ゆるゆる。

ゆるゆる。

自作の陶芸薪窯《風神窯》で独学の塩釉焼食器をつくる陶芸家。
今日もしあわせを見つめて。

漸く諸々落ち着いて参りましたので、ご連絡頂いておりました皆さまにはメールをお送りしております。

メールが届いていない方がいらっしゃいましたら、ご迷惑をおかけいたしますが、以下の内容をご確認いただけましたら幸いです。


——様

こんばんは、お久しぶりです。先日、冬の出稼ぎ期間を終え、長野に戻ってきました。

通販サイトも再開できましたので、ご連絡差し上げます。

https://raise178.theshop.jp/

冬至から宮良太陽と名乗り始めた関係で、器の裏側に刻んでいた旧雅号の雷青印(ひらがなで“らい”の繋げ字)は在庫限りとなります。

現物の色合いや歪みなどの説明がしにくく、通販サイトの方に載せていない作品も沢山あるので、もしご要望がありましたらメールでご相談いただけましたら幸いです。作品の写真をお送りいたします。

宮良太陽 : jinenjo.fujinkiln@gmail.com

ちなみにこれからは、人生も陶芸も楽しくしていくことを第一にしたいと思っているので、今年の窯焚きは一回か二回のみになりそうです。オーダーメイドのご希望がございましたら、お早めにご連絡いただければ幸いです。

——さんの人生も、もっと楽しくなりますように!

 

そう。

メールにも書いておりますが、今年から僕は人生を楽しむと決めたのです。

内側で抑圧されていた(自ら抑えつけていた)希望を認めて実現させる時が来たのだ。

そんな自分の願いを自覚するきっかけとなった12/12の伊勢神宮弾丸旅行を思い出し、夏至の頃にまた伊勢へ行きたいと考えていたら、偶然ある企画を見つけました。

実は、人生を楽しむと決めたことで訪れた変化があります。

“積極的に人と関わって、人生を楽しむ友と沢山出会っていこう”という想いが生まれたこと。

工房に引きこもっていたこれまでの僕には、願いのままに世界に飛び出していくだなんて想像すらしなかった。

心を弾ませながら決めた、最初のひとつ。

SKPの伊勢神宮お礼参り : https://skp358.com/

俺、小林正観さんが大好きなんだよね。

 

器の裏に刻む新しい雅号印も何になるかな。

わくわくしながら決めて行こう。


宮良太陽





今日のおすすめ
↓本当はもう幸せなんだと気付かせてくれるお話です。

魂の構造~小林正観さん3時間講座 構造シリーズ2

 



僕はこれまであらゆることに抵抗しながら生きてきた。

それは決して楽しいことではない。

抵抗というのは、ベクトルが正であれ負であれ、エネルギーとエネルギーを喧嘩させること。

そんなことを続けていると、本当に多くのモノを消耗する。

この冬、僕はいままで続けてきた健康のための多くの習慣を辞めた。

それだけでなく、不健康だと遠ざけてきた多くのことにNOと言わなくなった。

それからしばらく経って、最近気が付いたこと。

健康を意識していた頃、ふとした時に痛んでいた様々な傷が、殆ど痛まなくなっているということ。

信仰のように強く信じ続けてきた価値観が変わり始めている。

自分の内側にあった“〇〇は嫌だ”という沢山の否定的な想いが消えていくと共に、僕の心身が元気になっているのだ。

健康になった訳ではないだろう。

でも痛みは無くなり、元気になって活力が出てきた。

そしていま、僕は、自分を生かしている力に対してさえ喧嘩を仕掛け続けてきたのだということに漸く気が付き始めたんだ。

健康を求めるのは、病気や怪我による肉体的苦痛があるよりは、無い方が一般的に幸せだと考えるからだ。

でも、健康でも幸せを感じられない事だってあるし、不健康でも幸せに感謝できる事はある。

極論、目的が幸せなら、健康でなくとも良いのだ。

だけど、不健康さを受け入れた途端に、僕の身体から少しずつ痛みや不具合は去っていった。

失敗を恐れて挑戦のチャンスを捨てるかのように、負を否定したら正のエネルギーも同時に損なうのだ。

「健康のためにと食物を選ぶよりも、与えられた食物を身体の感覚に従って美味しい美味しいと言って喜べる方がよっぽど元気に生きられる」ということの意味を知ったこの頃です。

不健康なものを喜べという事ではなく、かと言って喜びのない健康を推進するでもない。

健康も不健康もなく、ただ目の前のことを有難がれれば、もっと元気で幸せな人生を過ごせると気付けたというだけの話なんだ。

 

いまこの瞬間に受け取っているものを喜ぶことこそが、最高の健康法だね。

 

桜も満開の四月上旬、これにて冬季休業中の出稼ぎ期間終了です!

長野に戻り次第、ご注文やご依頼、ご相談等を戴いている皆さまへメッセージをお送りして参りますので、よろしくお願いいたします。

引っ越しの計画も進めないとなぁ。

 

宮良太陽



今日のおすすめ

Watach over my dreams / Leo Rojas




色々なことに追い詰められて突然旅に出た12/12から冬至にかけて、初めて気が付いたこと。

自分と向き合って生きてきたつもりが、俺は全然自分の本音が見えていなかった。

小さな頃の自分が掲げた大きすぎる理想が、いつの間にか強迫観念のように凝り固まって、ずっと心を抑圧していたんだ。

それが自分の全てを縛り付け、攻撃しているとも気付かず。

生きていることに喜びを感じられていない日々に気付いて、本当はそこから解放されたいと願っていると知った。

理想を掲げても、「手の届く範囲は限られている」ということを今更理解したんだ。

その範囲内で如何に幸せを感じられるか、そしてその範囲をどうやって広げていくか。

本当はそれが大切だったんだ。

いずれにしても、まずは理想を大きく持つのではなく、小さな心の声に耳を傾けて自分の器を満たしていくことからだ。

“もっと自由に、もっと身軽に、もっとあたたかく”

自覚したその日から、多くのことが変わり始めた。

けれども、心の声はめちゃくちゃ小さい。

最初の内は、どうやってそれを聞き取れば良いのかすら分からない自分に悲しくもなった。

「俺はこんなにも自分の本音を無視して生きていたのか……」

だからまずは、好きなものを再認識する度に、それを手帳に記していった。

それだって、自分のことなのに、最初は好きなものがパッと思いつかないんだ。

ページが一枚埋まる頃、漸く自分の好きなモノを思い出し始めた。

音楽、場所、趣味、時間、色、香り、食べ物。

それらを片っ端から日常に取り戻していくとどんどん元気になって、ある時遂に生を実感して喜べるようになった。

それは「自分の内側に神さまを取り戻したような」感覚だった。

きっと俺は、エゴで作った理想に合致しない、あらゆるものに反抗して生きていたのだ。

それらを創造した神さまにさえも。

だけどこの世界には、気に入らないモノと同じくらい、好ましいモノも創造されているのだ。

 

神さまへの反抗期を卒業すれば、人生はずっと楽しくなる。

 

まずは手帳のページを好きなモノで埋めていこう。

それが幸せを実現する道しるべになるから。


宮良太陽




こっちは今日のオススメだぜ。

元気出して行こうよ。






 

「運って良い時と悪い時がある」

運と言うと抽象的過ぎるかな。

「調子って良い時と悪い時がある」と言えば、多分皆に通じる。

ところで、どうして好調だったり不調だったり、運や調子は一定しないのだろうか。

ということで、調子の良い時と悪い時で、自分にどんな違いがあるのか分析してみる。

行きついたのは、めちゃくちゃシンプルな答え。

“元気”

“明るい”

“楽しい”

現象に影響されて機嫌が変わるのって当然なんだね。

だから容易に不機嫌になりもする。

だけど、起こった現象に関係なく自分を上機嫌に保つことも、本当は出来る。

そして、現象に影響されて機嫌が変わるのなら、逆もそうなのだと漸く実感できたんだ。

現象も機嫌の影響を受ける。

くたびれていても「元気!」と言い、余裕がなくても「OK!」と言い、だるくても「絶好調!」と言う。

言ったら、その言葉通りの自分になるように、定着するくらい最高の自分を演じ続ける。

これが楽じゃない。

けれど、それで現実が変わっていくと理解したから、なるべくそうしていきたいね。

 

運が良い時の自分を再現することで、後から運がついてくる。

 

人間生きていれば、色々なことがある。

不機嫌になる時もある。

だけど不機嫌に留まり続けるのって、それこそエネルギーを消耗しちゃうし、良いことがない。

落ち込んでいる自分に気付いた瞬間から、積極的に自分を上機嫌にしていきたいね。

 

宮良太陽




伊豆、大瀬崎にて。


 

一人称で僕って言うじゃない。

「僕って何で“僕”の字なんだろうか」って結構長いこと不思議に思っていたんだよね。

先日“僕”の字を見つけた瞬間、突然その意味が分かった。

僕って「しもべ」とも読む。

問題は誰の僕なのかということ。

いま目の前にいる適当な「誰か」なのか。

場所が変われば目の前にいる人も変わるけど、その全ての僕なのか。

俺は誰の僕か。

——神さまの“僕”。

「俺」という存在は、人格性格や好き嫌いを持っている一個の命だから、そこには常に苦悩が付き纏う。

だけど、神さまが自分の僕に対して、不幸を望むだろうか。

最近、幸せでいるために絶対的に必要なものとして、“神の喜びを実現していく生き方”を信じるようになった。

で、その意味を考えながら過ごしていると、神が喜ぶことは人に喜ばれることと同じだなと気付く。

元気な声で挨拶するとか、場所や空間を綺麗に保つとか、人の頼み事を聞くとか。

ということで、最近意識し始めたことがある。

 

“ポジティブな感情や行動に集中して一日を過ごすこと”

 

ネガティブを消そうと思っても、意識がネガティブに注がれれば、却ってネガティブになる。

その状態は喜びからは程遠い。

まず自分を明るくして、ひとつひとつの状況に対して、言動で“これが私の最善だ”と答えを返していく。

簡単ではないけれど、新しい答えを返す度に、自分の殻が剝がれていくような気がして嬉しい。

蟹座の生まれだけに。

夏至が来て蟹座の季節が始まるまで、あと四か月。

それまで沢山脱皮できると良いな。

 

宮良太陽









 

「幸せになりたい!」と思っている自分に気付いたものの、「シアワセッテナニ?」という状態だった12月。

先日夜空を見上げた時に初めて分かったことがあるんだ。

何かに感動を覚えたり喜んだりする“余裕”こそが、幸せの正体。

心に余裕を作ることさえ出来れば、いつでも“喜びを感じられる自分”になれるんだ。

美味しい物を食べたり、美しい景色を見たり、やりたかったことをやったり、喜びの種類には限りないけど、喜びだけでは幸せでいられないのが実際のところ。

”その喜びを認識して浸れるだけの余裕”が、幸せには必要なんだね。

だから、実際には“幸せ”って、大きな喜びがあることじゃない。

小さな喜びでも、自分がそれを心から大切に楽しめたなら、その瞬間幸せになれる。

それが分かって数日後、買い物のためにひとりでドライブしている最中、桜並木の下を通った。

一月半ばだから当然桜は枯れています。

だけど、一瞬だけ視界を埋め尽くす満開の桜が見えた気がしたんです。

その光景もめちゃくちゃときめくものだったんだけど、それ以上にそこで気付いたことに感動した。

“想像できるって幸せなことだったんだ”

その時にはそこに無いはずの桜の花びら。

でも木はちゃんと生きていて、春には満開の花を咲かせるために、つぼみを膨らませている。

そこに無い物でさえ、僕らはそれを“想像”によって感じることが出来ちゃう。

とてつもない想像力を与えてくれた神様への感謝が溢れてきて、目頭が熱くなってきました。

もうすっかり自分の涙は枯れてしまったんだと思って、色々あっても泣けない自分に切なさを感じていた僕です。

泣けるという喜びが、また幸せを感じさせてくれた。

 

“幸せは、浸ってこそ幸せ”

 

今日も素晴らしい一日だったね。

ありがとう。

 

宮良太陽











 

“本当の自分”に返るって言うけど、どういう事かわからずにいたんだね。

そもそも本当の自分だとか、偽りの自分だとかに悩んでいる時って、本音と自分の生き方にズレを感じている時だと思うんだよ。

だから、ついつい自分の生き方を変えたいというところから入って、「自分には何が出来るのか」と考えてしまうんだ。

けど、それでは見えなかった物が初めて見えた時、僕は全く別のことを考えていた。

“俺が好きなこの風景を増やしていく上で、こんな事が出来たら面白いんじゃない?”

「自分にはこれが出来る」とか「自分はこれが得意だ」とか、そんな事には何の意味もなかった。

だけど、それ以上に大きな可能性のあるモノを、人は持っていたんだね。

“好き”という気持ちほどエネルギーに溢れたものはない。

春、粘土が凍らなくなったら、僕は創作を再開するけれど、その時はもう陶芸家とは名乗らない。

原点とも言える僕の“好き”を思い出したんだ。

僕はやっぱり神々や精靈が好きで、神話が好きで、だからこそ神宮お抱えの工房で、朝夕に神様に食事を捧げるための土器を調製するところからスタートした。陶芸はその延長に過ぎなかったんだね。

“自分が本当にやりたいことは何だろう?”

改めてそれを尋ねた時、心に浮かぶのは、“神様との繋がりを取り戻せる、一点物の神具を制作したい”という想い。

実は去年を振り返った時、一年で一番嬉しかったのは“自分の心の中に神様との繋がりを取り戻せたこと”だと気付いたんです。

神様と言った時、想像するものは皆違うだろうし、極論信じている必要もないと思う。

けれど、命の内側には、やっぱり“神様”としか表現できないものを祀る聖域があって、そこから沢山の叡智を得ていると確信するんだ。

それは見えないから簡単に失われてしまうし、実際僕らはそれを度々失ってきた。

だけど、この気持ちを思い出したからには、心の底から日々大切にして生きたい。

僕を応援してくれている人たちは、そんな想いを共有できる人たちだと思うんだ。

 

“自分を守り導いてくれている神々の存在を確信した時、人は突然自由になる”

 

井上雄彦さんが描くバガボンドから、めちゃくちゃ好きな一節を紹介したい。

“天とのつながり無しに生きるのは苦ばかりなり”

春から始まる僕の仕事の新しい形、今度また紹介するね。

 

宮良太陽 : https://aboutme.style/jinenjo









 

“幸せになりたければ、自分の閃きを信じてみなよ”

以前も話したかな、僕は直観に従うのがとても苦手なんだ。

「これは面白い!」と思うアイデアが生まれても、出来ない理由を探して諦めてしまう。

そんな癖が着いて長年、必要とされないと気付いてか、閃きは僕のところへ来なくなってしまった。

でもいまの僕はそれを凄く求めていて、大切にしたいと思い始めているんだ。

本音と閃きは同じところから生まれると思うから。

それどころか本音の中でも、よりピュアで希望に繋がるものだけが“閃き”となる氣がするんだ。

自分の本音に意識を向けて、自分が本当はこんな願いを持っているんだと自覚し、更にはその願いを実現したいと思うこの頃の僕にとって、“閃き”は本当の僕に返るための道しるべだと気付いたんだね。

“ピンと来たらすぐ旅に出ろ。取り敢えず裸一貫で旅に出て、やばいと思ったら尻尾巻いて逃げ帰ってきたら良い”

これは友人の言葉だけど、確かに閃きというよりは“ピンと来る”と言った方がわかりやすい。

いま僕は、極寒の長野から逃れて暖かいところに来ている。

落ち付いたらまた話すけど、春まで本業の陶芸とは別の仕事を住み込みでやっているんだ。

そんな日々の中で、閃きに敏感になろうとアンテナの感度を上げている。

いつもと違う環境だからこそ、心の動きはわかりやすい。

日々のなかで嬉しいことがあれば、どうして喜びを感じたのか自分に尋ねてみたり。

海鮮丼を食べたいと港町へ出かけたならば、立ち並ぶお店の中から「ココが良い!」と感じるところを、ちゃんと自分の心で選んでみたり。

車を止めるのが面倒くさくても、通り過ぎたところに気になるお店があったら、引き返して入ってみたり。

神社で目に留まるお守りがあれば、ただの商品などとは思わず、宝物を見つけたつもりで買ってみたり。

素敵なブレスレットと出会ったら、決してお得感で求めず、本当に自分が氣に入った石だけを求めてみたり。

 

——閃きと“ときめき”は、めっちゃ似ている。

 

ときめきに従ってみよう。

欲求を適当に満たす時とは全く違う“わくわくした自分”を思い出し始めているんだ。

さあ、今日はどんな事したい?

 

宮良太陽 : https://aboutme.style/jinenjo




 

「あれ? 俺、本当は何がしたいんだったっけ……?」

本音がわからなくなった時、人はもう元気を失っているのかも知れない。

というか、そんな状態で元気な訳ないですね!泣

そんな自分に気付いて、昨年12月上旬から始めた自己流レッスン

“自分の本音に意識を向けながら日々を過ごす”

例えばふとした時に浮かんだ風景。

例えば何かを食べた時の感動。

例えば思わず身体が揺れ出した音楽の雰囲気。

そこには“好き”という神聖な感覚がある。

本音本音と言うけれど、本音とは「“好き”に根ざした欲求」なんだなと最近強く思うんだ。

だから約ひと月前に、もうすっかり分からなくなってしまった自分の“好き”を、日常の中で改めて見つける旅を始めた。

すると僕が「本音」と呼んでいるモノを、ある人は“祈り”と呼び、ある人は“夢”と呼ぶと知った。

もしかしたら皆それを求めて生きてきたのかも知れない。

本当は、明るい色をしたアンデス模様の服が大好きだ。

本当は、コロッケのモノマネが大好きだ。

本当は、マカロニサラダやお茶漬けが大好きだし、カロリーメイトなんかも大好物。

本当は、石が大好きで、新しく宝石や薬石を知るとついブレスレットを探したくなるくらい

本当は、神話が大好きで、神社や聖地へ行くとめっちゃときめく。

そんな自分を再発見して、驚きながらも納得する。

じゃあ、そうして見つけた“好き”に根ざす“本音”は、何と言っているんだろう……?

——自分を愛してほしい。

ちゃんと自分を好きになって、誰かに愛を注いでも枯渇しない自分になりたいと思っていたんだね

そう気付いて、ふたつのことを自分に約束した。

 

“決して自分を蔑ろにしないこと”

“自分の“好き”をちゃんと満たしてあげて、しっかり幸せを感じること”

 



本音は実はずっとそこにあって、アドバイスやSOSを送っていた。

それに耳を傾けず自分と喧嘩してばかりの自分は、もう止める時だね。

Don’t stop me now.

大好きな音楽を聴きながら。


雷青改め宮良太陽




とても素敵な動画を見つけたから、君にもシェアするよ。






大晦日から元旦へと切り替わる夜、晦日参りと初詣を一緒にすることを“二年参り”と言うそうですが、その帰り道でジーンと感じたことがあります。

日頃は随分寂しい神社でも、この日ばかりはおめかしして本殿で御神酒の振る舞いだってしちゃう。

単にめでたいからと言えばそれまでだけど、今年の僕はそこに結構感慨深く感じたんですよ。

中には真夜中でも太鼓を叩いたり、舞ったり、神楽を奉納したりするところもあるでしょうし、そんな風にして喜びを表現せずにはいられない“特別な日”。

でも多くの人が、普段は神社も神様も意識しないで過ごしている。

暦の中で伝えられる季節の行事だって知らない。

だからこそ、そこに改めて“めでたい”という意識を持てることが凄いなと感じた元旦。

日頃は神様なんて知らないよという風に生きていながら、心の中では実は当たり前の存在や概念として大切にしている日本人が、神社に列をなして夜中からご機嫌に笑い声を響かせている。

そんな様を見た時、僕の胸にはこんな想いが。

 

“どれだけ大変な出来事があっても、心に神様が宿る限り、日本が潰れることはないな”

 

小学生の時、元旦に新年の目標を書初めしたことを思い出します。

とは言え小学生の僕だから、そんなことはすぐ忘れたよね(笑)

今年は明確に目標にしたいことがある。

“今まで「自分にはこれが大切」と思い込んでいた物を全部捨てて、自分の心に宿る神様の声にちゃんと耳を傾けて、その声だけを実現すること”

「自分の本音を聞いて生きる」ってこれまで全然出来ていなかったなぁと気付いた昨年末、今年の目標が決まったんです。

というよりも、今後はこれこそを大切にするんだと決意することが。

そんな訳で、日々色々あるけれど、笑顔で言えていると良いな。

あけましておめでとう。

今年こそよろしく、自分。