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逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

時折、興に乗って余計なことを口にしてしまうことがある。



例えば、「まあ、生きている意味なんて、本質的には無いんですよね」なんて言うと、


ある人は驚いた顔で「もしかして、鬱病ですか?」と心配してくれたり、


別の人は呆れた顔で「じゃあ、今すぐ死ねよ」と罵倒してくれたりする。



ちなみに、この二つの反応は、一見すると正反対のように見えるけど、


実は、全く同じ考え方を異なる方法で表現したものに過ぎなかったりする。



ようするに、人間は生きる意味、生きがいを抱えて生きるものであり、


それを失っているのは異常である、といった淡い信念、あるいは信仰に根付いているわけだ。



そして、両者の応答の仕方は、彼らが人生において生きる意味を失ったとき、


どのように反応する(と考えているの)かを表明してくれている。



つまり、人生の意味を見失ったとき、


前者の人物は、精神科を受診すれば解決する、と考えている。


後者の人物は、もはや生きていられないだろう、と考えている。



実際のところ、人生に対して特に生きがいを見出せないとしても、


向精神薬を飲まなければならないわけではないし、


ましてや死ななければならないというわけではない。



「それじゃあ、何が楽しくて生きてるの?」と訝る向きもあるかもしれないけれど、


楽しくなければ生きてはいけない、というのは随分と了見の狭い考え方だし、


むしろそういった考え方こそが、人生を苦しみの連続へと変えてしまっている。



とどのつまり、人生は楽しいことばかりではないし、むしろ苦しいことばかり。


お薬を飲んだところで生活上の問題が解決するわけではないし、


どんな生きがいを持ったところで徒労に終わるのは目に見えている。



だから、そういった残念な事実を全部受け入れた上で、ただ生きる他ない。



謂わば、呼吸をするように生きること。


誰も呼吸することを疑問に思わないように、生きることに過剰な意味付けをする必要はない。


人生という物語を演じるのではなく、自己という現象を観察すること。それだけで十分だ。



とはいえ、他人に実存的な不安を感じさせるような発言は、極力控えるに越したことはないけど 笑

増税せずに復興財源を捻出するため、公共事業と地方交付金を大胆に削減します。



…ということになった場合、被災地を除く地方自治体の関係者たちは、


果たして賛成に回るだろうか。それとも、何だかんだ理由を付けて反対するだろうか。



正直、日本人の大半が「被災地の復興」を心から願っているとは、到底信じられない。


恐らく真に「痛みを伴う」復興案が示されたとき、その実態が明るみになるだろう。

アインシュタイン博士は、真空中に伝わる光速の速度が不変であるというところから、


光速よりも速く伝わる物体は存在しない、ということを導き出した。



正確に言えば、光速を越える物体の質量は、虚数の値を示してしまう。


虚数の物体とは、一体どんなものだろう。



実は、あまり考える意味はない。


なぜなら、実数の値を示さない物質(=エネルギー)は観測できないので、


それは存在しないことと等しい(※以前書いた「 幽霊の非存在証明 」を参照のこと)。



ところが、先日、欧州原子核研究機構( CERN )が


「ニュートリノは光速を越えるかもしれない」という 観測結果 を報告したらしい。


(※ニュートリノとは、原子核が崩壊するとき放出される素粒子の一種)



この報告が正しいとすれば、相対性理論は間違っている、ということになってしまうかもしれない


つまり、現代物理学を根底から覆し得る可能性を秘めているのだ。




とはいえ、この発見が直ちに物理学の革新に繋がるかと言えば、そうとも言えない。



まず第一に、観測結果が間違っているかもしれない。


ちょっと情けない話だが、正直、こういうことはよくあることだ。


世界中の物理学者も「ぶっちゃけ、観測ミスじゃないの?」と疑っている。



まあ、素人考えでは「発表されたら事実なのだろう」と思ってしまうものだが、


実際のところ、科学的発見の正しさが完全に証明されるのは、


それが発表されてからしばらく後のことだ。



というのは、その発表の正しさを検証する作業が必要だから。


もちろん、革新的な発見であればあるほど、検証には多大な時間が掛かる。


相対性理論ですら、発表当時は激しい攻撃に晒され、しばらくの間は受け入れられなかった。



次に考えられるのは、


「あらゆる慣性系で速度不変なのは、光ではなくてニュートリノの速度でした」という場合だ。


この場合、今まで光速が占めていた特権的地位を「ニュートリノの速度」が奪うだけで、


物理学を根本から揺るがすような事態にはならないだろう。



ただし、この場合に問題になるのは、ニュートリノに質量がある、ということだ。


(※もちろん、それを発見した科学者こそ、ノーベル物理学賞を受賞した小柴博士だね)



光、すなわち電磁波というのは、質量を持っていない。すなわち、物質ではない。


というより、物体は光速に近付くにつれ質量が増していき、光速に達した段階で質量が無限大になる。


質量が無限大ということは、エネルギーが無限大ということだから、現実には存在し得ない。


(※宇宙全体を一つの閉鎖系とすれば、エネルギー保存の法則から非存在が証明される)



ところが、ニュートリノは僅かながら質量を持っているので、単純に考えれば相対性理論と相容れない。


ここら辺が厄介なところだけど、それでも何とか踏み止まれる程度の齟齬かもしれない。


(※幸いなことに、スーパーブラディオン という仮想物質が既に提案されているわけだし…)




さて、万が一、相対性理論が間違っていたとすると、具体的にはどんな問題が起こるだろう。


それは宇宙に不変的な速度、すなわち絶対的な指針が存在しないということになり、


端的に言えば、人間の行うあらゆる観測が究極的には信用できない、ということになる。



実際、光というのは、時空(=時間+空間)が一緒になった次元に存在しているから、


「光が進む」ということと「時間が流れる」ということは、本質的に同じことを意味している。


すなわち、光速度というのは、時間と距離を基礎付ける重要な物理定数でもあるわけだ。



無論、これも「光速度不変の原理」から導き出されることだ。



つまり、本当に不変速度が存在しないのならば、


人間には正しい時間と距離の測定が原理的に不可能、ということになってしまう。


日常生活に障害をもたらすものではないにしも、宇宙物理学の世界では致命的な問題となることだろう。




ところで、一部の報道に見られる誤解なのだが、


今回の発見によってタイムマシンの実現に道が開けた、といったことは決してない。



繰り返しになるが、光速を越えた物体の質量は虚数になる。


また、超光速時には時間も「負の虚数(-i)」の値を示す、とされている。


(※ローレンツ変換で色々と遊んでみると分かる)


直感的に考えると、これは「時間を逆行しているのではないか」と思ってしまうが、そうではない。


虚数の時間、「虚時間」とは、人語で説明の付かない摩訶不思議な時間の流れであり、


マイナスが付いているからといって、決して「時間を遡っている」ということを意味しない。



というか、虚時間が何を意味するのか、誰にも分からない。


今のところは単なる計算上の産物に過ぎず、勝手な想像は許されないだろう。



そもそも、なぜ時間の流れが 過去から未来へと一方通行 なのか。


これは現代科学を以ってしても全く判明していない。


まあ、恐らく科学というよりは、哲学の領域だろう。



例えば、哲学者カントによれば、


「時間」とは人間が生来的に兼ね備えている感覚に過ぎない、という。



これが正しいとすれば、結局のところ、人間にとって時間とは一方にしか流れないものであり、


どんな手段を以ってしても過去に遡ることは出来ない、ということになる。



また、同じく哲学者ヒュームが言うように、


「因果律」なる物理法則の正しさは、人間の勝手な思い込み過ぎないかもしれない。


少なくとも、この懐疑論を有効に反駁した例は一つも存在しない。



そうだとすれば、仮にタイムマシンで過去に戻ったとしても、それは過去ではなく、


過去に見えるものの、現実とは因果性を共有していないバラバラな時空に過ぎない。


(※よって、現代に戻ってきたとしても、それは本来の現在ではない)




話を元に戻すと、今回の発見で「タイムマシンが可能になるかも」と発言する専門家がいるのは、


要するに、論理学で言うところの「(矛盾における)爆発原理 」というやつである。


所謂、「豚が空を飛べるなら、西から太陽が昇ったって不思議ではない」といった論理だ。



すなわち、タイムマシンの可能性は、相対性理論によって否定されていたから、


仮に相対性理論が正しくなければ、タイムマシンが出来たって不思議ではない。


それくらい驚くべき発見だ、といった程度のものだろう。



ようするに、「言葉のアヤ」に過ぎないものを


科学的素養に欠けた記者が真面目に受け取ってしまった、というわけだ。笑うしかない。

福島県産の農作物が風評被害で売れない、という話をよく耳にする。



そう言われてみれば、つい最近、飯坂温泉(※福島市北西部)にある農家直営の果実店で


桃やら梨やらを箱買いしてきたが、種類に関わらず、相当売れ残っている感じだった。



というか、平年よりも随分と安値で売られていたし、


「箱買いしたい」と言ったら、数十個で 1,000 円という破格で売ってもらえた。


(※恐らく原価ギリギリか、場合によっては捨て値に近いのではないかと思う)



ただ、これを「福島応援」といったような偽善行為と誤解して欲しくない。


自分が毎日のように福島県産品を口にしているのは、ある種の覚悟があってのことだ。




このブログで何度か書いている通り、自分は徹底した分離主義者であり、


考え方によっては反社会分子だ。みんなが大好きな「極左」である。



そういう意味では、やや捩れた意味で「反日」的である。


実際、寝ても醒めても、日本の悪口ばかり書いているような気がする。



とはいえ、放射能汚染の恐れがあるからと言って、東北の物産品を忌避するような真似はしない。


むしろいくら汚染されていようが、それでもあえて福島県産の農産物を口にするだろう。



陳腐な言い方だが、自分の生まれ育った「東北」という地域は掛け替えのないものであり、


その愛郷心を満足させるためなら、健康被害など一向に構わない、というわけだ。



まあ、自分には「愛郷心」はあっても、「愛国心」などというものは全くないから、


もし原発被害が東北以外の地域で起こっていたとしたら、その地域の物産品を避けようとしたかもしれない。


だから、昨今の風評被害も理解出来ないわけではない。




でも、逆を言えば、およそ「愛国心」なる心情を持つ者、愛国者であれば、


迷わず福島県産の食品を買い支えようとするのではないだろうか。



そう、心から愛する国土の保全に繋がるのであれば、


健康被害を受けるくらいなど大したことではないし、むしろ本望だ、


ということにはならないのだろうか。



実際、敵国から侵略されたとき、「死ぬのが怖いから」と抜かして


戦地から逃げ出すような輩が「愛国者」などとは言えないだろう。




ところが、現実を眺め回してみると、東北の物産品は明らかに風評被害を受けている。



食品の大半が汚染されているならばともかく、実際のところ、汚染が認められたものはほとんどない。


また、僅かにでも汚染されていれば出荷自粛されるため、市場に流通することはない。


(※ちなみに、国の基準は緩いどころか、むしろ厳しすぎるくらいだ)



それにも関わらず、被災地産品の買い控えが起きているということは、


論理的な帰結として、この国には愛国者がほとんどいない、と考えるべきだろう。



どうでしょう。自国を心から愛しているなら、寿命くらい縮まっても良いんじゃないですかね?


自分には愛国心の欠片もありませんが、福島が好きですから、命を賭してでも食べ続けますよ 笑

日本のアイドル界における期待の超新星、仲川遥香 (19) は、


先般開催された「AKB48じゃんけん大会」において初戦敗退、


という憂き目を見ることとなった。



この残念な結果を受け、期待の超新星というより、


もはや期待が弾けて超新星爆発してしまったんじゃないか、


といった焦燥感を覚えているファンも少なくない、と予想される。



しかし、幸か不幸か、仲川遥香 (19) は、AKB48 の中でも相当に可愛い方だし、


彼女に匹敵するほどの美貌の持ち主は、仙台を見回しても数えるほどしかいない。


しかも、フリートークは完璧 なのである。実に頼もしい。鬼に金棒だ。



これはつまり、はるごんの時代が既に眼前に迫りつつある、ということだろう。


じゃんけん大会では残念な結果に終わってしまったが、次の総選挙では 8 位以上確定だ。


オバマ大統領が言う通り、"Harugon: Yes, We Can!!" なのである。



というか、そろそろ AKB48 の爆発的人気も落ち着き始めるだろうから、


次の総選挙くらいで目立っておかないと、色んな意味で終わってしまう。


もうね、アラブの大富豪あたりをファンにつけて、何とかして欲しい。



くっ…このままでは、オレの 邪気眼 が…。