私の心にまだ傷つく余地が残っていたとは思いませんでした.3 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

ブログにお越しいただきありがとうございます^^

 

ASD(自閉症スペクトラム)当事者

女係長 鹿島じゅんです。

 

私の発達障害に関する診断結果

コチラです。

 

専門家でも見分けるのは難しいと言われる、

発達障害と愛着障害。

 

自分は本当は発達障害ではなく、

愛着障害なのではないかと思い振り返った、

私の愛着障害に関する生育歴

コチラです。

 

*******************


この記事は、前回の記事の続きになります。


この記事を読んでみようと思ってくださる方は、

よろしければ、

次の記事からお読みください。


私の心にまだ傷つく余地が残っていたとは思いませんでした.1


私の心にまだ傷つく余地が残っていたとは思いませんでした.2



(ここからが前回の記事の続きになります)


前回、母が私の娘に対して、

私が父から、

酷い言葉を言われていて可哀想だったから、


私にお金をあげた


という、

事実を歪曲した嘘を吐いてから、

私は仕事で忙しい時以外、

最低月1回は、

年老いた母の様子を見に行っていた実家に、

顔を出さなくなっていました。


それは母が私の娘に対して、


私の辛かった気持ちは聞いてくれなかったのに、

私を思い遣る心があった


かのように語ったことが、

不快に感じられて、

私の心の中で、

母に対する気持ちが、

上手く消化できなかったからでした。


私にとっては母が、

泣きながら過去の辛かった気持ちを伝える、

私の言葉を遮って、


「もう忘れなさい」


と言った後、

私がもうそれ以上、

言葉を発することが出来ないよう、

聞く耳を持たない態度をとったことが、

本当に哀しかったのです。


そんな母の態度を見ていた私は、

母が私を思い遣ってくれていたと、

感じることは出来ませんでした。


その出来事が起こってから2ヵ月の間、

母に対する、

恨みとでも呼べる感情を抱えていた私は、

そんな自分の状態が辛くて、

何度も、

なぜ母が、

あんな嘘を娘に吐いたのか考え続けて、

ある結論に達しました。


その、ある結論とは、、、


母が私にお金を渡した理由を、

事実と違う形で私の娘に伝えたのは、

母が寂しかったからではないのか


ということでした。



なぜ、私の娘に嘘を吐くことが、

母が寂しかったからに繋がるのか、

疑問に思う方もいるかもしれません。


けれど、物心ついた時には、

父から、

"女の子なら要らない"と言われ、

小学生の時には、

母からは、

お前のことは理解出来ないから放っておく"と、

兄からは、

"お前さえいなければうちの家族は上手くいく"

言われて、

家庭の中で、

不要な存在として育った私は、

誰かに自分の存在を、

認めて欲しくてたまらない、

孤独な子供時代を過ごしました。


そして、

そんな子供時代を過ごした私は、

自分の存在を認めてくれそうな相手に対して、


自分が良いことを行ったり、

上手く出来たことがあると、

相手に褒められようとアピールする


という、

少し鼻持ちならない、

嫌味な言動をとる人間に育っていったのです。


私は母の、

私の娘に対する嘘に、

以前の自分と同じような、

少しの鼻持ちならなさを感じていました。


なにしろ母の言葉は、


「娘(私)が可哀想だからお金をあげた


という上からの発言であり、


まるで自分が善行を行った


かのような物言いだったからです。


母が私に話した、

私にお金を渡した本当の理由は、

自分の死後、

本来は平等に財産分与の権利がある兄妹のうち、

兄を財産の受取人に指定して、

妹(私)には何も残さないからという、

父の私に対する言動とは、

全く関係ない理由だったのに。



それを敢えて、

私と娘が話せば、

すぐにバレるような嘘を吐いてまで、

自分の善行のように娘に語った母の姿が、

寂しさから嘘を吐いてまで、

誰かの関心をひこうとしていた、

過去の自分の姿と、

オーバーラップしたのでした。


私が母の嘘に対して、

結論付けたこれらのことが、

母の心に起こった、

真実かどうかは分かりません。


けれど私は、

母の寂しさを思うことで、

やっと、

母の嘘を許せる気持ちになったのでした。


私が酷いことを父に言われていたと母が認めて、

私に慰謝料を渡したと母が言うのであれば、

今後は母が私に対して、

良い人として父を語ることも無くなるだろうから、

かえって良かったのかもしれない。


母が父との思い出を美化し、

父を良い人のように私に対して語ることに、

苦痛を感じていた私は、

今回の出来事を、

そう前向きに捉え直すことさえ、

出来るようになっていました。


そうして。


自分の、母に対する負の感情を、

やっと昇華することが出来た私は、

2ヵ月以上も訪ねていなかった、

母のところに顔を出そうと考えていた矢先、

母の方から私に電話が掛かってきました。


「元気にしてたか?」


そう尋ねてきた母に、

私は自分がこの2ヵ月間、

母の嘘で苦しんでいたことを隠して、


「うん、元気にしてたよ。

仕事が忙しくて、

なかなかそっちに顔を出せなくてごめんね」


そう答えると、

母は私に対して意外な言葉をぶつけてきました。


「今年は毎年誕生日にきてた電話も来なかったし、

仕事が忙しいんじゃないかと思ってた」


母の、その、

何でも分かっているかのような口調と、

全く見当違いの発言内容に、

私はまた、

言葉を失いました。


母が毎年誕生日にきていた電話といったのは、

私が自分の誕生日に両親に対して、


「生んでくれて、育ててくれてありがとう」


と、

電話していたことを指していました。


母が嘘を吐いた1月から、

母が私に電話をしてきた3月までに、

私の誕生日があったため、

その時に電話が来なかったことを、

母は私の仕事が忙しかったからだと、

思っていたようでした。


でも、事実は違いました。


私はこの習慣を、


3年も前に辞めていました。



私が自分の誕生日に、

両親に感謝の言葉を伝えるようになったのは、

何で自分の人生がこんなに生きづらいのか、

ずっと模索していた中で、

両親との不仲が与える影響の大きさに気付き、

何とか自分の人生を良くしたいと考えて、


「両親との関係を改善するために、

両親に感謝することから始めてみよう」


と、考えたのがキッカケでした。


初めて自分の誕生日に、

両親に感謝を伝えた2011年には、

緊張で手が震え、

吐き気を催すほどでした。


何しろ、その時にはまだ、

私は父から言われた、


お前を産んだせいで母さんは死にかけた


という嘘を信じていた上に、

私が生まれた時に、

女の子だと知った父が、


女の子なら要らない


と言った話は、

父自身が私に語って聞かせた、

事実だったからでした。


そんな、

私が生まれてきたせいで死にかけた母に、

私の誕生を祝っていない父に、

私の誕生日など気にしていない両親に、


自分の誕生について感謝を伝える


ことは、

本当に恐ろしいことだったのです。


それでも、

誕生日に感謝を伝えるという行動を起こしたのは、

それまでの自分の人生が、

本当に生きづらくて仕方なかったからでした。


そんな決死の覚悟で起こした行動も、

数年続けた結果、

電話を受けた母から、


「じゅんの、誕生日のいつもの」


という扱いを受けるようになってしまい、

私は虚しくなって、

電話をするのを辞めてしまったのでした。


この電話を始めるのも辞めるのも、

私は散々悩み、

苦しんで決断したことでしたが、

母には毎年あってもなくても気付かないくらい、

大した重みの無いことだったようでした。


そういえば今まで自分の誕生日に、

親の方から「おめでとう」などと、

自発的に言ってもらったことは無かったな、、、


そんなことを考えた私は、

自分に対する母親の関心の薄さを感じて、

言葉を継げなくなっていたのですが、

そんな私の様子には構わず、

母は更に言い募りました。


「お墓参りに連れていってくれないか」


この言葉でも、

私は少しのダメージを受けました。


私に対して慰謝料が必要な行為をした、

加害者である父のお墓参りに、

慰謝料を払ったあなた(母)が、

被害者の私に連れて行けと頼むんだね。


誕生日の電話の件でも、

お墓参りに連れて行ってと頼んでくる件でも、

私は母親の、

自分に対する配慮のなさを感じて、

悲しくなりましたが、

私の電話口のそんな様子の変化に、

母は全く気付かないようでした。


私は落ち込んでいく自分の気持ちを、


高齢で車を手放した母には、

他にお墓参りを頼める人がいないんだから」


と励まして、

何とか明るく、


「いいよ」


と返事をましたが、

いざ、約束の日に、

母をお墓参りに連れて行く時には、

私はかなり無口になっていました。


そんな私の様子に構わず、

母は墓の前にくると、父に話しかけました。


「じゅんと一緒にきたよ〜」


その言葉に、私はギョッとしました。


私は自分を嘘で傷つけて、

私を40年以上も苦しませてきた父に、

手を合わせにきたつもりは毛頭なく、

ただ母をお墓参りに連れてくる運転手として、

付き添ってきたつもりでしたが、

その母の口調からは、


私が母と一緒に父に手を合わせにきた


と信じて疑わない気持ちが、

感じ取れたからでした。


そして、私はそんな母の様子から、

やはり自分の、

推測による結論は正しかったのだと、

確信しました。


母が私の娘に、

私が可哀想だからお金を渡したと言ったのは、

やはり自分に関心を引きたかったからだよね?


でなければ。

もし、本当に、

私が父の言葉に傷ついたことを慰めようとして、

私にお金を渡したのなら。


私の気持ちも考えずに、

私がお墓にきたことを、

そんな風に、

父に報告出来る訳ないよね?


この時、私の脳裏には、

母の吐いた嘘を娘から聞かされた日から、

口に出来なかった言葉の数々が、

もの凄い勢いで浮かんできていました。


ねぇ、お母さん、

毎年誕生日に電話が来るって言ってたけど、

何でもう辞めたって気付かないの?


ねぇ、お母さん、

今年は私から誕生日に電話が来なかったって言ったけど、

いつから誕生日を迎える人の方が、

感謝を伝えるのが当たり前になったの?


ねぇ、お母さん、

慰謝料払った相手に、加害者の墓参りに連れて行けって、

何で言えるの?


ねぇ、お母さん、

親から慰謝料もらった私が、

何で親と一緒にいて平気だと思ってるの?



ぐるぐるぐるぐる、

頭の中で渦巻いた言葉が、

私の口から発せられることは、

ありませんでした。


ただ、私の気持ちに気付かないまま、

父のお墓参りに来られて喜んでいる母をみて。


何で私は、

父親より自分の方が母親に大切にされると、

思い込んでしまったんだろう?


と、

母の子供であるというだけで、

父より母に愛されていると思っていた、

自分の傲慢な心に気付いて、

泣きたい気分に陥ったのでした、、、