貴重なお墓 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

川越のお寺さんへお手伝いに行った。

 

儀式が終わり休憩室で雑談をする。

 

「新座にあるよ」

 

お墓の話になった際、御住職が教えてくれた。

 

帰り道は川越街道を上る。

 

新座は通り道である。

 

(よし!)

 

お得意の寄り道だ。

 

JR武蔵野線と川越街道が交差する場所が近づいてきた。

 

車をより慎重に運転する。

 

交差する手前を左に曲がる。

 

細い道を進む。

 

(このあたりのはずなのだが……)

 

車道からは目視できない。

 

車を停めてグーグル地図を確認してみた。

 

(だめだ、歩こう)

 

近くまで来ているが、車では入れないようだ。

 

駐車可能な場所みつけ徒歩で探す。

 

緩やかな坂を登る。

 

住宅の間の道を進む。

 

(あっ!)

 

お墓がみえた瞬間、神妙な気持ちになった。

 

墓地にはお地蔵さま、観音さまが祀られていた。

 

ツゲの木だろうか。

 

各墓所には丸く綺麗に剪定された低木が植えられていた。

 

その前には花受けが設えてある。

 

後ろには卒塔婆が建てられている。

 

ただし、墓石はほとんど建てられていない。

 

全体の広さは120坪くらいだと思われる。

 

現代ではたへんに貴重な墓地である。

 

私は20年近く坊さんをしている。

 

文献で学んだことはある。

 

しかし、初めて実際の墓地を拝見した。

 

地方にはあることは知っていた。

 

だが、まさか東京近郊にあることは知らなかった。

 

今回見学した、墓石のない墓地を通常「埋め墓」と呼んでいる。

 

ご遺体を埋めるところなので「埋め墓」である。

 

そして、「埋め墓」にはほとんどお詣りに来ない。

 

お詣りは「詣り墓」へ行く。

 

だから、墓石も「詣り墓」に建てる。

 

多くの場合、「詣り墓」はお寺や人里の共同管理地にある。

 

このように埋葬地と参詣地をわける形態を「両墓制」と呼んでいる。

 

現代では、火葬にした御遺骨を墓石の下に埋葬するのが一般的である。

 

単墓制だ。

 

(どうして分けるのだろうか)

 

だから、両墓制を学んだとき、単墓制になれている私は不思議な感覚になった。

 

理由はいくつか記されていた。

 

昔は土葬も珍しくはなかった。

 

すると、土葬地の上に重たい石を設えたなら墓石が傾いてしまう。

 

あるいは、「穢れ」をさけるため、人里から離れた場所を埋葬地とする。

 

魂を御供養するための墓石は、人里のお寺などに建てる。

 

いずれも理解はできる。

 

ただ、腑に落ちる感じではなかった。

 

この度拝見した「埋め墓」は緩やかな傾斜地の中頃にあった。

 

周りは住宅地となっていたが、墓地の南東側は林となっていた。

 

ここからは、私の勝手な想像である。

 

もしかすると昔の「埋め墓」は、樹木が生い茂る森の中だったのかもしれない。

 

つまり自然である。

 

ご遺体を自然の中へ帰すのだ。

 

一方、魂は身近に居ていただきたい。

 

そこで、依代として人里にお墓を建ててお詣りする。

 

実際に「埋め墓」を拝見してみて、私はそのように考えてみた。

 

こちらのお墓の「詣り墓」は新座市の普光明寺(ふこうみょうじ)さまに建てられている。

 

普光明寺さまの両墓制は江戸時代初期からあったそうだ。

 

「詣り墓」を見学の後、普光明寺さまをお参りした。

 

そして、御本尊に手を合わせてから、ゆっくりと帰路についた。

 

 

法然上人のお言葉です。

 

『朝に開いて咲きほこった花も、夕べの風に散りやすく、夕べに結んだ露も、朝の日に消えやすい。このことを知らないから、常に栄えていようと思い、このことを理解しないから、生き続けようと思う。そうしている間に、無常の心理が風のようにひとたび吹いて、肉身が露のように消えてしまえば、亡がらは広野に捨て、または遠い山に葬る。屍はとうとう苔の下にうずもれ、魂はひとり虚空にさまよう。妻子や一族の者は、家にいるが連れ立っていくことも出来ず、七種の宝玉や数々の財宝が蔵に満ちていても、何の足しにもならない。ただ身につき従うものは後悔の涙だけである。云々。すみやかに迷いを離る大事な道を求めて、むなしく迷いの世界に帰ってはならない』

 

【現代誤訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳P353】

 

ありがとうございました。