央に大きな空間が設けられているのがわかった。

そしてそこには、下野 幸三らしき人間の反応がある。
左目が作り出す疑似視界に、人型のシルエットが映し出された。

(どんなヤツなんだろうな…元催眠術師ってことと、御堂のファンってことくらいしか情報がない)

正文は目を閉じる。
両手から鎖を何本か出現させ、帯のように束ねた。

それをななめに傾け、自身の頭部に巻く。
鎖の帯が、正文の右目を完全に覆った。

(これで俺は視覚に頼れない。つまり、催眠術には引っかからない)

鎖の眼帯が完成した。
簡易的な眼帯という意味では、コースター製に次ぐ二代目である。

鎖は実物ではなく、正文の力で『鎖の形をとるエネルギー体』なので、鎖輪が彼の髪や皮膚を巻き込むことはない。

(さて)

正文は左目を開く。
ふと、疑似視界に白くて丸いものを発見した。

それは包帯でぐるぐる巻きにされた甲03の左手である。

(そういえば甲03は一度外に出たんだったな…下野の能力について、何か新しい情報とか聞いてないだろうか)

正文はそう思い、甲03の顔を見る。

「あっ!」

ちょうど目が合った。

「阿久津さぁん、これ見てくださいよお」

甲03は弾む声で言いつつ、手に持っていたサングラスをかける。

「これえ、下野の特別な催眠術を打ち破るために支給されたグラサンなんですよお。似合いますかあ?」

「あ、ああ」

正文は戸惑いつつ返事をする。
この反応に、甲03はサングラスを下にずらし不服そうな目で彼を軽くにらんだ。

「阿久津さぁん、ノリ悪いですよお? もしかしてビビってるんですかあ?」

「…ああ、ビビってる」

「えっ」

発破をかけたつもりが、意外な言葉が返ってきたので甲03は驚く。
正文は緊張した面持ちで再びドアを見つめると、まるで監督が選手に助言するかのような口調でこう言った。

「ビビらないわけがないじゃないか。俺はこのタワーマンションでずっと、命がけの戦いをしてきた。そのラスボスが、ドアの向こうにいるんだぞ」

「でもお、阿久津さんはリアライザの魔法だって受け止めたじゃないですかあ」

甲03は軽く言いつつサングラスをかけ直す。

「ディフェンスに関してはあ、何も心配することなんかないと思いますけどねえ」

「うーん…ディフェンスとかオフェンスとか、そういう細かい話じゃないんだ」

「じゃあどういう話なんですう?」

「なんていうか、足元をすくわれないために『今はきっちり緊張してなきゃいけない』みたいな…そういう感じかもしれない」

「なんか大変ですねえ。僕チャンにはよくわかりませぇん」

「ああ、わからなくていいよ」

正文は甲03に向き直る。
突き放していると相手を誤解させないように、細心の注意を払ってこう付け加えた。

「これは俺の問題だから、理解しろとも言わないし」

「そうですかあ。じゃあわからないままにしときますう」

甲03の反応は一貫して軽い。
正文が心がけたことに気づいているのかいないのか、サングラスで隠れた目から読み取るのは不可能だった。

その後、ふたりは決戦に向けての最終確認を行う。

「僕チャンのサングラスと阿久津さんの眼帯でえ、下野の催眠術は封じられましたあ。アイツはもうただのおっさんですう」

「ああ」

「苦しまぎれに何かやらかしてくるかもしれませんけどお、そこはリアライザの時みたいに出たとこ勝負でいきましょお」

「出たとこ勝負、って…本当にそれでいいのか?」

「阿久津さんを信用してるからこそ、こんなこと言えるんですよお。期待してますからねえ」

「…わかった」

「じゃあ、いきましょお」

最終確認を終え、ふたりは47階フロア内に入る。
入るとすぐに、男の声が聞こえてきた。

”諸君、わしゃあキレイゴトが嫌いだ”

「!」

正文にはすぐにわかった。

(下野の声だ…タブレットから流れてくるのをさんざん聞かされた)

理解するとともに嫌悪感が顔に出る。
下野が御堂を辱めるおぞましい映像が、嫌でも思い出された。

彼の嫌悪感などおかまいなしに、下野の話は続く。

”やれ『アナタは特別な存在』だの、『がんばってればいいことある』だの、思ってもいないことを恥ずかしげもなく言ってくる。わしにはそれが我慢ならん”

下野の声はマイクを通した電子的な音声だった。
ただそれは、タブレットから流れる動画のようにあらかじめ録音されたものではない。

(ヤツは今まさに、俺たちに向かってしゃべってるんだ)

正文は左目で、壁の向こうにある人型の反応を見ながら歩く。
人型の反応は右手にマイクらしきものを持っていた。

催眠下にあった甲03はヘッドセットのマイクを使用していたが、下野はハンドマイクを使っているようだ。

(マイクを使ってしゃべるってことに、何かこだわりでもあるのか…?)

正文が不思議に思っていると、下野の語気がにわかに強まった。

”だからわしは心の底から怒り狂う!”

「!」

”お前ごときにわしの何がわかるのかと! 根拠もなしに、いいことがあるなんて無責任なことを言うなと!”

(…何の話をしてるんだ?)

”この怒りこそがわしの原動力! 日々の生活という奔流に押し流されようとも、怒りを忘れてはならん! 忘れてしまえば、大切なものを奪われたまま泣き寝入りさせられることになる!”

「プッ」

正文の後ろで、甲03が小さく吹き出した。

「下野ってばあ、ネットに転がってる励ましの言葉とかにい、いちいち目くじら立ててるんですかあ? ずいぶんとチンケな原動力ですねえ」

「……」

甲03の嘲りを、正文は無言で流す。
同調しようと思わなかったのが主な理由だが、もうひとつ重大な事実があった。

彼らがフロア内に入ってから続いていた、通路の壁が終わったのである。
正文と甲03は、ついに肉眼で下野 幸三をとらえるに至ったのだ。

(ステージ!?)

正文の中に、最初に浮かんだのがその言葉だった。
下野 幸三はきらびやかなステージの上に立っていた。

”ようこそ、諸君”

ステージの上から、下野が正文たちに声をかける。
下野は、特別な衣装を身にまとっていた。

頭にはソンブレロというメキシコの伝統的な帽子をかぶっている。
この帽子の特徴として、頭頂部分が高くつば部分が広い。

下野はこれを改造し、頭頂部分のさらに上に天使の輪らしきものを取りつけていた。
針金1本で支えているらしく、彼がしゃべる度にそれは頼りなく揺れた。

広いつばには、何やら小物がひしめきあっている。
小物はあまりに粗末なつくりで、人間を模したものなのか動物を模したものなのかすらわからない。

下野の改造はソンブレロだけでなく服にも及ぶ。
彼はネイティブアメリカンの民族衣装を着ていたのだが、そこかしこに小動物の頭骨らしきものが散りばめられていた。

頭骨らしきものはやけに精巧なつくりで、つばに取りつけられた小物とは雲泥の差である。
見る者に『もしかしたら本物なのではないか』と思わせるほどの不気味さだった。

”まさかここまで来るとは、というのが正直な感想だ”

下野はステージから正文たちを見下ろしつつ、左右に2歩ずつ動く。
その足取りは悠然としており、まるでディナーショーの主役といった様子だった。

”歓迎しよう! わしこそがこのタワマンの主…”

「だっさ!」

甲03が下野の言葉を遮る。
彼はうんざりした表情でまくし立てた。

「なんなんですかあ、その格好! それでかっこいいとでも思ってるんですかあ? あまりにもセンスなさすぎですよお! ジャストコでそろえたっぽい、阿久津さんの服の方がまだマシですう!」

”…え?”

(え!?)

下野だけでなく、正文までとばっちりを受ける。
驚くふたりをよそに、甲03の文句は止まらない。

「そもそもですねえ、ソンブレロをかぶるんなら着る衣装だってメキシコのものでそろえるべきでしょお? なんなんですかあ、頭はメキシコ体はネイティブアメリカンってえ! ひとり北米大陸ですかあ?」

”なんじゃと…!”

怒りによって下野が我に返った。

”わしの高尚なセンスがわからんのか! せっかくここまできたお前たちに敬意を表して、『パラディソ・コウ』時代の衣装を引っ張り出してきたというのに!”

「そんなヘンテコ衣装で恩を売られてもお、全然ありがたくありませえん! ラスボスと戦うからってことでマジメに気持ちを作ってきたあ、阿久津さんに謝ってくださぁい!」

(いや、別に謝ってほしいとかないけど…っていうかなんで俺を引き合いに出すんだ!?)

ステージの下から衣装がださいと言い放つ甲03、
それに対してステージの上から怒りをぶちまける下野、

そして巻き添えにされる正文。

事態は混沌としてきた。
そこには最終決戦にふさわしい緊張感などない。

「ええい、もう我慢ならん!」

怒り心頭の下野はマイクを投げ捨てる。
右手を自身の背中に回したかと思うと、立派な木の杖を出してきた。

杖といっても歩行補助に使うものではない。
上端が丸まった特徴的なその形は、甲03に新たなネタを提供する。

「ひとり北米大陸の次はあ、魔法でも使うつもりですかあ? まさか催眠術と魔法の区別もつかないなんて言いませんよねえ?」

「やかましいッ! もうちょっと引っ張るつもりじゃったが、お前にはもう退場してもらう!」

下野はそう言うと甲03に杖をかざす。
その動きは間違いなく、魔法を使う動作だった。

これに甲03は腹を抱えて笑う。

「やっぱり区別できてないんじゃないですかあ! あっははぁ、あははっ」

盛大に笑い始めるも、それは3秒と続かない。

「あは」

甲03は腹を抱えた体勢のままぴたりと固まった。
突然のことに正文は驚愕する。

「え!?」

一体何が起こったのか。
なぜ甲03は固まってしまったのか。

正文が呆然と甲03を見ていると、下野が話しかけてきた。

「阿久津とかいったか。お前…リアライザの魔法を止めたな? しかも2回」

「!」

なぜそれをという表情で、正文は下野へ視線を移す。
答えは、彼が疑問を口にする前にもたらされた。

「わしはあの戦いを見ておった。それで、じゃ……2回目に止めた時、お前はなぜリアライザの動きを見れた?」

「…なぜ、って…?」

「お前は『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を鎖の網で止めた。止めているところに、リアライザが2発目を撃とうとした。しかし、『なぜお前にその動きが見えた?』」

「何が…何が言いたいんだ」

「火の玉が目の前にあるんじゃぞ?」

下野は、何もわからない正文に嘲りの表情を見せる。

「右目は火の玉が放つ光でまぶしかろう。そして左目は、火の玉が放つ熱でこれまたまぶしかろう。なのにお前には『火の玉の向こうにいるリアライザの動きが見えた』」

「…!?」

正文の顔が青くなる。
下野はすでに、正文の左目がにおいと熱を感知する器官に変わったことを知っていた。

そしてさらに重要なのは、リアライザの動きが見えた理由である。
本来なら火の玉が放つ光と熱に遮られて見えないはずのものが、なぜ見えたのか。

「簡単なことじゃよ」

下野がニヤリと笑う。
それは、動画の中で御堂を凌辱していた時の表情にとても近い。

「お前たちはもうすでに落ちとるんじゃ。わしの…催眠術にな」

下野が静かに言い終えた直後。
右手を巨大化させた甲03が、正文に襲いかかった。


→ring.65へ続く

・目次へ

ring.63 クッジマ

ring.63 クッジマ


かざした手の先から、火の玉が出るのを見た。
そんな経験をした者が、世界に何人いるだろう。

さらに、その火の玉が自分に向かって飛んできた。
そんな経験をした者が、世界に何人いるだろう。

正確な数はわからない。
わからないが、少なくとも現実世界にそういった客観的事実は存在しない。

当然ながら正文にとっても、生まれて初めての経験となった。

「はあ!?」

正文の口から、驚きとも怒りとも呆れともつかない声が飛び出す。
言おうとしていた言葉を言い終わる前に火の玉が飛んできたため、大きな声が出た。

さまざまな感情が混ざっているかのような声色だったが、実際は単なる大声であり、声を出した本人の頭は真っ白だった。
正文には、声に感情を込める暇すらなかったのである。

ではこの大声には何の意味もなかったのか、というとそうではない。
大声は文字通り音速で正文自身の聴覚を刺激し、普段より強い音圧を持つその声の大きさが『自分は大きな声を出したのだ』とより強く認識させる。

おかげで、正文は一瞬で我に返れた。

(ヤバい!)

正文はとっさに両手を前に出す。
両手の間には、すでに細い鎖が何本も渡されていた。

いわば鎖の網である。
そこに、リアライザが放った火の玉が当たった。

鎖を構成する輪のひとつひとつには小さな穴があいており、鎖同士の間にもわずかな空間があいている。
これらの穴が、火の玉を細かく切り刻む。

火の玉は火の粉となり、正文に到達することなく消滅した。

「!?」

これにはリアライザも驚愕を禁じ得ない。
人間と豚が混ざり合った顔に、感情がそのままあらわれる。

正文のそばにいた甲03も同様だった。
ただ彼は、自分たちが助かったことにいち早く気づき、喜びの表情で右手を強く握りしめた。

「阿久津さぁん! すごいじゃないですかあ! 『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を受け止めるなんてえ!」

「じぐ…なんだって?」

正文は緊張感漂う表情で、リアライザの方を向いたまま甲03に尋ねる。
この問いに、甲03は弾む声でこう返した。

「『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』ですよお! 火の玉を飛ばす精霊魔法ですう! これでもう、あのリアライザは怖くもなんともありませえん!」

「せいれい…まほう、だって?」

「そうですよお! 聞いたことないですかあ?」

「いや、ゲームとかに出てくるのは知ってるけど」

「それですそれそれえ!」

「それそれ、って……マジか」

正文の頬を汗が伝う。
彼自身は、鎖の網を展開したまま動かない。

いや動けなかった。
正文の頭は今、現状をどう理解すべきかフル回転しており、それ以外の動作を受けつけられずにいた。

(せいれいまほう? 精霊魔法? え? あの火の玉がそうだって? いや確かに、魔法じゃなきゃいきなり火の玉が出てきたことの説明がつかないけど、そもそも魔法の説明なんて……)

「……」

リアライザもまた、正文と同じように動きを止めている。
右手を前にかざした体勢を維持してはいたが、先ほどよりも右手が少し下がっている。

饒舌なのは、第三者の甲03だけだった。

「やーいやーい、このブタウシトリ野郎! もうお前なんか怖くないぞお! 無敵の阿久津さんがあ、お前を焼肉定食にしちゃうんだからなあ!」

「! お、おい!」

正文は思考の迷宮から脱し、甲03のあおりを止めようとする。
だがもう遅かった。

「ブモォオオオッ!」

リアライザが怒りの雄叫びをあげる。
混ざり合った比率の高さに合わせてか、その声は豚に近い。

雄叫びの後で、リアライザは下がっていた右手を上げる。
再び正文に狙いをつけた。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

奇妙なことに、リアライザは魔法を放つ時だけ人間の声を発した。
そして右手の先から現れた火の玉は、先ほどよりも大きい。

「さあっ、がんばってくださいねえ! 阿久津さあん!」

甲03がそう言いながら正文の陰に隠れる。
これに正文は抗議しようとした。

「お、お前なあ!」

彼がそこまで言ったところで、火の玉が飛んでくる。
先ほどはバレーボール程度の大きさだったが、今度のそれはバスケットボールを超えていた。

「くそっ!」

抗議している場合ではないと、正文は火の玉に向き直る。
両手に渡した鎖の網で受け止めた。

「ぐうっ」

重い手応えに、正文は思わず声を漏らす。
大きさに比例してか、バスケットボール超の火の玉は先ほどよりも勢いが強い。

鎖の網で受け止められようが構わず、ぐいぐいと押してくる。
強度も上がっているらしく、鎖輪の穴や鎖同士の隙間でバラけることもなかった。

「ううおおおおおッ!」

「ブモォアアアッ!」

鎖の網と火の玉、
正文とリアライザ。

両者は互いに押し合う。
一歩も譲らない。

ここでリアライザが動いた。
右手に加え、左手までも正文に向ける。

「おい、うそだろ」

正文の顔が青くなった。
相手が何をしようとしているのか気づいたのだ。

(この状況でもう1発撃てるのか!? 2発も受け止めるなんて無理だぞ!)

彼がそう思っている間にも、リアライザは準備を終える。
ニヤリと笑みを浮かべ、口を開いた。

「ジグ・ドー…」

「残念でしたあ」

どこかから甲03の声が聞こえたかと思うと、大きな破裂音がした。
途端に火の玉は消え、それを押していた正文は前のめりに転びかける。

「っとと」

正文はどうにか踏ん張り、転倒を防いだ。
何が起こったのかと、踏ん張った時に自然と下がった顔を上げる。

彼が見た先には、腰から下しかないリアライザとその後ろに立つ甲03がいた。

「2発目は撃たせませんよお」

甲03はそう言って微笑む。
上半身だけでなく命という支えを失ったリアライザが、前に倒れた。

「……『フィスト』…か…」

正文がつぶやくように言うと、甲03が楽しげに「正解ですう」と返した。

甲03はリアライザをあおり、もう一度魔法を使うように仕組んだ。
そして正文とリアライザが押し合いをしている間に、リアライザの背後に回り込んだ。

そこで『フィスト』を使い、リアライザの上半身を破裂させたのである。

「『なんで殺したんだ』なんて言いませんよねえ?」

甲03が笑顔で尋ねる。
正文は曇った表情でまぶたを閉じつつ、静かにうなずく。

この反応に、甲03は満足した。

「よかったですう。阿久津さんを助けようってがんばったのにい、怒られちゃ割に合いませんもんねえ」

「……」

正文は無言で鎖の網を消す。
それからまぶたを開くと、46階へ向かうため歩き出した。

(わかってる。あのままじゃ俺はやられてた。甲03のおかげで助かった…それはわかってる)

正文がリアライザの左側を通り過ぎたところで、甲03が合流する。

「でもほんとすごいですよねえ、まさか魔法を止めちゃうなんてえ」

彼の楽しげな声は、正文の心をやけに寒くした。

(わかってるんだけど、すっきりしない……)

「実はですねえ、僕チャンが最初に来た時い、あいつにやられたみたいなんですよお。だから絶対に一泡吹かせたかったんですよねえ。って、阿久津さぁん聞いてますう?」

「ああ、聞いてるよ…」

甲03に気のない返事をしつつ、正文は顔を上げた。

彼の気持ちはとても重く、濁っている。
あれほど鮮烈だった精霊魔法に対する驚きも、はるか遠くに見る蜃気楼のように薄まってしまった。


46階はとても静かだった。
正文が左目で索敵しても、リアライザらしき存在は見当たらない。

(じゃあ次は47階か…)

彼の気持ちはまだ晴れなかった。
そこへ、甲03が釘を刺す。

「阿久津さぁん、そろそろ元気出してもらわないと困りますう。おそらくこの上にい、下野がいますよお」

「…え」

正文は驚きの表情で甲03を見た。
その後でこう尋ねる。

「この上は47階だろう。下野がいるのは最上階で、最上階は48階…」

「考えてもみてくださあい。下野はキルメーカー運営を裏切ってまでえ、御堂 雫をさらったんですよお。48階で戦ったらあ、巻き込んじゃうかもしれないじゃないですかあ」

「巻き込んじゃうって…あ、御堂を、か」

「そうですう。それにい、戦闘で飛び散った血とか肉とかがある場所でえ、生活したいなんて思いますう?」

「…あー…なるほど。そういうのは47階ですませて、48階は御堂とゆったり過ごす専用の階にしてる……と」

「なのでえ、阿久津さんにはそろそろ元気出してもらわないと困るんですう」

「……そうか…」

正文は立ち止まり、顔の向きを甲03から前方へと変える。
そこには47階への非常階段がある。

(ここを上れば、下野と戦うことになる…そういうことなんだな)

彼にとって、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での戦いは非常に長いものだった。
その終わりがいよいよ近づいている。

(俺は今まで、誰も助けられなかった)

正文は右手を握りしめる。

(川で殺された女の人も、梨名も…それだけじゃない、あの魔法を使うリアライザだってそうだ。俺がもっと強ければ、他のリアライザみたいに気絶させるだけですんだはずだ)

重く濁るばかりだった気持ちに、自ら熱を入れる。

(下野を倒せば御堂を守れる)

その思いが、まるで心臓のように脈を打った。

(α7の話じゃ、御堂はここに来る前にいろいろあったみたいだけど、そんなことは関係ない。下野を倒せば御堂を守れる。俺にとって重要なのは、それだけなんだ)

左手も握りしめ、両拳で左右の太ももを叩いた。
それから手を開き、顔の位置まで上げる。

(勝つぞ)

正文は、両手で自らの頬を張った。
わずかに痛みを伴う刺激が、気持ちの切り替えを助ける。

彼は甲03に顔を向けると、はっきりした口調でこう言った。

「もう大丈夫だ。俺はちゃんと戦える」

「そうこなくちゃあ! では行きましょう」

こうしてふたりは47階への非常階段を上り始める。
『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での最終決戦が、秒読み段階に入った。


→ring.64へ続く

・目次へ

ring.62 イカイケ

ring.62 イカイケ


先の会話が一段落した後、議題は4体のリアライザをどうするかという内容に移る。
ただその移行は穏やかなものではなく、甲03の物騒な提案により突如として始まった。

「こいつら早くぶっ殺しましょうよお」

これに正文は、両手で落ち着けとジェスチャーをしつつ制止の言葉を口にする。

「待て、待ってくれ」

「何を待つんですかあ? こいつらは僕チャンと阿久津さんを殺そうとしたんですよお!」

「それを言うならお前だって俺を殺そうとしただろう」

「僕チャンは運営側の人間だからいいんですう。でもこいつらは単なるバケモノなのでえ、ぶっ殺してもいいんですよお」

そう言った後で、甲03は「もしかして」と先の会話を蒸し返す。

「阿久津さん、こいつらが元人間だって本気で思ってるんじゃ…」

「い、いや違う! そうだな、言い方を変えよう」

正文はあわてて会話の路線変更を試みる。
『鎖を巻きつけた時にリアライザたちの記憶が自分の中に流入した』ということを、彼は甲03に知られたくなかった。

(手の内はできるだけ明かさない方がいい。今の甲03は、仲間ではあっても友だちじゃないんだからな…!)

警戒しすぎだとは思わなかった。
あらためて考えてみても、この感覚に間違いはない。

感覚に物質的な本体は存在しないが、正文は自身の危機感に手応えらしきものを感じていた。
また、それが信じるに値するものだと納得もできた。

問題は、彼が納得に至るまでに4秒ほどの時間を要したことである。
会話中における4秒の沈黙はなかなかに長い。

「まだですかあ?」

甲03がつまらなそうな表情で正文を急かすのも、無理はなかった。

「あっ…えっと」

正文は早急に頭を切り替え、会話の流れを引き戻す。
まずは、彼自身が鎖と鉄球で壁に縛りつけた者たちの名称について、甲03に尋ねることから始めた。

「リアライザ…だっけ? あいつらの名前」

「そうですよお」

「聞き慣れない名前だけど、一坂に古くからいる妖怪とか、そういうものなのか?」

「それえ、ぶっ殺すかどうかに関係ありますう?」

「大事なことなんだよ。だってさ、リアライザが土着のバケモノじゃなくてキルメーカー運営オリジナルの何かだとしたら、それはキルメーカー運営の『備品』ってことにならないか?」

「! 備品…」

甲03がハッとする。
正文はさらに続けた。

「しかもただの備品じゃない。下野の催眠術をくらったっていう『特別なデータ』を持ってる。それを殺すのって、運営としてはもったいないんじゃないのか?」

「あー……あー…」

甲03は大いに揺らぐ。
納得はできないが、理解するしかないという表情でこんな言葉をしぼり出す。

「そう、かもぉ、しれないですう」

「勝手に殺したら、α7からいろいろ請求されたりしないか? よく知らないけど」

「あー!」

甲03はいきなり頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
青い顔でガタガタと震え出す。

「ね、ねーさんに怒られるのはイヤですう」

「ねーさん?」

「α7ねーさんですう。ねーさんは恐ろしいんですう。お金のことになると、ほんとに容赦ないんですう」

「お、おい…」

正文は甲03が心配になり、思わず手を差し伸べようとする。
だが彼の手が触れるよりも先に、甲03は勢いよく立ち上がった。

「わかりましたあ」

青かった顔には血色が戻り、震えも止まっている。
しゃがみ込む前と全く同じ様子で、正文にこう言った。

「しょうがないですねえ、この場は我慢しますう」

「そ、そうか。わかってくれてうれしいよ」

正文は切り替えの速さに戸惑いつつ、甲03にうなずいてみせる。
リアライザたちを殺さないという合意が、ここに成立した。

この結果に正文はホッとする。

(なんとかうまくいったな…俺も少しは、α7みたいに口がうまくなっただろうか)

「じゃあ、さっさと上に行きましょう」

甲03が正文に背を向ける。
歩き出しながら、しれっとこんなことを言った。

「またリアライザが出たらあ、阿久津さんが拘束してくださいねえ」

「えっ? ちょ、ちょっと待ってくれ」

「今度はなんですかあ?」

甲03は立ち止まり、体を軽くねじって正文を見る。
正文はあわてた様子で甲03に尋ねた。

「リアライザってまだいるのか? あと何体くらいいるんだ?」

「ボスの話ではあ、えーっとお…あと5体くらいですかねえ」

「そ、そんなにいるのか」

「阿久津さんなら楽勝でしょお? こいつらみたいにふんじばっちまえばいいんですからあ」

甲03が4体のリアライザを指さす。
正文はそれを見て、顔をしかめた。

(そう単純な話じゃないんだよな…)

彼は口に出さず心で言い、頭をかいた。

(手の内は明かしたくないけど、なんでも秘密ってわけにはいかないのかもしれない)

「どうしましたあ? 早く行きましょうよお」

「甲03、ちょっと聞いてくれるか」

正文は真剣な口調で甲03に言う。
甲03はこれを不思議に思い、体ごと向き直って尋ねた。

「なんですかあ?」

「俺の鎖と鉄球だけど、ここに置いていけないんだ。リアライザたちをずっと縛ったままってわけにはいかない」

「それはあ、鎖と鉄球が実物ではなくてえ、阿久津さんの能力ってことですかあ?」

「ああ。リアライザがこいつら4体だけなら、結構長いこと縛りつけてるし解除しても気絶したままだろうけど、上にもいるとなると話が違ってくる。こいつらと同じようには拘束できない」

「そこらへんは大丈夫ですよお。僕チャンも『フィスト』でえ、リアライザを殺さない程度にしばきますのでえ」

「協力してくれるか」

「もちろんですよお、そのために来ましたのでえ。それにい」

甲03は正文に背を向けると、右手をひらっと振りながら肩越しにこう続けた。

「なんで鉄球が落ちないのか不思議だったんですけどお、その答えがわかったのですっきりしましたあ」

正文の『鉄球』は、黒いシミから本物の鉄球を呼び出す能力ではない。
鉄球の形をしたエネルギー体を作り出す能力である。

彼が鎖と鉄球をつなげられたのは、どちらも彼自身の能力だったためだ。
そして鉄球は実物ではないため、正文が投げても重力に引っ張られて床に落ちたりはしなかった。

それでいて鉄球らしい質量はきっちり再現し、壁にめり込むという現象を発生させたのである。

(話してもよかったんだろうか…)

正文の中に、一抹の不安と後悔が生まれる。
話す前に覚悟を決めたつもりだったが、その覚悟は今、やけに小さくしぼんでいた。

(催眠が解けて気弱な感じになった……はずなのに、なんだろう。何かおかしい)

催眠が解けた甲03は口調こそ気弱だが、話す内容は好戦的だった。
しかも弱い者が無理に強い言葉を使っているといった雰囲気ではなく、言ったことをそのまま実行する凄みのようなものがあった。

(…逆に底知れない感じになったっていうか…)

リアライザを拘束したあの短い時間の中で、甲03はこちらの能力を分析していた。
いや、会話中も分析を続けていたのだろう。

そうでなければ説明がつかないほど、甲03の理解は早かった。

(とにかく、仕方がなかったとはいえ…俺は自分で弱点を話してしまった。そのことは忘れちゃいけない)

正文は、甲03に対する警戒をさらに強める。
その背を追って歩き始めるのだった。


甲03の言った通り、41階以降にもリアライザがいた。
だが1階につき1体だったため、数で勝る正文たちは苦戦せずにすんだ。

いや、苦戦どころか楽勝だった。
ふたりのコンビネーションは絶妙だったのである。

「倒れろお!」

甲03が『フィスト』で巨大化させた右手を振るう。
その動作は正文と戦った時に比べ、やけに遅い。

軌道も洗練されていなかった。
人間と動物が混ざった姿のリアライザは、文字通り人間離れした運動神経で楽に回避する。

「そこだッ!」

回避した先に、正文が鎖つきの鉄球を投げた。
鉄球と鎖は着地前のリアライザをとらえ、壁に縛りつける。

「グゥエ…」

そして全身を圧迫し意識を奪った。

縛りつける場所は壁に限らず、床や天井ということもあった。
どこであろうと、短時間で勝利することには変わりなかった。

(なんてヤツだ)

正文は、喜ぶよりも先に恐怖を感じる。

(俺の方なんて全然見てないのに、俺がどこにいるか完璧につかんでる。鉄球を投げやすいように位置取りしてる…!)

さすがキルメーカーのエージェントというべきか、甲03は戦い慣れていた。

戦い慣れているということは、人を殺し慣れているということでもある。
正文はそれがどれほど恐ろしいことかよくわかっており、だからこそ恐怖を感じていた。

「今回もうまくいきましたねえ。さあ、さっさと上に行きましょお」

「あ、ああ」

正文は、相手に恐怖を気取られないよう返事をするのが精一杯だった。

41~44階のリアライザを倒し、ふたりは45階にやってくる。
ここはこれまでの階とは違って、フロア中央に広い空間があった。

1階や40階は、共用施設を置くために広い面積で区切っていたが、それとは根本的に異なる。
フロア中央部にあったはずの居室数戸分を、無理やり取り除いて広い空間を作ったようだ。

空間の中央に、その犯人と思しき何者かが立っている。

「……」

静かだった。
沈黙していた。

姿かたちはリアライザである。
この個体は、人間と豚、さらに牛と鶏がいびつに混ざり合っていた。

筋肉がやたらと盛り上がり、体の左右で形が異なる。
お世辞にも知性を感じさせる見た目ではなかったが、他のリアライザと違って正文たちを見てもいたずらに吠えたりはしなかった。

「な、なんか雰囲気あるな…」

正文は緊張した面持ちで、リアライザの様子をうかがう。
ふと、すぐ近くで何かが動いた気がした。

そちらに目をやると、甲03がリアライザに背を向け忍び足で逃げようとしている。
正文は、彼が着ている黒スーツの後ろえりをつかんだ。

「おい…! なに逃げようとしてるんだ」

「あいつは無理ですよお。手加減したら負けますう」

「そんなに強いのか…? 数はこっちが勝ってるんだし、今までだって楽勝だったじゃないか」

「今までとは次元が違うんですよお」

「どういう……」

正文が甲03に尋ねようとした時、リアライザが動いた。
とはいっても、床を蹴って接近し始めたわけではない。

ただ正文たちに向かって、右手をかざしただけである。

「…? なにを…」

何をしようとしているのか。
それはリアライザへの問いというよりひとりごとだったが、今度も正文は最後まで言わせてもらえなかった。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

リアライザが鋭く叫んだのだ。
直後、かざした手の先から真っ赤に燃える火の玉が現れた。

バレーボールほどの直径を持つ火の玉が、正文たちめがけて猛スピードで飛ぶ。
それはこの世界には存在しないはずの、精霊魔法だった。


→ring.63へ続く

・目次へ