ring.63 クッジマ | 魔人の記

ring.63 クッジマ

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かざした手の先から、火の玉が出るのを見た。
そんな経験をした者が、世界に何人いるだろう。

さらに、その火の玉が自分に向かって飛んできた。
そんな経験をした者が、世界に何人いるだろう。

正確な数はわからない。
わからないが、少なくとも現実世界にそういった客観的事実は存在しない。

当然ながら正文にとっても、生まれて初めての経験となった。

「はあ!?」

正文の口から、驚きとも怒りとも呆れともつかない声が飛び出す。
言おうとしていた言葉を言い終わる前に火の玉が飛んできたため、大きな声が出た。

さまざまな感情が混ざっているかのような声色だったが、実際は単なる大声であり、声を出した本人の頭は真っ白だった。
正文には、声に感情を込める暇すらなかったのである。

ではこの大声には何の意味もなかったのか、というとそうではない。
大声は文字通り音速で正文自身の聴覚を刺激し、普段より強い音圧を持つその声の大きさが『自分は大きな声を出したのだ』とより強く認識させる。

おかげで、正文は一瞬で我に返れた。

(ヤバい!)

正文はとっさに両手を前に出す。
両手の間には、すでに細い鎖が何本も渡されていた。

いわば鎖の網である。
そこに、リアライザが放った火の玉が当たった。

鎖を構成する輪のひとつひとつには小さな穴があいており、鎖同士の間にもわずかな空間があいている。
これらの穴が、火の玉を細かく切り刻む。

火の玉は火の粉となり、正文に到達することなく消滅した。

「!?」

これにはリアライザも驚愕を禁じ得ない。
人間と豚が混ざり合った顔に、感情がそのままあらわれる。

正文のそばにいた甲03も同様だった。
ただ彼は、自分たちが助かったことにいち早く気づき、喜びの表情で右手を強く握りしめた。

「阿久津さぁん! すごいじゃないですかあ! 『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』を受け止めるなんてえ!」

「じぐ…なんだって?」

正文は緊張感漂う表情で、リアライザの方を向いたまま甲03に尋ねる。
この問いに、甲03は弾む声でこう返した。

「『火炎魔球(ジグ・ドーラ)』ですよお! 火の玉を飛ばす精霊魔法ですう! これでもう、あのリアライザは怖くもなんともありませえん!」

「せいれい…まほう、だって?」

「そうですよお! 聞いたことないですかあ?」

「いや、ゲームとかに出てくるのは知ってるけど」

「それですそれそれえ!」

「それそれ、って……マジか」

正文の頬を汗が伝う。
彼自身は、鎖の網を展開したまま動かない。

いや動けなかった。
正文の頭は今、現状をどう理解すべきかフル回転しており、それ以外の動作を受けつけられずにいた。

(せいれいまほう? 精霊魔法? え? あの火の玉がそうだって? いや確かに、魔法じゃなきゃいきなり火の玉が出てきたことの説明がつかないけど、そもそも魔法の説明なんて……)

「……」

リアライザもまた、正文と同じように動きを止めている。
右手を前にかざした体勢を維持してはいたが、先ほどよりも右手が少し下がっている。

饒舌なのは、第三者の甲03だけだった。

「やーいやーい、このブタウシトリ野郎! もうお前なんか怖くないぞお! 無敵の阿久津さんがあ、お前を焼肉定食にしちゃうんだからなあ!」

「! お、おい!」

正文は思考の迷宮から脱し、甲03のあおりを止めようとする。
だがもう遅かった。

「ブモォオオオッ!」

リアライザが怒りの雄叫びをあげる。
混ざり合った比率の高さに合わせてか、その声は豚に近い。

雄叫びの後で、リアライザは下がっていた右手を上げる。
再び正文に狙いをつけた。

「《火炎魔球(ジグ・ドーラ)》!」

奇妙なことに、リアライザは魔法を放つ時だけ人間の声を発した。
そして右手の先から現れた火の玉は、先ほどよりも大きい。

「さあっ、がんばってくださいねえ! 阿久津さあん!」

甲03がそう言いながら正文の陰に隠れる。
これに正文は抗議しようとした。

「お、お前なあ!」

彼がそこまで言ったところで、火の玉が飛んでくる。
先ほどはバレーボール程度の大きさだったが、今度のそれはバスケットボールを超えていた。

「くそっ!」

抗議している場合ではないと、正文は火の玉に向き直る。
両手に渡した鎖の網で受け止めた。

「ぐうっ」

重い手応えに、正文は思わず声を漏らす。
大きさに比例してか、バスケットボール超の火の玉は先ほどよりも勢いが強い。

鎖の網で受け止められようが構わず、ぐいぐいと押してくる。
強度も上がっているらしく、鎖輪の穴や鎖同士の隙間でバラけることもなかった。

「ううおおおおおッ!」

「ブモォアアアッ!」

鎖の網と火の玉、
正文とリアライザ。

両者は互いに押し合う。
一歩も譲らない。

ここでリアライザが動いた。
右手に加え、左手までも正文に向ける。

「おい、うそだろ」

正文の顔が青くなった。
相手が何をしようとしているのか気づいたのだ。

(この状況でもう1発撃てるのか!? 2発も受け止めるなんて無理だぞ!)

彼がそう思っている間にも、リアライザは準備を終える。
ニヤリと笑みを浮かべ、口を開いた。

「ジグ・ドー…」

「残念でしたあ」

どこかから甲03の声が聞こえたかと思うと、大きな破裂音がした。
途端に火の玉は消え、それを押していた正文は前のめりに転びかける。

「っとと」

正文はどうにか踏ん張り、転倒を防いだ。
何が起こったのかと、踏ん張った時に自然と下がった顔を上げる。

彼が見た先には、腰から下しかないリアライザとその後ろに立つ甲03がいた。

「2発目は撃たせませんよお」

甲03はそう言って微笑む。
上半身だけでなく命という支えを失ったリアライザが、前に倒れた。

「……『フィスト』…か…」

正文がつぶやくように言うと、甲03が楽しげに「正解ですう」と返した。

甲03はリアライザをあおり、もう一度魔法を使うように仕組んだ。
そして正文とリアライザが押し合いをしている間に、リアライザの背後に回り込んだ。

そこで『フィスト』を使い、リアライザの上半身を破裂させたのである。

「『なんで殺したんだ』なんて言いませんよねえ?」

甲03が笑顔で尋ねる。
正文は曇った表情でまぶたを閉じつつ、静かにうなずく。

この反応に、甲03は満足した。

「よかったですう。阿久津さんを助けようってがんばったのにい、怒られちゃ割に合いませんもんねえ」

「……」

正文は無言で鎖の網を消す。
それからまぶたを開くと、46階へ向かうため歩き出した。

(わかってる。あのままじゃ俺はやられてた。甲03のおかげで助かった…それはわかってる)

正文がリアライザの左側を通り過ぎたところで、甲03が合流する。

「でもほんとすごいですよねえ、まさか魔法を止めちゃうなんてえ」

彼の楽しげな声は、正文の心をやけに寒くした。

(わかってるんだけど、すっきりしない……)

「実はですねえ、僕チャンが最初に来た時い、あいつにやられたみたいなんですよお。だから絶対に一泡吹かせたかったんですよねえ。って、阿久津さぁん聞いてますう?」

「ああ、聞いてるよ…」

甲03に気のない返事をしつつ、正文は顔を上げた。

彼の気持ちはとても重く、濁っている。
あれほど鮮烈だった精霊魔法に対する驚きも、はるか遠くに見る蜃気楼のように薄まってしまった。


46階はとても静かだった。
正文が左目で索敵しても、リアライザらしき存在は見当たらない。

(じゃあ次は47階か…)

彼の気持ちはまだ晴れなかった。
そこへ、甲03が釘を刺す。

「阿久津さぁん、そろそろ元気出してもらわないと困りますう。おそらくこの上にい、下野がいますよお」

「…え」

正文は驚きの表情で甲03を見た。
その後でこう尋ねる。

「この上は47階だろう。下野がいるのは最上階で、最上階は48階…」

「考えてもみてくださあい。下野はキルメーカー運営を裏切ってまでえ、御堂 雫をさらったんですよお。48階で戦ったらあ、巻き込んじゃうかもしれないじゃないですかあ」

「巻き込んじゃうって…あ、御堂を、か」

「そうですう。それにい、戦闘で飛び散った血とか肉とかがある場所でえ、生活したいなんて思いますう?」

「…あー…なるほど。そういうのは47階ですませて、48階は御堂とゆったり過ごす専用の階にしてる……と」

「なのでえ、阿久津さんにはそろそろ元気出してもらわないと困るんですう」

「……そうか…」

正文は立ち止まり、顔の向きを甲03から前方へと変える。
そこには47階への非常階段がある。

(ここを上れば、下野と戦うことになる…そういうことなんだな)

彼にとって、『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での戦いは非常に長いものだった。
その終わりがいよいよ近づいている。

(俺は今まで、誰も助けられなかった)

正文は右手を握りしめる。

(川で殺された女の人も、梨名も…それだけじゃない、あの魔法を使うリアライザだってそうだ。俺がもっと強ければ、他のリアライザみたいに気絶させるだけですんだはずだ)

重く濁るばかりだった気持ちに、自ら熱を入れる。

(下野を倒せば御堂を守れる)

その思いが、まるで心臓のように脈を打った。

(α7の話じゃ、御堂はここに来る前にいろいろあったみたいだけど、そんなことは関係ない。下野を倒せば御堂を守れる。俺にとって重要なのは、それだけなんだ)

左手も握りしめ、両拳で左右の太ももを叩いた。
それから手を開き、顔の位置まで上げる。

(勝つぞ)

正文は、両手で自らの頬を張った。
わずかに痛みを伴う刺激が、気持ちの切り替えを助ける。

彼は甲03に顔を向けると、はっきりした口調でこう言った。

「もう大丈夫だ。俺はちゃんと戦える」

「そうこなくちゃあ! では行きましょう」

こうしてふたりは47階への非常階段を上り始める。
『グランタワー・ウーノ・ペンディオ』での最終決戦が、秒読み段階に入った。


→ring.64へ続く

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