WBC野球で世界が政治的無関心になった空白期間に行われたこと。
バブル景気の時、ディスコに常設されたお立ち台で踊っていた女性たち。そこに群がる男たち。経営者によって作られたステージ上、誰かが決めた同じ振り付けと派手衣装で踊らされる愚かさ。その同時期、すでにDSの持ち上げてから突き落とす、バブル景気戦略は進行中で、やがて作られた好景気が計画通りに終焉を迎えました。
中身のない架空の偶像風船は割れ、失われた30年が来たのです。
WBC野球で世界が政治的無関心になった空白期間に行われたこと。
アジアから習近平主席がプーチン大統領に急接近、
これに対抗してアジアから岸田首相がゼレンスキー大統領に急接近。
日ウと中ロの対比構図は、日本の世界への参戦アピールとなり、中国からロシアへの武器供与を牽制し、アメリカの目論み通り習近平主席の面子を潰す結果になったようです。
もし、日本がこのタイミングでウクライナに行かなかったら、習近平主席が世界の正義となって和平交渉のためにウクライナ入りして大活躍、全世界が認めるであろうその中国躍進の可能性を根本から潰したわけです。
武器商人は戦争が長引くほど儲かり、旧式の武器を大量に在庫処分できる機会は戦争しかなく、オーダーストップの和平は望みません。西側諸国の戦闘機、ミサイル、戦車のウクライナ提供は火に油を注ぎたいアメリカ軍産複合体の意向です。軍産複合体とは、軍事的組織と兵器産業が結合して生まれたDSの軍事体制です。
岸田首相の動きも自分の頭で考えてひらめいた自発的な国会主導ではなく、鳩山元首相の暴露通り日米合同委員会の決定に基づくものであり、命じられたことに聞く耳を持った従順な使い走り行動でしょう。国民の血税がまた大量追加でばら蒔かれました。岸田首相は、ウクライナに殺傷能力のない装備品を支援するため3000万ドルを拠出するほか、エネルギー分野で新たな無償支援として4億7000万ドルを供与する考えを伝えました。この一回の追加支援だけで5億ドル、653億9000万円!
これだけの大金を日本国民のために純粋に使ったらどれだけ多くの社会的弱者を救えますか?発展途上国で飢えている人々、洪水や災害で飢え苦しむ被災者たち、家屋を破壊された避難民たち!馬鹿な利権がらみの戦争のために血税が搾取されています!
だから、世論の非難をかわすために、この時期、野球興行に夢中になっている隙間にかいくぐって行なったのです。本来、日本とは無関係な他国間の代理戦争に無理やり協力させられています。日本の国家主権はどこにあるのでしょうか。岸田首相はアメリカの命令に聞く耳持つより、国民の声にこそ聞く耳持つべきではないでしょうか。
しかし、彼とて独立した先進国家の代表、腐っても鯛。日本の伝統とプライドある立ち位置を世界に表明する大切な機会到来です。首相の裁量に任された英断による勇敢な行為もアメリカのある一定の許容範囲で行なうことができます。そこで岸田首相の独断により自分の頭で考えてみんなと相談してピンとひらめいたのが、訪問先ウクライナのゼレンスキー大統領への贈呈品にふさわしい地元・広島県の宮島で作られた長さ約50センチの特注、必勝祈願しゃもじでした。
岸田首相は「ウクライナの方々は祖国や自由を守るために戦っている。この努力に敬意を表したい」と述べ、理解を求めます。これに対し、野党側は猛反発。
立憲民主党の泉健太代表は記者会見で「戦争中の緊迫した国家の元首に必勝しゃもじを贈るのは違和感がぬぐえない」と批判。蓮舫参院議員もツイッターで「選挙と戦争の区別がつかないとしか思えない」と批判。
しゃもじは「敵を召し(飯)取る」との意味で、験担ぎにも使われます。
日清・日露戦争では戦場に向かう兵士が多くのしゃもじを奉納しました。
しかし、野党陣営もアメリカによる決定事項には、流石に逆らって正面切って非難できないから、首相の訪ウや追加支援金ばら蒔きなど重大案件には一切触れずに棚上げ、部分的にここだけ大問題の争点にして与党を叩きます。与党もプライドと意地を張って反論します。もはや、与野党にとって大事な争点は国際的な外交問題ではなく、贈呈品にスポーツ観戦感覚の必勝しゃもじがふさわしいか、否かです。
幼稚園レベルまで民度の低い国会論争が展開され、NHKと民放各社が焚きつけ報道して、しゃもじが何だか知らない世界にまでリアルタイム配信されます。
こうして静観する世界が笑います。
問題はしゃもじではないです!血税バラマキとロシアに敵対!的が外れています!
本来のじゃもじとは、ご飯をすくったり混ぜたりするのに使用するしゃくしであり、大食いのゼレンスキー大統領が炊飯器・おひつなどから大きな食器に取り分けるために用いる長さ約50センチほどの道具です。
聖書の話し
憂うつ症からの解放
預言者エリヤは私たちと同じような人でした。ある時は天から火を下らせ、ある時は水を下らせ、多くの奇蹟によってイスラエルを御前に立ち返らせましたが、やはり私たちと同じような人ゆえ、ある時はブルーなひどい落ち込み体験もありました。
もし、その様を医者が診断するならば自殺願望レベルの重度のうつ病と燃え尽き症候群でしょう。エリヤの失敗体験を参考に、いかにして神様が御使いを送って彼を癒されたのか、その効果的な治療法を学びましょう。
まずは燃え尽き症候群の問題があります。
エリヤは確かに偉大な預言者としてたった一人で堕落したイスラエルのすべての民と450人のバアルの預言者たち、アシェラの預言者たち400人を相手に戦っていました。
その頃のエリヤには落ち込みは全くありませんでした。
真剣な戦いで緊張していたから、忙しかったから、使命感に燃えていたから等、理由があったでしょう。誰であれ熱心に一事に専念しているとき、落ち込みません。
没頭することをやめ、時間的空白が出来る時、油断する心こそ危険です。
暇な人に限っていろいろと余計なことまで考え始めて恐れたり、憂うつになったり、隣のうちの庭のことまで考えて変な隣人に変身するものです。
落ち込みたくなかったら、一生懸命祈って神様の仕事に積極参加することです。
多忙は必ずしも悪くありません。落ち込む暇がないほど忙しく燃え続けることが大切です。
「私は忙しくてゆっくり悩んでいる暇がない!」とかね。
忙しいエリヤが祈ると主の再建された祭壇に天から主の火が下り、イスラエルはこれを見て霊的破れ口となり、リバイバルが起きました。
偶像バアル宗教から全ての民が離れ、
「主こそ神です。主こそ神です。」
と告白して御前に立ち返る悔い改め運動が起きました。
そしてエリヤの命令に従ってバアルの祭司たちはすべて成敗されました。
このように神様との関係が修復される救霊のリバイバルが起きると、これに続いて、トランスフォーメーションが起き、その病める大地も癒されます。
悔い改めた彼らの上に3年半ぶりの大雨が降り注ぎ、万物が生き返り始めました。
それは、雲ひとつない干ばつの中、雨乞いして粘り強く祈ったエリヤへの神様からの応答でもありました。
まさに力と力の対決に勝利を得たエリヤでした。
やがて日本にもこのレベルの天から主の火が下る!雨が下る!こんなすべての人前で明確なしるしと不思議がともなえば御言葉を確かなものとして立証でき、イスラエル同様のリバイバルが起きるでしょう。
エリヤは確かに勝利しましたが、立っているものは倒されないよう継続的な用心が必要です。なぜならその後、イゼベルの反撃が始まったからです。
「アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。
「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」(第一列王記19:1,2)
イゼベルはもともとイスラエル国内に偶像バアルの預言者たち450人とアシェラの預言者たち400人をアハブ王の妃として嫁がれてきた時、同伴した悪妻です。
その影響力は大きく、夫のアハブ王が主を離れ、王の影響を受けたイスラエル国民全体も主を離れてバアル偶像に仕えるほどまで全体に堕落が波及しました。
そこで主に遣わされたエリヤが天から火を!雨を!降らせて彼らイスラエルを悔い改めのリバイバルに導いたわけでしたが、イゼベルは面白くありません。
面目が丸つぶれで、すべてのバアル信者と預言者たちを瞬時になくしたわけですから、その復讐劇は全身全霊で行なわれたことでしょう。
事実、イゼベルはひどい偶像崇拝者であり、魔術を使って呪いをかけるレベルの人でした。
第二列王記9:22でヨラムとエフーの会話からこのことが分かります。
「ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」
イゼベルはこのように個人的に姦淫を行なって自爆するだけでなく、他人に呪いをかけてその人生を狂わせる悪い人でした。
そのため、ここでも当然、四面楚歌の仕打ちを受けたイゼベルがエリヤに対して黙っておくはずがありません。
「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」
この言葉の中にはもっと深い、呪術的な意味合いがあり、イゼベルは自分の偶像に誓願祈祷しながらエリヤを呪っているのです。
だからこそエリヤはその後、通常の人でもめったに体験しないレベルのひどいブルーな落ち込みを体験しています。
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(列王記第一19:3,4))
昨日まで聖霊に満ちて大きな御わざを現わした同じエリヤとは思えないほど、否定的です。
どんなに偉大な預言者であっても、日々、目覚めた信仰を持ってその背後の霊的束縛、呪いのきずなを打ち砕かなければなりません。
呪いや魔法の力は実在します。誤って人ともめて、解決を見ないまま問題を放置し、和解なく憎しみをかった呪いの言葉を受けてはいけません。
また、文字通り宗教に関わった人々から無用な争いや呪いを受けることも避けるべきです。他宗教の信者から受ける彼らなりの流儀に基づいた祈りも受けてはいけません。
あなたの幸福のために他宗教で祈っていると言われてもだまされてはいけません。
すべて悪霊が働く接点となるだけで、悪から祝福が来ることは絶対ありません。
私は真っ向から働くイゼベル流の呪いを受けて苦しめられたことが何度もあります。
私がクリスチャンになってからのことです。昔からたまたま利用していた床屋に行った時のことです。当時、伝道に燃えていた私はいつの間にか床屋のおばさんに髪を切ってもらいながら伝道をしていました。
福音をいろいろ語るうちに、そのおばさんの反撃が始まりました。うちは親子三代続く熱心な仏教徒、その後、延々と続く話はその教えについてでした。その時私は危ないと思いました。首周りにかみそりを立ててひげをそりながら、間違ったことをしゃべり、その内なる霊は宗教的な惑わしの霊だと思ったとき、恐ろしくなりました。
「このおばさんは今、悪霊の力が一杯入っている。このかみそりの刃の角度が少しかったらどうなる!」内心、祈るばかりでした。
カットがすべて終わり、帰り際に床屋のおばさんは言いました。
「床屋ではお客に対して政治と宗教の話はタブーなのに、今日はおかしいわねえ。」
そして帰宅後、その夜に私はクリスチャンなのに金縛りになって悪夢にひどく悩まされました。悪夢の中で、なんと私の全家族が頭が狂い、裸になって家の風呂場でナイフを持って血だらけに殺しあっているではありませんか。
恐ろしくて、気味悪くて、金縛りが溶けて目覚めたあと私は主に祈りました。
「主よ!なぜ、ひどい罪も犯していないのにこんな悪夢に悩まされたのでしょうか?」
すると即座に聖霊様が私に語りかけてくださいました。
「それはあなたが昨日、悪霊の祈りを受けたからです。」
びっくりしました。確かにあの床屋のおばさんは私の頭に手を置いて髪を削りながらなんかしゃべっていました。
一般的な世間話をする限り、霊は働きませんが、宗教的な会話では話が違います。
それ以降、床屋ではあまり積極的に伝道しないようになりました。
はさみもかみそりも向こう持ちで、こちらは武装解除で体裁不利だからです。
誤ってイゼベルのような邪悪な霊を持った人から汚れた呪いを受けないよう注意しましょう。
エリヤが死を願うほどまで落ち込んだ理由は他にもあります。燃え尽き症候群です。
先日まで一生懸命頑張りすぎて今は、祭りのあとの静けさのようにパワーがすっかり抜けきった緊張感解放のゆえにそのギャップの中で落ち込むケースがあります。
大きな仕事をしたあと、大きく主に用いられた多忙期のあと注意しましょう。
熟練サラリーマンが定年退職以降、人生の目標を突如喪失して早期に昇天するケースがあると聞きました。燃え尽き症候群、注意です。
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。」(第一列王記19:3)
エリヤの憂うつ症の原因はさらにイゼベルの迫害を恐れたことにもあります。
イゼベルが願えば、王妃ゆえ夫のアハブを抱きこんで軍隊さえ動かせたでしょうが、エリヤは偉大な神様を忘れて、小さな人間の迫害や軍隊を恐れて逃げているではありませんか。
恐れとはこのように割に合わないもので、恐れは刑罰がともない、この種の恐れは百害あって一利なしです。
ヨブはもともと東洋一の大富豪で信仰の義人ですが、ひどい試練を受けた際、こう告白しています。
「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」
(ヨブ3:25,26)
ヨブは神様から戴いた数々の祝福をいつかはそこね、家畜の群れを失い、従業員を失い、家も健康も子供たちの命さえ失われはしないかと恐れていたのです。
事実そうなったことからこれらすべてのことが、ヨブが最も恐れ、おびえたものであったことが分かります。ヨブのひとつの良い習慣にもこのことは良く現れています。
「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」(ヨブ1:5)
子供たちのために事あるごとにとりなし祈る敬虔なクリスチャンホームの父親の模範的モデルの態度ともとらえられますが、見方を変えると、正しい良い子供たちだったのにあるいは罪を犯した、かもしれないと恐れ、心の中で神をのろったかもしれない。と恐れる元々恐れの多い人だったことが分かります。
恐れには刑罰がともないます。恐れてはいけません。心に抱く悪い恐れが、悪酔いさせ現実をも破壊します。全き愛は恐れを締め出します。決心して恐れを選ばないことです。
ちっぽけなイゼベル一人を恐れたエリヤが天の天をもお入れすることが出来ない、偉大な知恵と力と富と勢いに満ちた神様を忘れて落ち込んでいます。おかしな話です。
さらにエリヤの落ち込み原因があります。それは人と比較したことです。
この御言葉をお読み下さい。
「自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(第一列王記19:4)
エリヤが柳の木の下の幽霊のように暗く落ち込んだ理由は内なる病とも言うべき、考え方が誤ったからです。そもそも人と比較すること自体、間違いであり、悪魔の思う壺です。
悪魔が入ったペテロからイエス様が叱責で悪魔を追い出されたとき、その語られた御言葉は重要な教訓を与えます。
「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)
人のことを執拗に思い、考えるとき危険です。比較思想が働くからです。
イエス様は人のことばかり気にする性格のペテロに復活以降も教訓されました。
「ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21,22)
いつもペテロとヨハネとヤコブの3人はイエス様と特に多く行動を共にされたため、ペテロは12弟子の中でもベストスリーに自分は位置しているのでは、と勘違いしていたかもしれません。そこで中でも本命のライバルと一方的に決め付けたヨハネについては気になってしょうがありません。
そこであるときペテロが自分の殉教のさまについてイエス様から預言の御言葉を戴いた時、すぐに知りたかったことが、ヨハネについてのことでした。
「主よ。この人はどうですか。」
信仰生活は他人を干渉しないことです。
誤った質問をするペテロにイエス様は
「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
と教訓されています。クリスチャンは人と比較しない、神様と個々人が直接の関係を結ぶ存在です。
世はすぐに他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に落ち込んだり、水平的に行きますが、クリスチャンは違います。人を見ないで垂直的に神様を見上げてハレルヤです。あなたにはあなたにしか出来ない仕事と神様のご計画が本当にあります。
誰かがある領域で成功しても皆が同じく成功できるものではありません。
あなたならではの賜物と使命を見いだし、神様のご計画に限りなく従って生きることが本当の成功です。
偏差値重視の横型競争社会に生きてきましたが、教会では絶対比較しないで下さい。教会と教会も比較しないで下さい。
すべて神様のものであり、状況もご計画もすべてが異なります。
エリヤが比較して失敗した対象は
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」でした。先祖たちと言ってもエリヤの場合、預言者として自分の父やおじいさんではなかったと思います。
彼が常日頃、比較して意識していたのは旧約の同じく預言者たち、有名なモーセとかアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ・・・いつも比較していたのではないでしょうか。簡単に言って、モーセは海を裂いて対岸に行った人、アブラハムはイサクを捧げた信仰の父、ヤコブは、ヨセフは、説明するのも大変、みんな違うからです。エリヤもまた、別の計画の人です。
絶対比較しないことが神様の知恵です。教会で用いられている人、親や兄弟など比較するときむなしくなります。神様が一人一人に異なる賜物と個性的な独自の御計画を持たれているからです。イエス様を信じて自分らしい自分になればそれでいいのです。
全ての人に神様は行くべき道を備えておられ、自ら成すべき生涯の使命を発見するように導かれます。ですから人と同じになる必要はなく、ただ神様の私に対して立てておられる御計画を知り、それを実践できるようになることが大切です。絶対、人と比較しないこと、それがエリヤのような憂鬱症にかからないためにも必要なことです。
エリヤのうつ病にはまだ他にも原因があります。不規則な睡眠時間と無謀な食生活です。
それが分かるのは御使いがこれらエリヤの乱れた状態を微調整したからです。
御使いがエリヤを癒していく過程の御言葉に注目です。
「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。」(第一列王記19:5-8)
憂鬱症患者の大半は夜遅く起きていて午前中は起きられないものです。規則正しい生活を取り返すだけでも相当分、癒されます。早寝早起き、御使いは少ない食事をエリヤに与えているので腹八分、そして栄養のバランスを考慮していないお菓子類による過度の糖分摂取や偏食、過激ダイエットによる栄養不足なども回避することです。栄養バランスの不安定が精神の不安定をも連動します。御使いは食後のエリヤにホレブ山まで歩かせています。適度な運動は心身ともにリフレッシュさせ、歩くことは体にとてもいい生活習慣です。
医学的には歩行すると、骨盤環内で、仙骨のうなずき運動が起き、ポンプを動かすような作用が起きて、脳脊髄液の循環が起こるため、脳の興奮が治まり考えがすっきりします。また、歩行すると、腓腹筋の収縮が起こり、筋肉のポンプ作用が働き、静脈血を持ち上げる事により、心臓に血液が十分入るため血圧も安定します。
また、血液を十分に送り出す事により、血管を拡張しますので血管壁の圧力も下がります。
寝て安静にしているより、正しい歩行が望ましく、適度の歩行は心臓を強くして、血流も左右より規則正しく入ることになり、腎臓に振動が伝わって、血液の濾過機能の目詰まりを治す事ができます。このほかにも、歩行すると、骨折の予防の効果、骨を強くする効果、肥満を予防する効果、大腸の蠕動運動を促進する効果、身体の構造を治す効果もあり、成人病の中でも特に心筋梗塞、狭心症、突然死、心不全、不整脈などをおこす、いわゆる虚血性心疾患の予防に有効です。ただ、だらだら歩くのではなく、エリヤがホレブ山を目標に目指して歩いたように前向きな意志を持って正しい姿勢で積極的な歩行が望ましいです。
秋田県の村に住む65歳以上の男女約1000人の体力と健康状態を10年間、追跡調査したデーターでは、その一環の歩行テストで、速く歩けるお年寄りほど体力があり、健康状態のいいことが分かっています。筋力、心肺機能、平衡性、持久力、日常生活動作、生活の質のいずれも、速く歩ける高齢者ほど優れており、元気で長生きしているというウオーキングの有効性が実証されています。憂鬱症が感じられたら引きこもって眠らずに、むしろ積極的に出歩いて神様が創造された被造物をよく観察してみましょう。
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