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役の「分析」
演技を深めるためにも、必要な作業ですね。
 
 
そんな作業をされている俳優さん、声優さんを見ていて、よく気がかりになることがあります。
それは、役の分析が、客観的で抽象的な「論理解釈」に終始してしまっていること……。
 
 
具体的なケースをあげてみます。
 
 
 
たとえば、
 
 
「この役は、自己肯定感をひどく失っている役なんだと思う!」
 
「愛に飢えてるんだね! きっと、親からの愛情が足りなかったんだな〜」
 
「ずっと人に裏切られ続けた人生を送ってきたのかも」
 
 
そんな、抽象的で論理的な「役のまとめ」「役の解釈」をすることで納得して。
そこで作業(役の準備)を終えてしまっているケースです。
 
 
 
でも。
こうした「論理的に解釈する」ことと、役の人生を「具体的に体験すること」は、大きく違います。
 
 
そして、俳優に必要なのは、後者の「具体的な体験」なのです。
 
 
「論理的な解釈」って、家で一人で考えたり、仲間内で語ってる限りでは、とっても "キモチのいいこと" だったりします。
 
でもこれって、役に対してすっごく客観的な状態。
つまり、「他人ごと」
 
 
俳優は、それを、どうやって自分ごととして捉えるかが重要です!!
だって、自分の身体と精神を使って、その役を実際に演じるわけですから。
 
 
▲演技は「体験」です。机上での議論にキモチ良くならないようにしましょう。
 

 

 

 

 俳優になるか、評論家になるか

 
「論理的な解釈」で終始しているケース。
それって、ちっとも「自分ごと」として役の世界を想像できていないのに、論理解釈だけで「できてる気」になっている状態なんですよね。
 
いわゆる「アタマでっかち」状態。
こういう思考回路って、早く治さないとクセになってしまうんですよね……。
 
 
結局は、客観的な他人事。
まるで、悩んでいる友達の相談に乗って、心理カウンセラーかセラピストの真似事をしているような人と同じです。
 
友達が抱えている問題を「自分ごと」として捉えているわけでもなく、本当に共感しているわけでもなく。
話を聞いて、ただ客観的に「それってさぁ、結局〇〇ってことなんじゃないの〜?」って評論・分析しているだけ……。
 
 
▲役を客観的に "評論" してるだけ……??
 
 
さて、ここで。
自分が「アタマでっかちな評論家」になっていないかを判断するために、ひとつ質問をしてみましょう。
 
 
たとえば。
 
「この役は、母親から愛情をもらえなかった人なんだね。
だから、誰にも心を開けないんだ。」
 
と、ある俳優が役について分析していたとします。
 
 
そんな時。
 
「じゃ、役は、どんな時に『母親からの愛情をもらっていない』と感じたんだろう?」
 
と、具体的な体験について質問してみるんです。
 
 
 
すると。
実際、多くの俳優・声優たちから、そうした役の具体的な体験について「考えてなかった」「分からない」という答えが返ってきます。
 
もうすでに、アタマでっかちな状態になっちゃってます。
 
 
論理解釈は、アタマが作り出します。
 
一方で、役の人生を「自分ごと」にするためには。
役が体験したことを具体的に想像し、その感覚をアタマではなく五感でキャッチすることが重要なんですね。
 
 
たとえば。
「母親から愛情をもらえなかった」というキャラクターなら。
その人物の心には、母親に引っ叩かれた記憶や、一人ぼっちで家に残されて泣いていた思い出など、きっと「愛情をもらえなかったという、具体的な体験」がこびりつき、何かにつけてその記憶が脳裏をよぎっているはずです。
 
 
そうした「具体的な体験」の「具体的な瞬間」を思い出すことで、人は、そこから五感で感覚をキャッチする。
その時の感触や感覚、光景が、フラッシュバックのように頭に浮かび。
その結果、まるで「今そこにいる」ような感覚が押し寄せる……。
 
 
それが「自分ごと」として捉えるという意味であり。
その時、そうした具体的な感覚を手にすることで、心の中に感情がワッと湧き上がってくるのです。
 
 
役を、いくら論理的に分析や解釈ができたって、具体的な体験を想像できないのなら、意味がありません。
演技者として、それ以上役に近づくことはできませんよね……。
 
 
論理的な分析や解釈そのものが悪いと言っているのではありません。
大切なのは、そこから「自分ごととして、具体的な体験を想像できるかどうか」です。
 
これができるかどうかで、役を演じる俳優になれるか、それとも役に対する評論家で終わってしまうかが決まってきます。
 
 
▲俳優は、想像によって「体験」をするのです。
 
 

 映画や舞台では、具体的な体験が描写されている

 
「アタマではなく、『自分ごと』として、役の体験を具体的に想像して」
 
そうは言っても、最初は、どうすれば良いのか迷ってしまうかもしれませんね。
 
 
最初は、すっごく難しく感じるかもしれません。
実際、多くの俳優たち、声優たちが、最初は役の論理解釈こそすれ、具体的な体験を想像・創造することが苦手なようです。
 
 
でも。
映画や舞台が、まさにそうした想像の描写の連続。
実は意外にも、いつも身近に触れていることなんです。
 
 
よくあるのが、主人公の隠された過去が明らかになる「フラッシュバック」の描写。
こうした描写では、必ず、なんらか特徴的な、感情に訴える「具体的な描写」が描かれているはずです。
 
あるいは、ほんの小さなことであっても、映画や舞台では「論理」ではなく「具体的な描写」として描き出されます。
 
 
たとえば。
「パートナーを失って寂しい主人公」であれば、前半では「洗面台のコップに刺さった "2本" の歯ブラシ」を、後半では「それが "1本" になっている」様子をスクリーンに映し出せば良い。
「1本になった歯ブラシ」という具体的な描写を見て、観客は「寂しい」と理解するのです。
 
 
俳優は、「1本の歯ブラシ」という具体的な描写を大切にすべきです。
それを五感で感じ取り、その結果、心の中に「寂しい」という感情が湧く……。
 
アタマで「主人公は寂しいんだ」と理解するだけでは、役を生きられません。
 
 
▲「この役は寂しいんだ」と、アタマで論理的に考えるのではなく……
 
 
▲こうした具体的なことが想像できるかどうかが重要です。
それには実人生を観察したり、たくさんの映画や演劇を見ることも大切になるでしょう。
 
 

 戦争の悲劇は、具体的な体験として語られる

 
さて、ここでひとつ。
井上ひさしさんの戯曲『父と暮せば』を例に、役の「具体的な体験」についてもう少し詳しくお話ししましょう。
 
 
この作品は、原爆投下後の広島を舞台にした二人芝居です。
 
 
一人で暮らす主人公・美津江の前に、ある日、原爆で亡くなったはずの父・竹造が、幻の姿で現れます。
当初、なぜ父が再び現れたのか、その理由も互いによく分からないまま、二人の会話は楽しく進んでいきます。
 
しかし、物語が進むにつれ、その理由が明らかになってきます。
 
美津江は、勤め先の図書館で、原爆の資料を集める木下という青年と出会っており、彼から好意を寄せられているのです。
しかし、原爆で父も、友達もみんな亡くし、「自分だけが生き残ってしまった」という負い目から、「私は幸せになってはいけないんだ」と、木下への恋心を自分で頑なに禁じていて。
竹造は、そんな美津江を見守り、「お前は幸せになってもいいんだ。わしの分まで生きて、幸せになれ」と伝えるために、美津江の前に姿を現していたのです。
 
 
……たとえば、この話を通じて、「戦争はいけない」「原爆はいけない」なんてことは、いくらでも言えるでしょう。
 
でもそんなのは、アタマが作り出した「机上の空論」です。
「戦争はいけない」という言葉自体には、具体的な実感も、感情も、伴っていません。
 
その言葉をいくら唱えたところで、俳優の心を美津江に近づけ、「自分ごと」として彼女の人生を追体験することは困難です。
 
 
実は。
劇中では、彼女が「自分だけ助かった」ことに罪悪感を抱くに余りある、とても具体的で個人的なエピソードが描かれています。
 
 
たとえば、美津江が、亡くなった友達たちについて話す場面には、こう書かれています。
 
 
「昭子さんをおかあさんが探し当てたのが丸一日あとでした。
けんど、そのときにはもう赤十字社の裏玄関の土間に並べられとった……(中略)……モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ、お尻が丸う現れとったそうじゃ、少しの便が干からびてついとったそうじゃ……。
 
(中略)
 
うちの友だちはあらかたおらんようになってしもうたんです。
防火用水槽に直立したまま亡うなった野口さん。
くちべろが真っ黒にふくれ出てちょうど茄子(なすび)でもくわえているような格好で歩いとられたいう山本さん。
卒業してじきに結婚した加藤さんはねんねん(赤ちゃん)にお乳を含ませたまま息絶えた。
加藤さんの乳房に顔を押しつけて泣いとったねんねんも、そのうちにこの世のことは何も知らずあの世へ去(い)ってもうた。
中央電話局に入った乙羽さんは、ピカ(原爆)に打たれて動けんようになってもうた後輩二人を両腕に抱いて、『私らはここを離れまいね』いうて励ましながら亡うなったそうです。」
 
 
……いくら「戦争は残酷だ!」と叫んでも。
その思いは、この具体的な描写を読んだ時の胸の苦しさには到底及びません。
 
台本を手にした俳優たちが、役の論理解釈だけを深め、結果的にアタマでっかちになっているケースでは、こうした想像が働いていないのです。
 
 
「戦争はいけないことだ」とか、「この役は自分だけ生き残ったことを悔やんでいる」なんて、いくらアタマの中で理解したって、役の人生に触れることはできないのです。
 
 
もちろん、俳優は作家ではありませんから、セリフを書ける必要はありません。
物語を上手に構築する必要もありません。
 
でも。
役の体験を、「我がこと」のように具体的に想像するのは、とても重要なのです。
 
 
 
 

 剥き出しの「白い歯」

 
もう一つ、「具体的な体験」の例を上げておきます。
 
 
……アメリカでの、ある出来事。
 
ベトナム戦争の退役軍人が、戦争の英雄として小学校に呼ばれて、子供たちの前で講演をしていたそうです。
後半は、その軍人さんに、子供たちからの質疑応答。
 
「ヘリコプターって乗ったことありますか?」
「兵隊さんのお友達はいますか?」
「ライフルは重たいですか?」
 
教室の中は、好奇心に溢れた子供たちの声に、和気あいあいとした雰囲気だったそうです。
 
そして。
先生が「そろそろ時間なので、最後の質問ね」と、生徒たちに伝えました。
 
すると、ある男の子から手が挙がりました。
その生徒は、こう質問しました。
 
「人を殺したことはありますか?」
 
すると。
それまで、子供たちと笑顔で話をしていた退役軍人は、突然黙り込み。
そこからしばらく、絶句してしまったそうです。
 
 
あとで、その時の彼に何が起こったのかを聞いてみると。
彼は、こんなことを言ったそうです。
 
「最後の質問をされた時、私の頭の中に、初めて殺したベトナム兵が蘇ってきた。
生死を確認するために近づくと、その男は口を開けて死んでいた。
その口から剥き出しになっていた "白い歯" が、今も忘れられない」
 
 
彼にとって、ベトナム戦争の悲劇とは、「剥き出しの白い歯」なのです。
 
彼を絶句させたのは、「戦争は残酷なものだ」という、アタマで考えた論理や解釈などではありません。
具体的な体験が、彼の心に焼きついて離れないのです。
 
 
 
 

 まとめ

 
……いかがでしたでしょうか?
 
役をアタマで解釈すると、すごく「やった気」になるものかもしれません。
でも、この罠には本当に気をつけてください。
 
 
俳優は、役について評論する仕事ではありません。
「役を生きる」仕事なのです。
 
 
そして演技とは、体験の芸術です。
 
 
今回は、胸が締め付けられるエピソードをご紹介したので、少し気持ちが重苦しくなってしまった方もいらっしゃるかもしれません。
 
でも、あらためて。
僕らはそうした役の体験を具体的に想像し、感情を手に入れることが重要なんです。
 
アタマだけで「やった気」「わかった気」にならないよう、くれぐれも注意してくださいね。
 
 
▲アタマで考えるのではなく、役の人生を心で感じ、体験するのです。
そのためにも、具体的な想像をトレーニングしましょう。
 
 

 

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