東京都大田区にある鈴ヶ森刑場跡に立ち寄った。
日蓮宗・大経寺さまの境内にある。
当時のハリツケ台や火あぶり台などがのこされている。
慶安4年(1651年)に設置され、明治4年(1871)に閉じたそうだ。
刑場跡には「お題目」の記された供養塔が設えられていた。
「受刑者之墓」もあった。
しばらく見学をした後、塔と墓の前で手を合わせる。
勤めさきの寺に戻ってから、さらに鈴ヶ森を調べてみた。
(その時代の様子は……)
大正元年出版の「通俗荏原風土記稿」には回想が記されていた。
東京湾の波は近くまでせまっていた。
うしろは、荒涼たる野や原や丘が連なっている。
うっそうとした森林はむごたらしい気配を帯びている。
夜更けに罪人の首が横たわっている様子などをみれば、誠に悲しく心をいためてしまう。
なるほど、ただならぬ雰囲気であったようだ。
現在、刑場跡の前は第一京浜となっている。
近くには品川水族館もある。
京浜急行線と首都高速が脇を走っている。
昔とはことなり、とてもにぎやかだ。
大正15年出版の「大井町名鑑」には刑を受けた人の記載があった。
「鼠小僧」、「八百屋お七」は私でも知っている。
鼠小僧は、金持ちから金品を盗み、それを貧民に分け与えたとされる。
弱きを助けた盗人となるであろうか。
お七は17才だった。
江戸で大火事が起きた際、お七の家も焼けた。
そこで、少し離れたお寺へ避難する。
すると、そのお寺で男の子と出会う。
やがて恋仲となる。
だが、家が再建されると二人は離れ離れとなってしまった。
「もう一度火事になれば会える」
お七はそう考えて家に火を付けてしまった。
2人が刑に処せられたことは、今でも人々の心に響くものがあろう。
二人の魂を御供養する気持ちもうなずける。
一方で、極悪非道の罪人もいたにちがいない。
現世においては極刑に処せられても同情の余地がないようなこともあろうか。
さて、ではそのような非道人の魂は来世ではどうなるか。
念仏や御供養により地獄行きを回避するのだろうか。
もし回避されるとしたら、被害者の気持ちはいかがなものであろうか。
この問は、私にとってとても難しい。
今後も、無い頭を捻りながら考えなければならない課題である。
法然上人がお詠みになられた和歌です。
『往生は 世に易けれど 皆人の 誠の心 なくてこそせね』
〈極楽に往生することは、実にたやすいことであるけれども、往生しえないすべての人は、まことの心を持って念仏しないからである〉
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編P339】
ありがとうございました。