まるで心の中に阿修羅がいるかのように、怒りに任せて書いたような内容です。
阿修羅とは、興福寺宝物殿の解説によるとインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』だそうです。
まぁ、教典によっては位置付けは違うようですが、だいたい、
■阿修羅はもともと天の神
■帝釈天に戦いを挑み、常に負ける存在
■戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった
■阿修羅の教えとして『たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪になる』
この4点ですね。

興福寺の阿修羅像。
そもそも、阿修羅を意訳すると「非天」というそうですが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義だそうです。
神様みたいな優れた奴だけど、決して神様でも無いし、神様に成れない存在。
優れたマネージャーだけど、決してリーダーでも無いし、役員に成れない存在―みたいなもんでしょうか。
一昔、良く会社の同僚から、
「お前の言っていることは正しい。けど、世の中は正しいことだけで動いていない」
と聞かされました。
その時は反発心を持って「正しいことで動かない世の中は間違ってる」と思っていましたし、そんな自分のアイデンティティを確保するためにも、クロネコヤマトの宅急便で運輸省と戦争した、小倉昌男さんの「経営学」は何度も目を通しました。
しかし、最近になって、それは阿修羅なんだと解ってきました。
正義とは、まず誰にとっての正義なのか。
自分だけなのか、相手だけなのか、或いは両方にとっての正義なのか。
過去の戦争―今のパレスチナ紛争を見てもそうですが―は、何れも正義と正義のぶつかり合いだったと僕は思います。自分が正しく、相手が間違っている、だからこそ言うことを聞かない相手を打ち負かすために戦争という手段に打って出る訳です。
会社だって、そうですよね。
パイの奪い合いをして、競合他社の悪口を言いながら自社製品を推し進める、或いは競合他社よりも低い単価で自社製品を有利に立たせる。これだって人を殺しはしないでしょうが、会社を殺しかねない「戦争」です。
お互いがお互いの正義を主張しあい、それに固執する。
つまり、正義に執着心を持つあまりに、正義を思う心を無くしてしまい、正義を単純化してしまい、それが悪になってしまう。
例えばA社にZという製品があって、競合他社としてB社が出すYやC社が出すXがある。
僕が仮にZという製品が好きで、それを一生懸命お客様に売ろうとします。
Zという製品が好きで、もうこれが絶対で、むしろ他のYやXが邪魔に思えてしまう。
Zという製品は優れているけど、XやYにだってそれぞれ特徴はある。だから企業や人に合う・合わないがあるのに、Zは普遍的で誰からも愛され、まるでディズニーランドのような存在だ―僕が勝手にそう思い込んでしまったら、どうでしょうか?
YやXから学ぼうとしない。
Zだけが素晴らしく、Zだけが優れているとして、そこから「進化」も「進歩」もしない。
そうなると、その固執が自分自身にとっても、組織にとっても、Zにとっても悪になってしまう。
有名な話ですが、阿修羅と帝釈天が戦の最中に、帝釈天がアリの行群を見つけて、蟻を踏み殺さぬように全軍をSTOPさせたという逸話があります。
それを阿修羅は何かの作戦と思い込み、イケイケだったのに撤退してしまい、そこから阿修羅の凋落が始まるとなっています。
これが、アリではなく、たまたま戦場を通りかかってしまった商人の行群だと考えたとき、帝釈天が「阿修羅を倒し滅ぼす」という正義だけでなく、「無慈悲な殺生をしない」という正義もまた持っていたと考えることは出来ないでしょうか。
正義に固執せず、どこか自分を冷静な目で見ていた。
そんな帝釈天だからこそ、蟻を踏み殺すことは無かった。
それはある意味で自分に固執せず、自分だけが振り回す正義に固執せず、今のままが良い、あいつだけは許せないと嫉妬し続けることの醜さが、ここに込められているように思います。
もし帝釈天が逃げたい一心だったら、蟻は殺していたでしょう。
正義が、関係のないモノすら殺す―。
何と醜いことか。
そんなエピソードだと思うのです。
自分自身に、それが出来るか解りません。
むしろ昨日のように取り乱してしまうのだとしたら、まだまだです。
どうすれば心に阿修羅を棲まわさずに済むのか。
結局、赦し、しか無いと思うのです。
相手を赦し、自分を許す。
自分に固執しない、相手の意見を素直に聞き入れる心を持つこと。
それが、阿修羅が心に棲まない理由だと思うんです。
松下幸之助じゃないんですが、自分とは違う意見を聞いて、
「それもまた良し」
と構える姿勢が大切なのではないでしょうか。
世の中、自分を中心に回っていないことは、世の中を生きる99%の人間が知っている筈です。
だからこそ、世の中の99%の人間は、せめて自分の目に見える範囲ぐらいは、自分を中心に回したい。
そう思うのも、当然です。
それを堪えて、相手を許容する姿勢―「その意見良し、悪くても良し」と思わないといけないな。
そう思う、この頃です。