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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

『東電戦隊フクシマン』


(※電撃戦隊チェンジマン OPテーマ 替え歌)



ウランに火がつくぜ 燃え上がるぜ


危険な津波が やって来るぜ



損害賠償は したくないさ


利権の We're フクシマン 金が力



福島原発 水素爆発


降り注ぐ 放射能



Oh! Yes! 隠蔽が大好き


合言葉はひとつ Oh 想・定・外



Oh! Yes! 炉心部は メルトスルー


俺は 俺達は 東電戦隊フクシマン

「スーパー戦隊シリーズ」として知られる特撮番組は、既に 35 年もの歴史を持っているらしい。


幼少の頃に観ていた、という人も多いだろう。


(※もっとも、大人になっても観続ける「大きなお友達」も少ないないのだが)



最近気付いたのだが、戦隊モノの OP テーマは、


脳の中に鮮烈な記憶として閉じ込められているらしい。



実際、イントロ部分が流れただけで、「あ、懐かしい!」という印象を抱く人は多いはず。


最も記憶力が優れた時期に見続けるだけに、忘れようにも忘れられない記憶となっているのだ。



その戦隊モノの社会的影響力たるや、今や日本文化の一部となっているような気がする。


恐らく、ほとんどの日本人は「戦隊モノ」をネタにしたジョークが理解できるだろう。



東電戦隊フクシマン! 中電戦隊ハマオカV(ファイブ)!



まったく不謹慎である。

今日行われた参議院本会議において、与党に所属する 女性議員 の質問が大変興味深かった。


その内容は以下の通り(※なお、実際の発言内容とは論理構成が異なる)。




日本人は自国を「科学技術立国」と自認しているが、それは本当だろうか。



西洋では、科学(science)と技術(technology)を別個のものと捉えており、


特に前者、すなわち「基礎科学」を尊重する気風がある。



一方、日本は科学の応用面、すなわち「科学技術」に傾注するあまり、


ともすれば、海外から発信される科学知識に「タダ乗り」しがちな傾向がある、


とは言えないだろうか。事実、過去にはそのように批判されたこともある。



以上を踏まえ、文科省の基礎科学に対する認識を問いたい、といったような内容だ。




この質問に対する文科相の返答は、



・日本の科学技術は世界最高水準である


・基礎科学分野についても配慮していきたい



…というものであったが、どうも質問の趣意を理解していない節がある。


あるいは、意図的に分からないふりをしているのかもしれない。



上に挙げた女性議員は、あくまで科学と技術は異なるという認識に立った上で、


日本政府が後者ばかりに傾注して、前者を蔑ろにしているのではないか、


と疑義を呈しているのだが、大臣答弁は両者を混同しており、適切な回答になっていない。




実際のところ、日本の科学技術(technology)は高い水準を維持しているとは思うが、


基礎科学の分野に関して言えば、それほどでもないかもしれない。



無論、国内にノーベル賞級の科学者が点在することは確かだが、


多くの場合、職人芸的な色合いが強く、お世辞にもシステム的な合理性があるとは言い難い。


(※だからこそ、数学や宇宙物理学といった「思弁的」な分野に強みがあるというわけだ)



言い換えれば、日本の基礎科学分野には、


極少数の天才と多数の廃人によって構成されており、


中間層に厚みがないため、全体としては効率性を欠いている。



また、基礎科学に対する教育予算の割合が驚くほど小さいため、


優秀な人材は海外へと飛び出してしまう。


あるいは、海外で実績を積んでから、国内の大学へ「逆輸入」される例もある。



ただし、日本の場合は、民間企業が基礎科学分野を重視する傾向があり、


これが学術界における当該分野の弱さを補っている、という点を忘れてはならない。


(※昨今の経済状況にあっては、補ってきた、と過去形で捉えるべきなのかもしれないが)



その象徴がノーベル化学賞を受賞した 田中耕一 氏(※島津製作所)や、


世界発の量子テレポーテーションを実現した 古澤明 教授(※元ニコン社員)


といった在野の研究者たちと言える。


(※ただし、両者とも基礎科学というよりは、工学に近い分野ではあるが)



ただし、国際競争の激化により、日本企業が基礎分野へ投資する余裕はなくなりつつある。


もし、本気で「科学技術立国」の立場を維持したいと願うのならば、


減りつつある民間投資分を補う程度の予算計上があって然るべきだろう。




でも、たまには哲学のことも思い出してあげて下さい…。


(※先進国中、これほどまで哲学分野が軽視されてる国も珍しいんですわ)

Wikipedia 日本語版における科学関連の項目は、


業界人の業界人による業界人のための解説になっているので、


門外漢が何かを調べる際には殆ど役に立たないのではないだろうか。



一方、英語版は非専門家にも分かり易く書かれているので、


英語版に目を通す癖を付けておいた方が無難、と言えそうだ。




具体的に「電荷」を例に検証してみよう、


雑駁に言って、「電荷」とは、素粒子間の相互作用に関わる性質(の一つ)である。


巨視的な視点から説明すれば、物質間に働く力の性質、と言っても良い。




まず、日本語版では、「素粒子が持つ性質の1つである」とだけ簡潔に書かれているが、


それが具体的にどんな性質なのかについては、項目全体を通して全く触れていない。



「素粒子の性質」という一言で、基本相互作用(=力)に関わることだ、と分かるのは、


そういった教育を受けた人物だけだろう。すなわち、解説として用を成していない。



他方、英語版では次のような一文から解説が始まっている。


Electric charge is a physical property of matter that causes it to experience a force


(電荷とは、物質が持つ物理的性質の一つであり、電荷を持つ物質が他に存在するとき、)


when near other electrically charged matter.


(自身に対して力を及ぼすものである)



少なくとも、この解説ならば、


「電荷」とは、とある力の作用に関する性質のことなんだな、と直感的に理解できるだろう。




何というか、日本の理系な人たちは、ギルド的というか、


ある種の特権意識に基づく内向性を有しているような気がする。



外向的な米国の科学者たちとは好対照だが、


日本における理系の扱いが「粗雑」であることを鑑みれば、


内向きで島宇宙化しがちなのも仕方のないことかもしれない。



そもそも、数学を除き、理系分野の学問は、


ある種の「作法」を身に付けることを学習目的としているところがあるので、


基本的な概念や決まり事について疑問を持つことは、原則的に禁じられている。



良く言えば禁欲的だが、悪く言えば反知性主義的、という批判も出来るだろう。


(※勿論、現実を上手く説明できるからこそ、それを問うてはいけないわけだが)



何にしても、自分の知っていることを専門用語を使わずに説明できるに越したことはない。


実際、一流の科学者たちは、自らの専門分野を実に分かり易く説明できるものだ。


それが出来ないということは、少なくとも「一流」ではない、ということを意味しているのかもしれない

原発問題を主題に据えた話題の映画、『東京原発』を観賞した。


恐らく公開当時は一種の SF 的な扱いを受けた作品なんだろうけど、


深刻な原発事故を経た今となっては、なかなか味わい深い作品となっている。


(※というか、福島原発事故を予見するような内容になっている)



元々は 2000 年代前半に撮影された映画なんだけど、


基本的な社会環境は何も変わっていないので、


約 10 年前の作品でありながら、内容的に古くはなっていない。


(※逆を言えば、ここ 10 年間でまったく状況が進んでいない、というわけだ)



まあ、娯楽映画としてよりも、むしろ原発関連に関する賛成&反対の両論を


同時に勉強できる、という意味で貴重な作品かもしれない。



ちょっと面白かったのは、仮に浜岡原発から放射性物質が撒き散らされた場合、


最も多くの汚染度が高いと予想されている地域が


群馬県~新潟中越地方であるということ。首都圏付近じゃないんだね。


(※恐らく北東寄りの風が吹くと、上毛三山が放射性物質を滞留させてしまうのだろう)



あと、意外にも福島~仙台の県境付近にまで放射性物質が届くらしい。


七ヶ宿や蔵王、白石、角田、丸森、山元あたりは、セシウムさんが再襲来しそう。



映画とは関係ないけど、浜岡原発は東海地震のみならず、


関東大震災と同じ相模湾を震源とする地震でも津波の危険性があるわけで、


旧浜岡町に原発設置を許可した当時の責任者は、相当なツンデレに違いない。



個人的に原発推進は大賛成なんだけど、


その代わり、旗振り役の政治家や御用学者には、バケツでウランを掻き混ぜる、


という日本が誇る国技への参加を促したい。てか、義務付けたい。