私の心にまだ傷つく余地が残っていたとは思いませんでした.2 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

ブログにお越しいただきありがとうございます^^

 

ASD(自閉症スペクトラム)当事者

女係長 鹿島じゅんです。

 

私の発達障害に関する診断結果

コチラです。

 

専門家でも見分けるのは難しいと言われる、

発達障害と愛着障害。

 

自分は本当は発達障害ではなく、

愛着障害なのではないかと思い振り返った、

私の愛着障害に関する生育歴

コチラです。

 

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この記事は、前回の記事の続きになります。


何度も書いては消していたため、

前回の記事から、

随分時間が経ってしまいました。


まだ読んでくださる方が、

いらっしゃいましたら、

嬉しく思います。


そして、

前回の記事は読んでいないけれど、

この記事を読んでみたいと、

思って下さった方がいらっしゃいましたら、

よろしければまずコチラからご覧ください。


(ここからが、前回の続きになります)


それは、

娘と孫2人が母の家に宿泊し、

私が自分のアパートに帰った夜の、

次の日に起こりました。


その日の朝は、

娘と孫と一緒に、

公園に遊びに行く約束をしていたため、

孫が朝ごはんを、

食べ終わる位の時間を見計らって、

母の家に娘と孫を迎えに行ったのですが、

生後5ヶ月の孫は、

ミルクを飲み終わっていたものの、

3歳の孫は、

まだ朝ごはんを食べ終わっていなかったため、

私と娘は孫に朝ごはんを食べさせつつ、

公園に遊びに行く用意をしていました。


何事にもつい真面目に取り組んでしまう、

ASDの私は、

もちろん孫と遊ぶ時も全力で相手していたため、

孫がとても懐いてくれて、

私はそれがとても嬉しくて、

さらに全力で遊んであげるという、

無限ループに陥っていたため、

体力はかなり消耗していたものの、

孫と遊ぶのが楽しくてたまりませんでした。


(孫と一緒にゴーカートに乗りました)


幼い孫と、

童心に返って一緒に楽しく遊ぶことは、

子供の頃に寂しく過ごしていた自分自身も、

楽しませてあげているようで、

私は孫と遊んでいると、

時々、

子供時代の自分を、

供養してあげているような気持ちにさえ、

なっていました。


私は孫と遊ぶことで、

自分自身も癒しているんだな


孫と遊ぶと、

体はヘトヘトに疲れていても、

心が軽くなることを体感していた私は、

とても傷つく子供時代を過ごしてきて、

何十年と辛い思いをしてきたけれど、

これからは、

幸せに過ごしていけるのだと、

そう信じて疑いませんでした。


だから、

そんな楽しい気持ちで、

公園に遊びに行く用意をしていた私にとって、

娘から突然、発せられた質問は、

全く予想もしていないものだったのです。


「おばあちゃんが、

お母さんがおじいちゃんから、

酷いことを言われていて可哀想だったから、

お金をあげたって言ってたけど、

本当?」


不意に娘から発せられたその質問に、

あまりに大きな衝撃を受けたためか、

私は一瞬、

頭の中が真っ白になったように感じました。


そして、何気なく聞いてきた娘に対して、


「うーん、それはちょっと、

お母さん(私)の聞いてる内容と違うけどなぁ」


と平静を装って答えたものの、

もの凄い勢いで、

心臓がバクバクと早鐘を打ったように動き出し、

その後、

娘が孫に気を取られてその話が終わらなければ、

私は娘に対して、

口にするにはとても悲しい事実を、

話さなければならなくなっていたところでした。


そのとても悲しい事実とは、

母が娘に伝えた、

私がおじいちゃん(父)から言われた、

酷いことと同じ内容であり、

この時、

私が母に伝えた父の嘘のことでした。



1.私を出産した時に大量出血して母が死にかけたこと

2.母の体が悪いのは私を出産したせいだということ

3.母の膝に水が溜まるようになったのは、
幼い私が母の膝の上に乗るのが好きで、
毎日母の膝の上に座っていたからだということ

この言葉は、

私が小学校に上がる前という、

かなり幼い頃から父に言われ続けてきて、

誰にも話すことが出来ずに、

胸のうちに


40年以上


という長い間秘め、

父の死後、

やっと父親からの呪縛を解くように、

母に告げることができた言葉でした。


最初に私が、

父から言われ続けていたこの言葉が、

嘘だったと知ったのは、

2018年12月のことでしたが、

事実を知ったのが、

母と話していた電話口だったたことと、

その時の衝撃があまりに大きかったことから、

私は呆然として、

その時は涙することさえ出来ませんでした。


それからおよそ2年後の、

2020年10月に、

実家で母としていた雑談の中で、

また父が、

私に別な嘘を吐いていたことが発覚し、

私はこの時は、

母が目の前にいたことと、

前回聞いた父の嘘よりは内容が軽かったためか、

怒りの感情が湧き上がり、


「あの人(父)は何でそんな嘘吐くんだろうね?!」


と母に訴え、

今まで堪えていた気持ちが、

堰を切ったように溢れ出してしまい、

私は50歳を手前にした、

大人の女性でありながら、

母の前で子供のように、

泣き出してしまったのでした。


私が最初に父の嘘を知った時には泣かずに、

2回目に知った時に泣いたのは、

嘘の酷さの程度もありますが、

(人はあまりに衝撃が大きいと、

心が麻痺して泣くことさえ出来ないのです)

母が目の前に存在していたかどうか、

も大きかったと思います。


私は幼い頃から、

1人でずっと耐えてきた、


母の体を悪くしたのは自分が産まれてきたせい


だという罪悪感を、

母本人に直接、否定して欲しかったのです。


母は泣く私に何度も、


「お前のせいじゃないよ」


と言ってくれて、

私の母に対する罪悪感は軽くなったものの、

でも、私の気持ちが、

スッキリすることはありませんでした。


なぜなら母は、

父の言葉が嘘だと否定はしてくれたものの、


40年以上という長い間、

父の嘘によって傷付けられた、

私の辛かった気持ち


に寄り添うことは、

してくれなかったからです。



多分、この時、

母の体を悪くした原因が、

自分では無かったという安堵と、

40年以上という長い間苦しんでいた理由が、

父の嘘だったという虚しさで、

感情が溢れかえって泣き続ける私を、

気が済むまで、

母が目の前で泣かしてくれたなら、

私は自分の気持ちを、

これ以上引きずることなく、

前を向いて生きられたのだと思います。


けれど、

40年以上という長い間に、

私の中に溜まってしまった心の澱を、

涙と一緒に出し尽くそうとしていた私に、

母がとった態度は、

存分に私を泣かせて、

甘やかしてくれるようなものではなく、

泣いている私を突き放すようなものでした。


母は泣き続ける私に、

しばらくは付き合ってくれたものの、

私が父から言われた言葉を否定し終わると、


「もう忘れなさい」


と、

私から視線を外し、

打ち切るように言い放ちました。


その態度に、

私は母がこれ以上、

この話を聞きたくないのだという気持ちを、

感じとりました。


この態度は幼い頃、

よく泣く私に対して、

母が取っていた態度と同じだったために、

これ以上私が泣いた場合に、

母との間に起こる出来事は、

予想することが出来ました。


これ以上、泣き続けると、

母の機嫌が悪くなり、

私にキツくあたりだす。


子供の頃の習慣とは怖いものです。


もう大人になった私は、

母の機嫌を悪くしたとしても、

生きていけるはずなのに、

これ以上泣いたら母を怒らせてしまうと、

私はグッと自分の気持ちを抑えて、

涙を飲み込んだのでした。


この時の出来事は、


まだ訴えたいことがあった私の気持ちを、

母からそれ以上話すことを禁じられた


記憶として、

私の心の中に消化不良のままで残っていました。



そのため、

その出来事から1年以上も経った、

2022年の1月に、

この時の出来事を娘の口から聞かされるとは、

思ってもみませんでした。


しかも母の吐いた嘘と一緒に。


何が嘘なのか、といえば。


確かに私は、

母からお金を受け取ったことがあるけれど。


私が母に泣いて父の嘘を訴えたのは2020年10月

母が私にお金を渡したのは2020年8月


だったからです。


しかも、そのお金は、

自分の死後は長男である兄に財産を残すから、

私に残すものがないけれど、

それは私が可哀想だから、

私にこれだけはあげると言って、

渡されたお金でした。


それが、母から私の娘に話した内容だと、


私が父から酷いことを言われて、

可哀想だから渡したお金


にすり替わっていました。


私は先ほど、

母が嘘を吐いたと書きましたが、

私は母が悪意を持って、

娘に対して嘘を吐いたとは思っていません。


私が起きた出来事の日時が分かるのは、

自分がブログを書いていて、

起きた出来事の日時を確認出来るからであり、

もし私が、

母に父の嘘を訴えて泣いたことを、

ブログに書いていなければ、

私も母が私にお金を渡した意図は、

兄にだけ財産を残そうとしていて、

私が可哀想だからではなく、

父が私に対して吐いた嘘に対する、

謝罪の気持ちもあったのだと、

信じたかもしれません。


でも、私はこのブログを書いていたお陰で、

母の発言の矛盾が分かってしまうのです。


ただ母は私と違い、

記憶にしか起きた出来事が残っていないため、

私にお金を渡したことと、

私が父の嘘で泣いていたことは、


どちらも私が可哀想だと感じた出来事


で繋がっていたために、

時間が経つにつれて、

母の中では私にお金を渡した理由が


財産を残してもらえないから可哀想


から、


お父さんに酷いことを言われて可哀想


に移っていったのだと思います。


そして、

このように移っていったと思われる母の思考に、

私の心は大変傷ついたのです。


なぜなら。


慰謝料をあげようと思うほど、

私が父から酷い仕打ちを受けていた


と認めていたにも関わらず、

私にそれ以上の発言をさせなかった母は、


私の辛さを訴える言葉は聞きたくなかった


ということだから。


社会人として定職に就いていて、

お金に困っていない私は、

お金よりも、

母が私の気持ちを聞いてくれることを、

求めていたのに。


子供の頃から、

母の温もりが恋しくて、

布団の温もりを母の代わりにするくらい、

母の愛情に飢えていたのに。


母に愛されるためならば、

自分の身を売れるほど、

母の愛情を欲していた人間だったのに。


私はなぜ、

母が父の嘘で傷ついた私の言葉を、

最後まで聞いてくれず、

そのくせ、

私が父から酷い仕打ちをされたことを気にして、

私が傷ついた代償にお金をあげたなどと、

娘に言ったのか、

理由が分かりませんでした。


もし、

当初、母が私に伝えていたとおり、

財産を残してもらえない私が可哀想で、

私にお金を渡す訳ではなく、

私に対する父の仕打ちに対する慰謝料として、

母が私にお金を渡すと言っていたならば、

私はすんなり受け取らなかったと思います。


慰謝料はお金を渡して終わりではなく、

文字通り、

慰謝の心がついてくるものだと思うから。


私に嘘を吐いたのは父で、

母が私に謝罪する必要は無いけれど、

私が可哀想だからお金を払ったと母が言うなら、

泣いて母に父の嘘を訴えたあの日、

聞いてもらえなくて飲み込んだ言葉を、

母に聞いてもらいたい、

という思いがあったからでした。



でも、私のこの思いは、

叶わないものなのだと後日思い知りました。


そして、その日の出来事は、

私が幼い頃からずっと求めて続けていた、


母の愛を完全に諦める


ことにも繋がることになったのでした。


次で最後のエピソードとなります、、、