東北復興は国家の道徳的義務である | 逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

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A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

人間という生き物は、ときどき恐ろしいくらい冷酷になれるものだ。



特に、とてつもなく残酷なことを言ってるにも関わらず、


自分の発言が何を意味しているのか分かっていない連中がいる。


それどころか、自分が何か「頭の良いこと」を言っているつもりになっている。




そういった発言をするのは、大抵の場合、経済学者という人種らしい。


ごく一部の経済学者たちは、こう言い放った。



「東日本大震災の復興計画は、費用便益を考えるべきだ」



なるほど、もっともである。


投資する価値もないものに投資すれば、ドブに金を捨てるようなものだ。



ところで、東北地方の沿岸部というのは、ほぼ例外なく、


基幹産業の衰退や少子高齢化、過疎化といった解決困難な課題を抱えた地域である。


端的に言って、黙っていれば、いつかは消えてなくなるような場所だ。



いや、衰退こそすれ、集落が消えてなくなるなどあり得ない、と考える向きもあるかと思う。


だが、現在は無人の山奥にも、かつては人間が住んでいた場所が少なくない。



そういった集落の大半は、社会や産業の構造変化に伴って消え去ってしまった。


明治維新以降、人々は都市部へと集積し続け、村落は少しずつ消滅し続けているのだ。




話を元に戻すと、被災地域にいくら投資したところで、


その投資分に見合った見返りなど決して返って来ない。これは厳然たる事実だ。



可能性があるとすれば、大胆な規制緩和で企業誘致する、といった場合が考えられるが、


この方法を用いれば、地元民は生活様式の変更を余儀なくされてしまう。



勘違いしては困るが、地元民は「復旧」を望んでいるのであって、


「復興」を望んでいるわけではない。


以前のような生活に戻れば御の字であり、地域新興は二の次なのである。


(※例えば、被災地に漁業特区を設置するという構想は、地元漁連の激烈な反対を受けている)


そして、あくまで「復旧」を目指すということであれば、


再建投資に伴う収支は、長期的に見ても「大赤字」を覚悟しなければなるまい。


(※よって、長期国債による復興資金の調達は極めてリスクが高い、と言わざるを得ない)



逆を言えば、費用便益計算を踏まえて復興計画を立てるとすれば、


事実上、それは「何もしない」ということ選択するに等しい。



恐らく、多くの日本国民には、東北経済が抱える構造的欠陥が見えていない。


それは単に統計上の問題のみならず、この地域に住み続けるうちに


自然と身に付いてしまう「態度」の問題でもある。解決は極めて困難だ。


(※自嘲的に「定置網思考」と呼ぶ地域もある)



その実態を理解していないからこそ、


「頭脳明晰」な経済学者たちは、まるで正義の味方になったかのような口ぶりで、


「費用便益を考えるべきだ」などと主張してしまうのである。




しかしながら、一人の東北人として、断固主張しておかねばならないことがある。



たとえ、膨大な国家予算を無駄にするような結果に繋がるとしても、


東北沿岸部および福島東部の復旧は、為されなければならないのである。



それは理屈ではない。完全に情緒的な主張である。


それは法的義務ではない。国家の道徳的義務である。



もっとも、仮に費用便益計算の結果、


東北復興に予算を割けないというならば、それでも構わない。


その代わり、日本国から東北地方を独立させて欲しい。



日本という歴史的連続体は、伝統的に関東以西を中心に発展してきた。


そして、かつて蝦夷と呼ばれた東北地方は、


いついかなるときも「辺境」としてしか扱われてこなかった。



実際、大半の日本人には、


東北の歴史が教科書に僅かしか記述されていないことを疑問にすら思わないだろう。


それならば、いっそのこと、もう自由にしてくれても良いのではないか。



繰り返すが、日本国は東北復興に道義的責任を負っている。それは義務である。


もし、その義務を果たせないというならば、もはや我々が日本人でいる必要はない。