ありがたい反面教師 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

ブログにお越しいただきありがとうございます^^
 
ASD(自閉症スペクトラム)
愛着障害当事者から
"幸せになるための心理セラピスト"
鹿島じゅんです。
 
私の発達障害に関する診断結果
コチラです。
 
私の愛着障害に関する生育歴
コチラです。
 
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私は自分でも残念なことに父親似です。

父親の顔は普通にしていてもとても怖くて、
初見の子供は父の顔を見て泣き出すか、
怖がって近づかないほど怖い顔をしています。

そんな私は生まれたばかりの時、
顔を見にきた父方のおばあちゃんから、

「父親に顔がそっくりだ。じゅんが可哀想だ」

と言われ、
私が女の子だったために不憫に思われ、
泣かれてしまったそうです。
(父親の女の子なら要らない発言の影に隠れて、
今まで見落としてきましたが、
これはれこれで、
生まれた時のエピソードとしては切ないですよねf^_^;)

 


(赤ちゃんの誕生は喜びに包まれていて欲しい)


そんな父と私は外見だけでなく、
性格、好みもとてもよく似ています。


私は1年程前に精神科の病院で検査を受けて、

「ASDの可能性が高い」

父は昔の人なので、
検査こそ受けていないけれど、
そんな所見を精神科医からもらう私よりも、
もっと激し発達障害者の特性を、
持っていた人でした。

そして性格以外では、
母からよく似ていると言われていたのは、
食に関する好みでした。

父と私は好きな食べ物が一緒だったため、
母が私の好物のおかずを、
夕飯のおかずに子供にだけ出してくれると、
それは父の好物でもあったため、
私はよく父親に食事を取られていました。

そして私が好きだったことを、
父親が後から好きになったこともありました。

それが、

絵を描くこと

でした。

私は絵を描くことが、
物心ついた時から好きだったのですが、
父も私が小学校に上がる前に、
胃潰瘍で手術をするために入院した時、
入院患者仲間から、
黒のコンテで絵を描くことを教わって以来、
絵を描くことが好きになりました。

だから普段、
私に話しかけることが無かった父でしたが、
描いていた絵が出来上がった時だけは、

「どうだ、じゅん!」

そう言って、
絵を私の目の前に誇らしげに掲げながら、
父はその時ばかりは、
いつも可愛がっていた兄より私に、
話しかけてきていました。

確かに、 
絵に全く興味が無い兄よりも、
絵を描くことに興味がある私の方が、
描く時にどんなところに苦労したか、
この表現はどうやったかなど、
興味津々で聞いていたため、
父も自慢しがいがあったのだと思います。

父は水墨画の龍の絵の模写もしていたため、
縁起物として親戚から、
描いて欲しいと言われることもあり、
熱心に描いていた時期は、
結構上手かったのではないかと思います。

(まさにこんな感じの絵を描いてました)

けれど。

私が小学校中学年の時に出稼ぎに出た父は、
私が高校を卒業して家を出た後に、
出稼ぎを終えて家に帰ってくるまで、
絵を描くことから離れており。

いざ家に帰ってきて、
いつでも絵を描ける状況になってからも、
父は絵を描くことをしませんでした。

なぜなら、
元々アルコールを飲むのが大好きだった父は、
出稼ぎ先でアルコールを飲みすぎたせいか、
家に帰ってきてからも、
暇があればアルコールを飲むようになってしまい、
アルコールを飲まないと、
手が震えるようになってしまっていたからでした。
(この時、すでにアルコール中毒だったと思われます)

そのため、
絵も上手く描けなくなってしまい、
そんな自分が嫌だったのか、
どんどん絵を描くことから遠ざかり、
父は毎日、
アルコールとパチンコに溺れる日々を、
過ごすようになりました。

それでもやはり、
そんな自分の現状を認めたくは無かったのか、
父は時折、

「絵を描くから用意してくれ」

と母に言い出しては、
画板に紙をセットさせたり、
絵を描くためのコンテを削らすといった作業を、
母にさせていました。
(父は自分で絵を描く時に使う道具をいつも母に用意させ、
自分は全ての用意が終わったら絵を描きだすという、
まるで巨匠のような行動を取っていました)

けれど母に絵を描く用意をさせている間に、
気が変わったと言い出して、
絵を描かずにアルコールを飲み出すことも、
しょっちゅうだったため、
母はいつも

「どうせ描かないくせに」

と文句を言っていました。
(なのにやっぱり用意はしてあげていました)

(自分だけ好き勝手に飲み食いしていた父)

それでも父にも、
何か思うところが有ったのでしょうか?

父は82歳で亡くなったのですが、
亡くなる1、2年ほど前から、
本当にまた、
絵を描くようにようになっていました。

父は私が幼い頃と同じように、
絵が出来上がると、
自慢げに私に見せてくれたのですが、
その出来栄えは、
手が震えて上手く描けないせいなのか、
長い間、精進を怠ったせいなのか、
私が子供の頃に見せてもらった絵とは、
比べものにならない程、
下手な絵になっていました。

私はそんな父の衰えを悲しく思い、

「絵画教室に通っているお前の目から見てどうだ?」

という父の言葉が、
自分の絵の賞賛を求めているのを感じながらも、
嘘の吐けないASDの性格から、
父を喜ばすために、
父の絵を上手だということが出来ずに、
父の絵のダメなところを、
口にしてしまっていました。

そんな私の言葉を聞いて父は、
寂しそうにしていましたが、
やはり私は父に嘘の褒め言葉を言うことが、
出来ませんでした。

でも、そんな父の姿は、
私の心に大きな影響を与えました。

私は仕事が忙しくて頭がフラフラな時でも、
全然、上手くならずに、
先生から褒めてもらえなくて苦しい時でも、
絵画教室に通い続けることを辞めませんでした。

私の心の中には、
"私は父のようにはならない"
という思いがあったからでした。

私は自分の好きな趣味を頑張ることで、
自己有能感が高まり、
発達障害の症状が改善した方のことが、
載っている本を読んでから、


自己有能感を高めるためには、
巨匠のように上手くはなれなくても、
自分が満足いくような、
絵を描けるようにならなければなりません。

そのためには父のように、
上を目指すことを辞めてはダメ

だと、私は思いました。

完全な、自己満足な世界だとしても。

何の努力もしないまま、
人の賞賛だけを求める姿は哀れ

だと、父の姿をみて感じていました。

だから私は現状が辛くても、
思ったような成果が出なくても、

とにかく続けることを目標にしよう

と思いました。

だから、
新型コロナウィルスで絵画教室に通えない今、
自分の脳を変える生き方をするために、
新しく飛び込む世界に、
パソコンで絵を描くことを選んだのです。
きっと、
死ぬその時まで分からないけれど。

あの時やめなければ良かったと、
後悔する人生だけは送らない。

父の姿は私に、
そう決意させてくれたのでした。