(これは2012年に旅したアフリカ旅行記の抜粋です。)



こんにちは、自由な母いとまきです。



今日はチャド共和国の話を。


ここ↓



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それは4−5年も前の情報だった。


カメルーンの首都ヤンウデにある日本大使館にある情報ノート(※1)に、チャドから戻って来た青年の走り書きがあった。




そこには、首都ンジャメナの簡単な地図とともに、

たまたま教会内にある安宿を見つけた事、

二人の日本人女性がいたことが書かれていた。






しかし、その後その事に関する情報の追記も更新もなかった。


さまざまな旅行者ブログを見ても、その事を示唆する情報はどこにもなかった。


情報はあまりに少なく、今も使える情報とはほとんど思えなかった。ただ貴重な安宿情報と、念のためメモをしておいた。






そもそも中部アフリカを旅行する人は少ない。

ヤンウデの情報ノートの書き込みの最新日付は2ヶ月も前(!)のものだったけれど、

それ以降私たちの訪問まで旅行者が来ていないというのは確かだろう。




ヤンウデを訪れる旅行者たちは、アフリカ西側諸国から来てここを経由して、そのまま南下してガボンに向かうことが多い。


もしくはその逆のルートをたどる。必然的に集まる情報は西のナイジェリアやブルキナファソあたりやガボン、コンゴ情報となる。



チャドの情報が全くない訳ではない。しかしそれをもたらす旅行者のルートは、チャドにも中央アフリカにも立ち寄っておきたい人たちが、ヤンウデから少し足を伸ばしてチャドの南端を少しかすめていくというもので、

かなりの北上を余儀なくされる首都ンジャメナに行く人は皆無に近い。そして、ンジャメナからヤンウデに戻ってくる人はさらに少ないというのが、


4−5年経っても更新されない情報の背景なのだ。



そんななか、私たちはンジャメナからほど近いチャド湖を訪れるために、北上ルートを取ってンジャメナを目指した。





ヤンウデからンジャメナまでの道のりは、長く、相変わらず大変な道のりだった。


冷房のない蒸し暑さ満点の夜行電車で1日北上し(まじゲンナリ)、そこからボロバスにかけこんで一日移動し、さらに翌日に半日悪路を移動という計3日がかりの行程だった。




冷房なんてない電車の夜は寝苦しく、バスの移動はほとんどぶっ通しでひもじい思いをし、ついた先の街から四駆で移動したのにそれでも凸凹の道は体を疲労させた。



ようやくたどり着いた国境から、ンジャメナの中心までは車で15分ほどの距離。バイクタクシーに乗り換えてともかく、青年が書いたその幻?の教会の宿を目指す事にした。



アフリカで車に乗る時、相手が行き先を理解もしくは知っている事は少ない。たとえ運転手のミスで間違った道で大きく迂回することになっても、料金を増額請求されるだけなので、こちらがよく地図を見ながら指示して進まなければならない。とはいえ、頼りになるのはLonery planetの小さな地図と青年が書いた走り書き地図だけだった。


わずかに覚えた「右」「左」「まっすぐ」「ここ」、たどたどしいフランス語で指示をだしていく。


走り書きにはスタジアムの近くと書いてあった。それらしきエリアに到着した。が、その先がよくわからない。勘のいい相方がさらに指示をだして進む。すると教会を発見した。でも人がいない。教会の向かいの建物に人影があったので、相方がバイクを止めて聞きに走った。



待つ。



相方はなかなか戻ってこない。バイクタクシーのお兄ちゃん(運転手)らは、飽きて来たのか「まだか」というような事を聞いてくる。待っているんだから、プラスで払ってよね、というようなこともしゃべり始めた。言ってる事がわからないふりをして「日本人だよ、東京から来たんだよ」とごまかす。



さらに待つ。。



アフリカのど真ん中というような国で、女子一人、二人の現地人のおにいちゃんと佇む。。。


もしこの瞬間、相方になにかあったら、私は、チャドから一人で帰れるのか、そのときはまず何からするべきか、、あぁカメルーン大使館の人(日本大使館)に電話しよう、とかのんきに考えてたと思う。すでにこの頃はアフリカにも慣れてきてたからね。常に「万が一」のシチュエーションを想像してた気がする。




30分はゆうに待っただろうか。ようやく相方が戻って来た。宿の情報は得られたのだろうか?


すると「ここでいい。」という。



ともかく、もっともっとと騒ぐお兄ちゃんらに最初に約束した金額を握らせて、相方の後を追った。



何に時間がかかったのだろう?宿はどこなのだろう??



「ここが宿や。あってた。」



最初に話しかけた人は英語が通じなかった事。その後出て来た人(宿泊者)の話で、ここが宿である事が確認できた事。でも、満室で困ったといわれたこと。その後、誰かが部屋を移動してくれて幸運にも一部屋空いた事。



よかった。。。。




宿探しはいつもドキドキする。(まぁ宿探しに限った事ではないけれど。。。)よほど大きなヨーロッパ系列のホテルでないかぎり、そして安宿になればなるほど、看板もなければ、街の人も知らなかったりして、見つけ出す事は困難になる。さらに、(たいていはめんどくさいからという理由でガーン)、満室だと断られて来た事もしばしばあった。なので、一件目で宿が確保できたのは本当にありがたかった。



しばらくすると初老の白人のご婦人が出て来て、宿の説明をしてくれた。その人が、宿の責任者シスター・マジェラだった。そしてこう言った。






「日本人のシスターがいます。すぐに来ると思うわ。」



続く