「昭和100年」の今年も7月7日がやってきた。昭和の徒花といっていい、CG以前のミニチュア特撮の先駆者・円谷英二氏の誕生日だ。それにしても「ウルトラ」を通して宇宙に夢を紡いだ氏の生誕日が、夜空(宇宙)に橋を架ける「七夕」とは……今更ながら何とも夢のある話だ。前述のように今年は「昭和100年」なんで、氏が関わった「昭和」特撮に思いを馳せたいところである。丁度先月より「増補新版東宝特撮映画DVDコレクション」が創刊されたことだし……
私が初めて劇場で観賞したゴジラ映画は『ゴジラの息子』。これは『じゃりン子チエ』のチエと実は同じ体験なのである(彼女が母親といった最初の劇場観賞映画も『ゴジラの息子』って設定)。
もっとも、その初観賞で唯一覚えていたのが、クライマックスでゾンテ実験が成功し、ゾルケル島が雪に包まれ(おそらく)変温動物のゴジラと息子のミニラが抱き合いながら冬眠に入るシーンのみである。
それはそうと、円谷英二氏が“特撮の神様”になるためには、氏が若かりし頃、たまたま花見の場で喧嘩の仲裁に入った、その相手が映画会社の関係者で、そこで見込まれて映画業界に足を踏み入れる、という”偶然(奇跡)”があった、という事実には驚愕せざるを得ない。その時その花見の場で喧嘩が起こらなければ「ゴジラ」は誕生しなかったのである。もっと言えば、飛行機乗りを目指した氏が入学した日本飛行学校が、教官の死や自前の飛行機の全損失によって活動停止に陥らなければ、おそらく氏はパイロットとしてもっと違った人生を歩んでいただろう。もうこうなってくると「禍福は糾える縄の如し」「塞翁が馬」を飛び越して「バタフライ効果」を引き合いに出さなければならない。こんなことを書いたら誠に申し訳ないが、もし教官の機が墜落しなければ、唯一残った学校の飛行機が高潮で流出しなければ、そして花見の席で喧嘩が起こらなければ、「ゴジラ」も「ウルトラ」もこの世に生を受けることはなかったのだ。
私も個人的には、今の職業に奉職した最初のきっかけも、人生のライフワークとなった「映画を撮る」ようになったきっかけも、全て自分にとっては不可抗力な進路に他ならない。もしあの時、(高校入試でも大学入試でも)自分の志望校に合格していたならば、絶対今の人生はなかっただろう。勿論それをバネに反骨心で臨んだことが功を奏したこともあったけど、殆どはその“選択肢亡き選択”が結果的に自分を救ってくれた。最高学府である東京大学に合格しても決してそれが後の人生を“確実に”薔薇色にするかどうかわからないことを考えると、何とも“コストパフォーマンスのいい人生”を歩んできたことか。もちろんそれで馬鹿にされたこともいっぱいあったが、今思えば有難いことばかりだ。本当に感謝している。
おっと、手前味噌なことばかり書いてしまったヾ(- -;) ただ、何が功を奏すかわからないという点において、故円谷英二氏のそれは十分な教訓になるんじゃないだろうか。少なくとも喧嘩の仲裁を買って出るのは、誰でもできることではない、立派な行為だと思う。
その花火の場で喧嘩を始めてくれた人にも、私を志望校入試で落としてくれたどこかの先生も、今となっては感謝感謝だ。
いま一番叶えたいことは?
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