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それもまた良し

関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

不景気です。

僕の勤める会社も、不景気です。
売上が上がっていません。

こんな時に、


松下幸之助氏が「好況よし、不況なお良し」と言っていたから、この不況をチャンスに思え!


と激動している経営者の皆さん。
自分自身を鼓舞しているビジネスマンの皆さん。

松下幸之助氏の著作をちゃんと読みましたか?
氏は実践経営哲学の「必ず成功すると考えること」で、こう言っています。



好況の時と違って、不景気の時は経営にしろ、製品にしろ、需要者、また社会から厳しく吟味される。本当に良いものだけが買われるようになる。だから、それにふさわしい立派な経営をやっている企業にとっては、不景気はむしろ発展のチャンスだとも言える。「好景気よし、不景気さらによし」である。



恐らく、松下幸之助氏は今までの著作からして「不況でした、売れませんでした、売上が上がりませんでした、在庫が溜まりました、だから利益が出ず赤字でした」なんて言い訳は通用しないでしょう。

好景気で売上を伸ばすなんて、当り前なんです。
財布のひもが緩い。多少、難があっても製品は売れる。

しかし不況で、不景気で、財布の紐が固い時。
それでも売れる製品を考えることこそ、経営者にとって必要ではないでしょうか。

不況なお良し、というのは、まともな経営をやっている経営者にとって、不況こそ自身のビジネスの有意性、堅牢性を確認するチャンスなんだ、難のある製品を市場から駆逐し顧客に優良製品を届けるチャンスなんだ。

そういう意味ではないでしょうか。



今、世間で伝えられている「不況こそチャンス」というのは、どういう意味なんでしょうか。
他人のパイを奪う―そういう意味でチャンスなのだとしたら、少し卑しくないでしょうか。

不況はパイが委縮し、縮小しようとしている時です。
そんな時こそ、自分がパイを大きくしようと努力するべきなのではないでしょうか。


確かに辛い時、苦しい時、その原因を他人のせいにしたくなります。
そして楽しい時、愉快な時、その切っ掛けは自分だと思いたくなります。


逆にしませんか。


辛い時、苦しい時、その原因は自分にある。
そう考えれば、原因は自分が作ったのだから、必ず自分で解決出来ると思えます。

逆に、楽しい時、愉快な時、その切っ掛けは他人様にある。
そう考えれば、切っ掛けは他人様にあるのだから、色んな人に感謝しながら人生を過ごすことが出来ると思います。



不況で社会が委縮している。
そんな時こそ、チャンスだ。

それは、誰にとってのチャンスなのでしょうか。
自分だけのチャンスならば、きっと好況になってしまえば、チャンスなんて無くなってしまうのではないでしょうか。

不況は、苦しい時です。
それは社会が苦しみ、会社が苦しみ、何より人間が苦しんでいる時です。


そんな時こそ、人々の苦しみを和らげるチャンスだ!
企業理念に則って、社会に利益を還元し、人々を喜ばせるチャンスだ!



産業人の使命を謳った松下幸之助氏の「不況なお良し」って、もしかしたら、そういう意味もあったのかもしれませんね。


今日は久しぶりにSEらしい仕事をし続けました。

要件定義~基本設計。
1週間5日40時間、こういう仕事をし続けたものです。

仕事をするってことは、結果を出すということで、数時間の間に「成果物」という仕事の結果を出し続けることは、なかなか気持ち良いです。
ホームランを3打席連続で出し続けるようなものです。



ただ、1つだけ気になる点がありました。

後輩が「仕事が上手くいかない」ということで相談に来たのですが、どうも「相談」の内容がシックリ来ない。
何がシックリ来ないのかなぁ、と考えたら「後輩はじっくり考えて相談したのか?」という点でした。

2時間ほど仕事をしながら「本当に後輩はじっくり考えたのか?」について吟味しました。
相談内容はこうです。



後輩は、ある仕事を進めていました。
その仕事内容は、僕の同期が1度済ませたもので、後輩はそれと似たようなことをしていました。

またあるクラスを同期が書いて、それをエクステンドしたものを後輩が書いた……みたいなもんです。
営業で言えば、新規訪問で同期がある会社に何度も通い詰めて、結果太いパイプを築いた後、後輩がその会社に初めて足を踏み入れた……ようなもんでしょうか。


で、後輩が聞くわけです。

「先輩はこういう風に、コードを書いている。でも、これって間違っていませんか?」

それだけを聞くと平凡な相談かもしれませんが(だから僕も2時間も吟味しました)、それはクラスの名前がstatusFlagと書くべきなのにStatusFlagと書いているようなもの、会社への訪問の仕方が地下鉄A駅から徒歩10分と書くべきなのに徒歩5分と書いているようなもの。

「うーん、せやな。それは言ってること正しいな。修正しといてや、悪いな。ありがとう」

と僕は答えました。



その時は、それで済ませたのですが、その後輩は何でも直ぐに相談する「癖」を持っていて、見方を変えれば「自分の頭で考えていない」ようにも見えました。
つまり考えて仕事をしていない、言われるだけをしている―そんな見方をされていました。


よく考えれば、質問内容も少し考えれば解るような話なので、該当箇所を修正し、連絡してくれれば済む話です。それで僕も「あぁ、そうか」で済みます。

報告、連絡、相談、これは使い方によってケースバイケースで、物事の優先順位を立てながら、これらを使い分けて仕事をすることが大切だと言われています。



では、後輩はこのホウレンソウが出来ているか? そう考えた時に、2時間考え抜いて、NOという判断を下しました。おそらく彼はそれが出来ていない、自分が躓いたら誰かが手を差し伸べてくれる、そんな横着した考えを持っているのではないか―。
僕はそう判断して、仕事の合間に後輩に話し掛けました。

「さっきの話やねんけどさ、俺に相談する前に、同期に相談した?」
「あ、いや、してません」
「そっかぁ。で、何でせぇへんかったん?」
「え、いや―」
「もしかしたら、俺は相談を受けても答えがわからへんかったかもしれへんで。あの時、誰に相談するのがベストやったか考えたかな?」
「あ、それは……」
「もしかしたら、あの時は同期に相談する方が先決やったかもしれへんねぇ」
「あ、そうですね……」

話は、ここで終わると思っていました。
しかし後輩が最後に言った言葉に、頭をガチンと殴られました。

「すいません、確認したつもりだったんです」



確認。



仕事を進める上で、報告、連絡、相談以外に大切な礼儀作法。

相手に「間違いがないか」同意する。
そして仕事を進める。


はっ、としました。
僕は思わず、

「あっ、そうか……ごめんな、そうやったな。悪かった」

と言いました。
僕の勘違いミスです。

情けないですねぇ。
でも、得ることがありました。良かったです。

仕事を確実に進める方法を、また1つ見つけたのですから。
昨日書いたブログを読んで、あぁ自分らしくないな、と思いました。
まるで心の中に阿修羅がいるかのように、怒りに任せて書いたような内容です。

阿修羅とは、興福寺宝物殿の解説によるとインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』だそうです。
まぁ、教典によっては位置付けは違うようですが、だいたい、

■阿修羅はもともと天の神
■帝釈天に戦いを挑み、常に負ける存在
■戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった
■阿修羅の教えとして『たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪になる』

この4点ですね。


それもまた良し-阿修羅

興福寺の阿修羅像。


そもそも、阿修羅を意訳すると「非天」というそうですが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義だそうです。

神様みたいな優れた奴だけど、決して神様でも無いし、神様に成れない存在。
優れたマネージャーだけど、決してリーダーでも無いし、役員に成れない存在―みたいなもんでしょうか。



一昔、良く会社の同僚から、

「お前の言っていることは正しい。けど、世の中は正しいことだけで動いていない」

と聞かされました。
その時は反発心を持って「正しいことで動かない世の中は間違ってる」と思っていましたし、そんな自分のアイデンティティを確保するためにも、クロネコヤマトの宅急便で運輸省と戦争した、小倉昌男さんの「経営学」は何度も目を通しました。

しかし、最近になって、それは阿修羅なんだと解ってきました。



正義とは、まず誰にとっての正義なのか。
自分だけなのか、相手だけなのか、或いは両方にとっての正義なのか。

過去の戦争―今のパレスチナ紛争を見てもそうですが―は、何れも正義と正義のぶつかり合いだったと僕は思います。自分が正しく、相手が間違っている、だからこそ言うことを聞かない相手を打ち負かすために戦争という手段に打って出る訳です。

会社だって、そうですよね。
パイの奪い合いをして、競合他社の悪口を言いながら自社製品を推し進める、或いは競合他社よりも低い単価で自社製品を有利に立たせる。これだって人を殺しはしないでしょうが、会社を殺しかねない「戦争」です。


お互いがお互いの正義を主張しあい、それに固執する。
つまり、正義に執着心を持つあまりに、正義を思う心を無くしてしまい、正義を単純化してしまい、それが悪になってしまう。

例えばA社にZという製品があって、競合他社としてB社が出すYやC社が出すXがある。
僕が仮にZという製品が好きで、それを一生懸命お客様に売ろうとします。

Zという製品が好きで、もうこれが絶対で、むしろ他のYやXが邪魔に思えてしまう。
Zという製品は優れているけど、XやYにだってそれぞれ特徴はある。だから企業や人に合う・合わないがあるのに、Zは普遍的で誰からも愛され、まるでディズニーランドのような存在だ―僕が勝手にそう思い込んでしまったら、どうでしょうか?

YやXから学ぼうとしない。
Zだけが素晴らしく、Zだけが優れているとして、そこから「進化」も「進歩」もしない。

そうなると、その固執が自分自身にとっても、組織にとっても、Zにとっても悪になってしまう。



有名な話ですが、阿修羅と帝釈天が戦の最中に、帝釈天がアリの行群を見つけて、蟻を踏み殺さぬように全軍をSTOPさせたという逸話があります。
それを阿修羅は何かの作戦と思い込み、イケイケだったのに撤退してしまい、そこから阿修羅の凋落が始まるとなっています。

これが、アリではなく、たまたま戦場を通りかかってしまった商人の行群だと考えたとき、帝釈天が「阿修羅を倒し滅ぼす」という正義だけでなく、「無慈悲な殺生をしない」という正義もまた持っていたと考えることは出来ないでしょうか。

正義に固執せず、どこか自分を冷静な目で見ていた。
そんな帝釈天だからこそ、蟻を踏み殺すことは無かった。

それはある意味で自分に固執せず、自分だけが振り回す正義に固執せず、今のままが良い、あいつだけは許せないと嫉妬し続けることの醜さが、ここに込められているように思います。

もし帝釈天が逃げたい一心だったら、蟻は殺していたでしょう。
正義が、関係のないモノすら殺す―。

何と醜いことか。



そんなエピソードだと思うのです。



自分自身に、それが出来るか解りません。
むしろ昨日のように取り乱してしまうのだとしたら、まだまだです。

どうすれば心に阿修羅を棲まわさずに済むのか。
結局、赦し、しか無いと思うのです。


相手を赦し、自分を許す。
自分に固執しない、相手の意見を素直に聞き入れる心を持つこと。

それが、阿修羅が心に棲まない理由だと思うんです。



松下幸之助じゃないんですが、自分とは違う意見を聞いて、
「それもまた良し」
と構える姿勢が大切なのではないでしょうか。

世の中、自分を中心に回っていないことは、世の中を生きる99%の人間が知っている筈です。
だからこそ、世の中の99%の人間は、せめて自分の目に見える範囲ぐらいは、自分を中心に回したい。

そう思うのも、当然です。
それを堪えて、相手を許容する姿勢―「その意見良し、悪くても良し」と思わないといけないな。

そう思う、この頃です。
今日も定時帰社。
遅くまで仕事している人を傍目に、帰ります。

いつも、
「お先失礼します。お疲れします」
と言って帰るんですが、あまり誰も「お疲れ様です」って言わないんだな。

なんだよこいつ、先に帰りやがってと思っている人がいるのだとしたら悲しいです。
残業が常態化しているウチの会社なのですが、決められた時間(8時間)の枠内で決められた仕事(上長からの指示で与えられた仕事)をこなすことは当たり前です。

決められた枠内をオーバーするということは、仕事の量が多いということであり、それは上長の責任。
もし本人に仕事をこなすことが出来ないのだとしたら、それも上長の責任。

決められた枠内に収まるように、仕事を与えた人を見守り、時には実践して見せてやらないといけないから。


そう思って、たまに他の同僚や上長に言うのですが、凄く怪訝な顔をされます。

「いや、時間内に仕事を終えない俺が悪いんや」
「8時間以内に終わる仕事の量じゃないから」

と言うのだったら、まだ良いのですが、

「これぐらいしないと成長しない」
「仕事は質だけでなく、量でも決まる」

と言って憚らない人がいて凄く困っています。
その割には会社の利益は上がらないし、何だったら赤字事業部はあるもんですから、

「どれだけ成長のためと言って仕事をしても、赤字なんだから、残業自体、害悪だよ」

と言ってしまうのですが、まぁ、そういう性格が幸いして、社内では嫌われ者です。
理解者は4人か5人ぐらいでしょうか。



だからなのですが、僕自身は凄くベンチャー企業が嫌いなのです。
(じゃあ、なぜベンチャー企業で働くのか、という突っ込みは無しにして下さい)

仕事で成長しよう! という雰囲気や考え方そのものに、一種の嫌悪感を感じてしまう。


確かに仕事は、自分を成長させるものだと思うですが、仕事が全てではありません。
他のツールでも自分を成長させることは出来るし、逆に成長した自分を仕事に落とし込むことが出来る。

つまり、僕にとっての仕事は「すること」なのではなく、あくまで「結果を出す場所」でしか無い。
「確かに仕事は、自分を成長させる」と書いたのは、RPGで言えば結果を出した対価として経験値を得ているから、それをもって成長はする、という意味です。

しかしRPGでも敵に敗れれたり、敵から逃げたりすれば、経験値は得られませんし、龍が如くのような経験値を得て、その経験値を「自分の能力に注入しなければ成長出来ない」場合もあると思います。

なので仕事で成長出来る、とは一概に言えないはずなんです。
それを知ってか知らずか口にしている経営者―ベンチャー企業に多いのですが―は、どうも従業員を消しゴムかライターのように消耗品扱いしている気がするんですよね……。


じゃあ、仕事って何? と言われたら、やはり結果を残すフィールドです、としか言いようがない。
そして「結果」と言えば、それは「売上」であり、「市場に対する影響」「顧客満足度」だと思います。

いわゆる、近江商人の三方よし、ですね。
会社良し、取引先企業良し、世間良し。

さらに会社に落とし込んで言えば、自分良し(労働者)、会社良し(資本。使用者じゃないよん)、雰囲気良し、になると思います。

まず自分が満足して働けて、それを会社の良い結果に繋げ、その相乗効果で雰囲気が良くなる。
そこで初めて本当の意味で、「会社良し」となる。



そういう意味で、ある意味、仕事で自分を成長するって言うのは、会社にとっても失礼ですし、自分も勿体ないと思うんですよね。上にも書きましたが。

それだけじゃないです。
仕事から学ぶことはあるかもしれない、しかしその「仕事から学べること」って言うのは、あくまで自分―会社―雰囲気の三方でしか活きない訳です。

言い方を悪くすれば、普遍的で無い、一部でしか使えない労働力に尽くすことにしか他ならない。
まるで地元商店街でしか使えない500円券を獲得するために労働しているようなもんではないでしょうか。


もし、このブログを読んでいる人で「いや労働というものは普遍的なものだから、A社で働いて得た労働力を全てB社で活かせることが出来る!!」と思うのだったら、まず今働いている会社を退職してすぐに転職して、証明して欲しいと思っています。

ま、物事の立証責任は全て起案者にありますから、これを証明するのは僕ですね(笑)。
どうやって証明しましょう。

なかなか転職できないことを証明?
それじゃあ、ダメ人間の証明になってしまいますね(笑)。



結局、自分が成長するために、どうしたら良いか?を突き詰めると、24時間365日成長を考えるしか無い。
月が満月であり続けるために、満月であり続ける方法を考えること。
それしかないです。

(禅問答みたいですが)

会社だけで成長なんて勿体ない。
自宅でも資格勉強や実習など、色々出来る筈です。

そして、それこそ「A社で働いて得た労働力を全てB社で活かせる」ための時間だと思います。
普遍的な労働力であり、ある意味では「ナンバー1」「オンリー1」になるための実習、でしょうか。

これを会社で活かす。
結果を残す。
経験値を得る。
より深い普遍的な労働力や、先進性のある実習を行う。
会社で活かす。
結果を残す。

この繰り返しが、大切かな、と最近は思っています。



もっとも、これが出来れば苦労はしないと思います。
月は基本的には月です。丸いです。真ん丸です。

ではなぜ、欠けるのか。
地球が回っているからであり、太陽が照らしているからですよね。

満月であり続けるためには地球の回転に合わせて、太陽の光を浴び続けなければいけないからです。
並大抵の苦労では出来ません。

というか、これを実際に月がやろうとしたら、自然界の法則に反すると思います。



だから、結局、言いたかったことは、永遠の満月なんて存在しない、ということなんです。

光を浴びない時もある、地球の回転に付いていけない時もある。
それでも月は満ちたり欠けたりするものなんですよ。

やるという心掛け、熱い情熱で自分という月を照らして下さい。
しかし上手く行かない時もあります。

その時に遮二無二頑張って結果が出ない時もあると思います。
それは、しゃあーない。それも、また良しです。



……あ。
だからと言って、前半にいった部分を諦める。

そういう人も、僕は嫌いです。
幸之助論やリーダーシップ論で有名なジョン・P・コッターの本を2冊立て続けに読んでいます。

『幸之助論』と『企業変革力』。いずれもリーダーシップやマネジメントに関する本であり、共通する議題は、『企業が変革の必要に迫られた時、誰が何をするべきか?』ということだと思います。



変革の必要性に迫られない企業は無いでしょうし、変わらない会社は存在しないと思うのですが、じゃあ、自分自身に照らし合わせてみて、自分の所属する組織に変革は必要か?と問われると、

「必要だと思うけど、必要なことはやっている」

という答えが、なぜか必ず返って来る。何がどれくらい必要で、また今現在、どれくらい必要なことをやっているのかと突っ込むと、決まって、

「それを知って、どうするのか?」

と不機嫌な顔をされます。



小泉改革もそうでしたが、自分には関係の無い「変革」は賛成で、自分に及ぶと、今までの無意識な「賛成」に慣れてしまったのか、危機感の無さを露呈する―派遣法の製造業解禁も、その一環だと思っています。

危機感を持つということ―それは目に見えない恐怖に怯える9.11テロ直後のアメリカではなく、目に見える危機を捉えてそれを根絶する気力を持つこと、それが大切なのではないでしょうか。

数字で目に見える範囲で言えば―
利益率が低い。
利益が前年に比較して下がっている。
売上が下がっている。

人の心の目で見える範囲で言えば―
従業員のモチベーションが下がっている。
従業員の顔が疲れている。


これを瞬時に見付けて、「これはいかん!」と思い、これと対峙する。
大切なことだけど、なぜか出来ない。

雨が降ったから、傘を指すようなものなのに。
……あ、松下幸之助氏の受け入りです。w



最近、松下幸之助の考えに触れて、
「もし松下幸之助氏だったら、この状況をどうするだろうか」
と考えます。

勤めている会社も違うし、職種も違うけれど、彼の考え方は基本的には不変で、不偏なもの。
だから自分の環境に当て嵌めた時、どうか?と考えられる。



この前も、
「君の言っていることは正しい。けど、君はまだ2年目や」
と言われました。

その時は、
「何ぃ? 2年目や3年目という理由だけで提案が却下されるんやったら、いったい何年目になったら発言権を得られるようになるんや。この世の中、正しいことだけでは罷り通らないかもしれへん。しかし、正論の通らない世の中は、いつの間にかシガラミばかりになって、必ず崩壊してしまうやろ!」

と思ったのですが、松下幸之助の本を読み返して、

「2年目、ということは、俺の言ったことが本当に実現出来るか出来ないかは抜きにして、その改革に責任が負えるか、ということを言いたかったに違いない。言うことは簡単や、けど実現する、実行するということに関しては別。つまり先輩が言いたかったことは、責任を持て、と言いたかったのかもしれん……やはり、正しいことをしたかったら偉くならないといかん。発言の自由は、実行の責任を伴う。せやから、偉くなる必要がある」

と痛感したものです。


心の中の師匠、松下幸之助氏。
生きておられたら、聞きたかった。

「企業が変革の必要に迫られた時、誰が何をするべきか?」

もしかしたら、こう言うかもしれませんね。

「そんなもん、各役職には各役割があるんや。各人が各人の責任に基づいて、各人の仕事をしていたら、問題なんてあらへん。当り前のことをするだけやがな」