川越のお寺さんへお手伝いに行った。
儀式が終わり休憩室で雑談をする。
「新座にあるよ」
お墓の話になった際、御住職が教えてくれた。
帰り道は川越街道を上る。
新座は通り道である。
(よし!)
お得意の寄り道だ。
JR武蔵野線と川越街道が交差する場所が近づいてきた。
車をより慎重に運転する。
交差する手前を左に曲がる。
細い道を進む。
(このあたりのはずなのだが……)
車道からは目視できない。
車を停めてグーグル地図を確認してみた。
(だめだ、歩こう)
近くまで来ているが、車では入れないようだ。
駐車可能な場所みつけ徒歩で探す。
緩やかな坂を登る。
住宅の間の道を進む。
(あっ!)
お墓がみえた瞬間、神妙な気持ちになった。
墓地にはお地蔵さま、観音さまが祀られていた。
ツゲの木だろうか。
各墓所には丸く綺麗に剪定された低木が植えられていた。
その前には花受けが設えてある。
後ろには卒塔婆が建てられている。
ただし、墓石はほとんど建てられていない。
全体の広さは120坪くらいだと思われる。
現代ではたへんに貴重な墓地である。
私は20年近く坊さんをしている。
文献で学んだことはある。
しかし、初めて実際の墓地を拝見した。
地方にはあることは知っていた。
だが、まさか東京近郊にあることは知らなかった。
今回見学した、墓石のない墓地を通常「埋め墓」と呼んでいる。
ご遺体を埋めるところなので「埋め墓」である。
そして、「埋め墓」にはほとんどお詣りに来ない。
お詣りは「詣り墓」へ行く。
だから、墓石も「詣り墓」に建てる。
多くの場合、「詣り墓」はお寺や人里の共同管理地にある。
このように埋葬地と参詣地をわける形態を「両墓制」と呼んでいる。
現代では、火葬にした御遺骨を墓石の下に埋葬するのが一般的である。
単墓制だ。
(どうして分けるのだろうか)
だから、両墓制を学んだとき、単墓制になれている私は不思議な感覚になった。
理由はいくつか記されていた。
昔は土葬も珍しくはなかった。
すると、土葬地の上に重たい石を設えたなら墓石が傾いてしまう。
あるいは、「穢れ」をさけるため、人里から離れた場所を埋葬地とする。
魂を御供養するための墓石は、人里のお寺などに建てる。
いずれも理解はできる。
ただ、腑に落ちる感じではなかった。
この度拝見した「埋め墓」は緩やかな傾斜地の中頃にあった。
周りは住宅地となっていたが、墓地の南東側は林となっていた。
ここからは、私の勝手な想像である。
もしかすると昔の「埋め墓」は、樹木が生い茂る森の中だったのかもしれない。
つまり自然である。
ご遺体を自然の中へ帰すのだ。
一方、魂は身近に居ていただきたい。
そこで、依代として人里にお墓を建ててお詣りする。
実際に「埋め墓」を拝見してみて、私はそのように考えてみた。
こちらのお墓の「詣り墓」は新座市の普光明寺(ふこうみょうじ)さまに建てられている。
普光明寺さまの両墓制は江戸時代初期からあったそうだ。
「詣り墓」を見学の後、普光明寺さまをお参りした。
そして、御本尊に手を合わせてから、ゆっくりと帰路についた。
法然上人のお言葉です。
『朝に開いて咲きほこった花も、夕べの風に散りやすく、夕べに結んだ露も、朝の日に消えやすい。このことを知らないから、常に栄えていようと思い、このことを理解しないから、生き続けようと思う。そうしている間に、無常の心理が風のようにひとたび吹いて、肉身が露のように消えてしまえば、亡がらは広野に捨て、または遠い山に葬る。屍はとうとう苔の下にうずもれ、魂はひとり虚空にさまよう。妻子や一族の者は、家にいるが連れ立っていくことも出来ず、七種の宝玉や数々の財宝が蔵に満ちていても、何の足しにもならない。ただ身につき従うものは後悔の涙だけである。云々。すみやかに迷いを離る大事な道を求めて、むなしく迷いの世界に帰ってはならない』
【現代誤訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳P353】
ありがとうございました。