吉田松陰が松下村塾で教えた日本の立場,日本の危機、
アジアと西洋の関係は弟子たちに受け継がれ、
それは討幕へと移行していく。
しかし長州の勤皇の志士たちがいくら徳川幕府を
倒そうとしても簡単ではないが、藩を上げて討幕へ向かう
こととなったのには歴史的背景があった。
それは天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍の総大将になり
負けた毛利元就は徳川幕府により大幅に領地を縮小された。
恨みは300年の時を経て幕末に藩主および部下の侍たちの
かたき討ち的な精神を形成したらしい。
さらに坂本竜馬の仲立ちにより薩長同盟が成立するが、
薩摩も関ヶ原で西軍で負けたほうである。
薩摩の負け方は歴史に残る快挙であった。
家康軍のど真ん中をキリでもむように突破して
逃げたのである。
これには家康も驚き感心したという。
300年もたっても西軍、東軍の関係は幕末まで何かと
影響したということは、日本の一家、一族の関係の深さであろう。
延々と恨みが語り継がれたということで恐ろしくもある。
伊井大老により処刑される時に
吉田松陰は辞世の句を残した。
(伊井家も東軍であった。)
身はたとひ、
武蔵野の野辺に朽ちぬとも、
留めおかまし大和魂。
実にこの言葉が時空を超えて
昭和の大戦まで影響を与えたものであると
私は思うのである。
吉田松陰にとっては徳川幕府だの長州だのの世界観から
世界に飛び出していた。
ただ徳川幕府では日本は守れないと思っていた。
天皇をいただきそ、日本を守るという勤皇の志士たちが
長州を中心に拡大していった。
伊藤博文達など早くから世界に旅行し、
世界から日本を見る姿勢が長州の藩士には備わって行った。
勿論、勝海舟なども外遊して世界観を持っていたが
何せ、幕府は古い体質が抜けずに、殿様は大奥で子供を
50人も造るという快挙?を実行させられている古さであった。
そんな中で長州一国と幕府軍が全国から集められての
戦いが始まる。