devil's haircut
「いらっしゃいませ」
「すみません、今日の閉店は何時になってますか?」
「11時です」と両手の人差し指を堂々と天井に向かって言う彼は、麻布台のイタリア料理店の店長のような存在のように感じた。この店で味わっている最悪のサービスに対して彼一人が、故障している自動車のオイルを点検することに粉骨砕身する修理工のように、店員の甚だしいミスを補おうと精一杯である。とはいえ、
「では、禁煙席をお願いします」
「あ、ちょっと待ってくださいね」と切実に言いながら消え去る店長らしき者の姿。説明も何もなくお客様を待たせることは、後で思い知らされたように、このお店の営業方針だと勘違いしてもおかしくはない。
窓際のテーブルまで案内してもらい、コートを椅子の背凭れにかけてから席に着く。清潔な食卓の上にグラス一本がぽつんと立っていて、その中にテーブルナプキンが詰まってある。それを取り出して膝の上に載せると、献立がないことに気づく。お水もない。当時はまだ気づいていなかったけど、ここのお店ではほかの店舗で当然のサービスを賜る為には一々声をかけなければ始まるまい。お客様はお金を支払い、その代わり食事を提供してもらうというコンセプトはこのお店でも共通していると、楽観的な考え方を抱いていた。油断してしまったのだ。
注文を承って貰わないことが釈然としなかったが、とにかくそのうちは誰かが気づいてくれるだろうと本を取り出し読み始める。十ページが経過しても俺は放置されたままである。店員に声をかけてみるが、誰かが振り向いてくれるまで三人があっさりと俺の前を横切る。
それは、俺の声が小さ過ぎた所為だったかも知れない。とにかく苛立つのがまだ早い。
結局応じてくれたのはあの店長らしい男だった。お水と献立を頼む。注文がすぐに決めたとはいえ、それを店員に伝えられるまで先程と同じように「すみません」を連発しなければいけなかった。
リゾットが運ばれてくるまで時間がかなりかかった。その間お店を観察し、幾つかの瑕疵をキャッチ。お水がない或いは僅かしか残っていないお客様が何人もいるのに無頓着でクーラーに仕舞っているワインの補充をする女性の店員。来店したお客様に「いらっしゃいませ」と声を上げる店長男をまるで聴いていない、黙々と皿を洗い続けるキッチンのスタッフ。なかなか来ないリゾット。
十数分が経つと、女性の店員がドンと地味なリゾットをテーブルの上に置く。とにかくリゾットだと思う。普通は確認の為に品名を言いながら置くべきだと思うけど、このお店にはもう呆れた。更に、好き嫌いは殆どないこの俺でも、今度はまずいもん食らわされたなと思った。言っておくけど、俺はUMASSの食堂で提供されていた怪しげなハンバーガーと平凡なパスターを美味しく食べていた男だ。俺がそのリゾットを不味いと思ったら、ほかの人はどうなるのだろう?
それから男性の店員にデザートの注文を忘れられたりして、18年間といった生涯における最悪のダイニングエクスピリエンスを満喫した。実は憤りのあまりこのお店のとんでもなさについてもっともっと述べたいが、これ以上書くとバイトに遅刻するかも知れないので、今度はこのぐらいで終わりにする。
last siren
12日の真夜中レンタルビデオの所に行って、レジに行ったらあまり見かけない店員さんに一枚のCDと「ハチミツとクローバー」というアニメの最初の2巻のDVDを手渡した。いらっしゃいませとまるで独り言のように聴こえない声で呟き、全く無愛想な奴だと思ったが、次の瞬間にその理由が解った。彼がDVDを手に取って顔の辺りまで持ち上げ、「第一巻」と記されたところを指で指した。「ワン、ツー、OK?」何かを必死に目で訴えながら彼は言った。当時訳が分からなかった俺は「はい?」としか答えられず、彼は困った表情で途方にくれた。「すみませんが、どういうことですか?」と俺が言っても彼は碌な返事をしてくれなかったが、俺がやっと彼の不思議な身振りの意味を解き、「ああ、はい。第一巻と第二巻ですね。はい、間違いありません。」と言った。そのお店でアニメを借りる時誤って違う巻を借りてしまう客が多いか、借りる際に店員がそれを確認するように言われている。しかし謎が解けても、多分に俺が彼の言うことが聴き取れなかったせいで、彼との会話がなかなか成立せずに、ただ何となくDVDを借りる事が出来た。それで俺は更に自分の日本語に自信を喪失してしまった。
今日西洋政治史で先生が試験の工夫について説明した。問はたった一つの論文で、先生がそれを黒板に書き写してから学生の質問に答え始めた。皆の前に質問をする勇気がなかったので授業が終わるまで待ってから先生に訊いた。アメリカでは到底考えられない、事前公開された1問といった試験だと聞いて嬉しかったが、それではテストの前にエッセイを書いてそれを丸暗記することだって可能ではないかと少し混乱した。でも実は全くその通りだと、先生に教えてもらった。そして彼が余計なことを言ってしまった。
「君なら英語でもいいよ」
俺はこれでもう半年ぐらい日本に滞在しているから、特別扱いはされたくないなんて贅沢は言わない。ほかのところはともかく、東京だとそれは当たり前。むしろ手伝って貰わないと困る外国人も少なくはないから、ビデオレンタル屋さんの店員のような人は多分思いやりがあるから、片言の英語でもいいから、俺とより愉快に接客するように努力してくれている。「大きなお世話だ」という気持ちはなくはないが、少なくとも最初日本に来た頃よりそれを分かろうとしている。
しかし、教授に「英語でいいから」と言われたらどうしようもないぐらい無力な気持ちになってしまう。自給800円の店員と違い、あの先生は気持ちだけでなく実力もある。俺は英語で解答したら彼はそれを完璧に解読できるだろうし、英語だとエッセイにおいては自信たっぷりの俺も輝けるし、先生が俺の拙い日本語を読まずに済むことになる。一方日本語にこだわる場合には、今度お節介を焼いているのは俺の方だ。どうせ英語を使うと二人とももっと楽になれるから、意地を張らないで英語で答えるべきだという考え方は決して間違ってはいないだろう。自分の日本語を磨く為に留学に来ていることはともかく、それは歴史の教授とは無関係で、彼の授業を日本語の力試しとして使っては迷惑だ。
すべ
7時に目覚まし時計の役を果たさせている携帯がケツメイシの「夏の思い出」を再生し、俺は素早くベッドから飛び上がり、それを手に取って睡眠を10分ぐらい延長した。睡眠のその最後の10分が愛しくてたまらない。再びベッドに入ってから寝坊して授業に遅れることはあるが、今日は10分後大人しく起き上がり、朝食を食べに階下へ。そこでオカアサンは待っていて、俺が食卓についたら夕べの夕飯の残り物とご飯を運んでくれる。テレビニュースを必死に聴いているような振りをし、黙々と朝ご飯を食べ終え、「ご馳走様でした」とまた階段を登った。シャワーを浴びてもまだ時間が余っていたので、王子駅の近くの喫茶店で香ばしいコーヒーを飲みながら「東京タワー」の続きを読み始めた。とっても面白い本で、これぞ文学と言わんばかりに俺はそれを愛読している。電車に乗って読み続けると、突然笑い出したりニコニコしたりして、周りの乗客に変態だと思われたに違いない。実際はそうかもしれない。
四谷に着いたらexcelsior caféにはしごし、麹町通りを眺める窓際の席でまた読み始めた。
昼頃は何もかもがうまく行っているような気分だったが、先程図書館に向かっていた途中で嫌な予感がした。努力すれば授業は何とかなりそうだし、このまま映画や本を楽しみながら勉強に取り組んでいけば多分上達はするだろうし、本当はそれでいいはずなのに、横目で不気味な雲が低迷しているところが見える。文学に没頭しながらアルバイトのような鍛錬を重ねている今は絶好調のはずなのに、何故か自信がなくて話せない。言いたいことが言えない場合さえある。こんなに急に駄目になってしまって、いったい何があったのだ?
今朝は青空が晴れていたが、図書館の外で天上を見上げたらくすんだ灰色だけが見え、風が強い。嵐が来るような予感がした。
粉雪 by レミオロメン
粉雪舞う季節はいつもすれ違い
人混みに紛れても同じ空見てるのに
風に吹かれて 似たように凍えるのに
僕は君の全てなど知ってはいないだろう
それでも一億人から君を見つけたよ
根拠はないけど 本気で思ってるんだ
些細な言い合いもなくて 同じ時間を生きてなどいけない
素直になれないなら 喜びも悲しみも虚しいだけ
粉雪 ねえ 心まで白く染められたなら
二人の孤独を分け合う事が出来たのかい
僕は君の心に耳を押し当てて
その声のする方へそっと深くまで
下りてゆきたい そこでもう一度会おう
分かり合いたいなんて 上辺を撫でていたのは僕の方
君のかじんだ手も 握りしめることだけで繋がってたのに
粉雪 ねえ 永遠を前にあまりに脆く
ざらつくアスファルトの上シミになってゆくよ
粉雪 ねえ 時に頼りなく心は揺れる
それでも僕は君のこと守り続けたい
粉雪 ねえ 心まで白く染められたなら
二人の孤独を包んで空に返すから
交番
アルバイトがないと毎日がお休みみたいだな。
あっ、いや、勘違いしないでくださいよ。ちゃんと授業に行きましたよ。
昨日徹夜してきたので結構きつかったけど、今日の授業はなんとか無事で終了した。新しい本を読み始めたし、映画を観る時間も作った。今夜から漢検に向けて受験勉強を再開するから、レポートを書いてから参考書にでも目を通して、そしてやっと眠れる。でも、その前は散歩がてらビデオレンタル屋さんに寄ってこよう。
ちなみにホストファミリーとの関係が更に悪化している一方だ。俺はただただ夕飯に顔を出し、飯を食うのみ。どうせ別れるんだったら、無理に笑顔を作ったって意味ないだろう。とにかく日曜日までは我慢、我慢。

