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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

東京電力に限らず、電力会社は地域独占という特権があるせいで、


一般企業であれば到底耐えられない水準の 莫大な借金 をしてるんだよね。


(※例えば、東電は 2010年度で 約9兆円 の有利子負債残高がある)



何で借金する必要があるかと言えば、


発電所を建てる敷地の確保・整備とか、地域住民に対するバラ撒きとかにお金が掛かるから。


(※実際、九電なんかは地元の漁業団体に対して 借金の肩代わり までしている 笑)



言い換えると、それくらい高コスト体質でも回る超優良企業、ということでもある。




まあ、電力会社が倒産する可能性は、現在の法制上、ほぼあり得ないから、


かなり債務を抱えていたとしても、電気代が上昇するリスクを度外視すれば、別に問題ない。



でも、逆に言えば、各電力会社の地域独占を無くしたら、即座に経営破綻の危機に陥るわけね。


仮に電力会社が潰れたとしたら、その地域の電力供給は相当不安定になるはず。



また、東電に融資している諸金融機関も甚大な被害を被ることになるよね。


(※その中には、年金関連の資金もあるかもしれない…てか、絶対あるぞ☆)



つまり、たとえ地域独占が諸悪の根源だとしても、


地域独占をやめさせるわけにはいかない、という厄介な問題が横たわっているわけだ。



ふと思い出したんだけど、リーマン・ショック後の米国において、


金融機関や自動車会社に対する公的資金注入を正当化する論理として


"Too big to fail" (大きすぎて潰せない)という言葉が流行ったことがあったよね。



そう、まさに東電くらい too big to fail な日本企業はないよね。


東電に限らず、日本には JR 各社や JAL, NTT のように


too big to fail な民間企業が多過ぎるかもしれない。



確かに、一見すると市場独占/寡占状態の企業が社会基盤を提供することは、


経営基盤が安定していている分、社会的に好ましいことのようにも思えるけど、


社会がそういった巨大企業に依存することによって引き起こされる弊害も、やっぱりあるんだよね。

量子力学の発展により、計算機科学の方向性は、


非ノイマン型である 量子コンピュータ の実現に重きが置かれている傾向もあるが、


実際のところ、ノイマン型の究極形とでも言うべきコンピュータも考案されてはいる。



では、地球上で実現可能な究極の ノイマン型計算機 とは、一体どんなモノだろうか。


それは「ブラックホール・コンピュータ」だ。




とはいえ、ブラックホール・コンピュータとは何だろう。



その名称から、銀河中枢に鎮座する巨大ブラックホールを利用したコンピュータ、


といったハード SF で登場するような代物を想像してしまうかもしれない。


だが、安心して欲しい。これは、あくまで「地上で実現可能」な計算機の話である。



そもそも、天体のように大きなブラックホールが地上にあったとしたら、


地球はおろか、太陽までもが一瞬で吸い込まれてしまい、計算どころではない。



すなわち、このブラックホール・コンピュータで用いられるのは、


原子よりも小さい量子サイズの極小ブラックホール以外には考えられない。


また、そのくらい小さなブラックホールならば、


粒子加速器 によって生み出すことも不可能ではない、と予想されている。





さて、そのブラックホール・コンピュータの仕組みについて具体的に説明してみよう。


とはいえ、その構造は驚くほど単純だ。



まず、粒子加速器によって生み出された極小ブラックホールに


演算用に設計された物質(=入力情報)を放り込んでやる。


すると、ブラックホールは ホーキング輻射 によって放射線を放出する。



この放射線こそが「演算結果」であり、それを検出することで出力情報とするわけだ。


(※通常のコンピュータは、電圧の高低を複雑に組み合わせて演算する)



その演算速度たるや、一般的なコンピュータとは比較にならないほど速い。


理論的には 10^51Hz (1,000 ヘルツ)に達する、と考えられている。


これは、市販されているシングルコア CPU の約 10^42 倍の処理速度を誇る。




だが、このように概念としては単純な構造にも関わらず、


これを実現するに乗り越えなければならない障害は無数に存在している。



例えば、量子サイズのブラックホールの挙動を完全に制御するためには、


量子重力理論 が確立されている必要があるが、未だ解決の糸口すら掴めていない。


(※量子重力理論とは、相容れないはずの相対論と量子力学を両立させる究極の理論)



また、極小なブラックホールは極めて短時間で消えてしまうと予想されているため、


これをどのように制御すべきかも大きな課題だ。



他にも、「演算用に設計された物質」とは何であり、どのように作り出すのか。


現在の科学水準では、その構造と作成手順を予想することすら難しい。



これらの他にも解決すべき課題は山積しており、


量子コンピュータを実現する方が幾らか視界良好、といった具合である。


(※以前紹介した 東北大の快挙 により、量子コンピュータの実現可能性は大いに高まった)



そもそも、粒子加速器によってブラックホールを生み出せるのかどうかすら、


今のところは議論が分かれるところである。



もっとも、この件に関してだけは、現代科学でも解決可能かもしれない。


実際、フランスにある 粒子加速器 でも極小ブラックホールを作り出せる可能性が指摘されている。



仮にブラックホール生成に成功したとすれば、


究極の計算機、ブラックホール・コンピュータの実現に一歩踏み出した、ということになるだろう。

0.9999999999999999999999999999999... と無限に 9 が続くような実数を考えてみる。



では、この数は 1 に等しいのだろうか。


あるいは、限りなく 1 に近いものの、1 よりも極僅かに小さいのだろうか。


実は小学生にも分かる簡単な証明があるので、紹介しておこうと思う。



まず、1/3 = 0.33333333333333333333333333... であることは自明とする。


ここで、両辺に 3 をかける。



3 x 1/3 = 3 x 0.333...


1 = 0.999...



よって、0.999... は 1 に等しいことが証明された。



これは「数」と「無限」という数学的概念を巡る有名なネタだが、


ある特定の数を複数の方法で表すことが出来る、という純然たる事実を受け入れるのは意外と難しい。


また、無限という数学的概念の帰結は、しばしば日常的直感に反することが多い。



だが、0.999... が 1 に全く等しい、という事実を理解するだけで、


数学的感覚が強く刺激され、思考の柔軟性が大幅に拡張されるのではないかと思う。

人は独りでは生きられないが、常に独りである。


独りではいられないが、独りでしかいられない。


人の心は、窓の付いた真空のようなもので、


ひとたび窓が開かれれば、貪欲に外気を取り込もうとする。


だが、いつまで経っても満たされることはない。決してない。



故に、我々に残された唯一の抵抗策は、その虚空を認識することだ。



人は死ぬまで独りであり、死んでも独りである。


何者もその隙間を埋めることは出来ない。永遠の零である。



その真理を受け入れず、苦しみに生きがいを見出すのは愚かである。



正しい認識を受け入れたとき、人は生きることに苦しまなくなる。


さあ、苦しみを捨てよ。ただ独りで歩め。生きることは、とてもたやすい。

人間という生き物は、ときどき恐ろしいくらい冷酷になれるものだ。



特に、とてつもなく残酷なことを言ってるにも関わらず、


自分の発言が何を意味しているのか分かっていない連中がいる。


それどころか、自分が何か「頭の良いこと」を言っているつもりになっている。




そういった発言をするのは、大抵の場合、経済学者という人種らしい。


ごく一部の経済学者たちは、こう言い放った。



「東日本大震災の復興計画は、費用便益を考えるべきだ」



なるほど、もっともである。


投資する価値もないものに投資すれば、ドブに金を捨てるようなものだ。



ところで、東北地方の沿岸部というのは、ほぼ例外なく、


基幹産業の衰退や少子高齢化、過疎化といった解決困難な課題を抱えた地域である。


端的に言って、黙っていれば、いつかは消えてなくなるような場所だ。



いや、衰退こそすれ、集落が消えてなくなるなどあり得ない、と考える向きもあるかと思う。


だが、現在は無人の山奥にも、かつては人間が住んでいた場所が少なくない。



そういった集落の大半は、社会や産業の構造変化に伴って消え去ってしまった。


明治維新以降、人々は都市部へと集積し続け、村落は少しずつ消滅し続けているのだ。




話を元に戻すと、被災地域にいくら投資したところで、


その投資分に見合った見返りなど決して返って来ない。これは厳然たる事実だ。



可能性があるとすれば、大胆な規制緩和で企業誘致する、といった場合が考えられるが、


この方法を用いれば、地元民は生活様式の変更を余儀なくされてしまう。



勘違いしては困るが、地元民は「復旧」を望んでいるのであって、


「復興」を望んでいるわけではない。


以前のような生活に戻れば御の字であり、地域新興は二の次なのである。


(※例えば、被災地に漁業特区を設置するという構想は、地元漁連の激烈な反対を受けている)


そして、あくまで「復旧」を目指すということであれば、


再建投資に伴う収支は、長期的に見ても「大赤字」を覚悟しなければなるまい。


(※よって、長期国債による復興資金の調達は極めてリスクが高い、と言わざるを得ない)



逆を言えば、費用便益計算を踏まえて復興計画を立てるとすれば、


事実上、それは「何もしない」ということ選択するに等しい。



恐らく、多くの日本国民には、東北経済が抱える構造的欠陥が見えていない。


それは単に統計上の問題のみならず、この地域に住み続けるうちに


自然と身に付いてしまう「態度」の問題でもある。解決は極めて困難だ。


(※自嘲的に「定置網思考」と呼ぶ地域もある)



その実態を理解していないからこそ、


「頭脳明晰」な経済学者たちは、まるで正義の味方になったかのような口ぶりで、


「費用便益を考えるべきだ」などと主張してしまうのである。




しかしながら、一人の東北人として、断固主張しておかねばならないことがある。



たとえ、膨大な国家予算を無駄にするような結果に繋がるとしても、


東北沿岸部および福島東部の復旧は、為されなければならないのである。



それは理屈ではない。完全に情緒的な主張である。


それは法的義務ではない。国家の道徳的義務である。



もっとも、仮に費用便益計算の結果、


東北復興に予算を割けないというならば、それでも構わない。


その代わり、日本国から東北地方を独立させて欲しい。



日本という歴史的連続体は、伝統的に関東以西を中心に発展してきた。


そして、かつて蝦夷と呼ばれた東北地方は、


いついかなるときも「辺境」としてしか扱われてこなかった。



実際、大半の日本人には、


東北の歴史が教科書に僅かしか記述されていないことを疑問にすら思わないだろう。


それならば、いっそのこと、もう自由にしてくれても良いのではないか。



繰り返すが、日本国は東北復興に道義的責任を負っている。それは義務である。


もし、その義務を果たせないというならば、もはや我々が日本人でいる必要はない。