吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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終戦後、東京は別だったが地方は皆台所はガスなどなかった。

 

台所にはへっついやかまどがあって薪を燃やして湯を沸かし、お風呂を沸かし、ご飯を炊いていた。

 

僕の家は木工所だったから薪はいくつでもあった。

木材を切ったかすが木っ葉と言って薪になった。

お風呂に入るとお袋がぬるくないかい、と薪を燃やして暖かくしてくれた。

 

僕の家にお手伝いしてくれたSさんという人が薪やさんだった。

家具の配達をしてくれて居た。

自分では薪を運ぶ仕事をしていた。

山奥から薪を運び地方でさばいていた。

今では燃料屋さんになって居てガスはもちろん石油やガソリンを売る大きな会社になった。

 

そんなある日、新潟から天然ガスを運ぶと言って我が町をパイプを通す工事が始まった。

楽しみにしていたら我が町には提供しないという。

がっかりしていたら、やがてプロパンボンベを持った人が現れて我が家にもガスが提供された。

 

薪を燃やす事はなくなるのかと思ったら、台所だけで相変わらずお風呂は薪であった。

 

やがて今のようにボタン一つでお風呂が沸くようになった。

ぬるくなれば追い炊きがある。

とうじを思えばウソのように贅沢である。

 

そんなガスも今回の熊本地震では大きな被害をもたらした。

人類はいま祖先が考えられない贅沢な生活をして居るのである。

それは危険とも隣り合わせであると言うことを忘れないようにしたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

終戦後のことである。

 

僕は幼児。

高崎郊外の村のおじいちゃんの家に東京から疎開してきていた。

戦争が終わってもまだ多くの人は田舎にいた。

東京は廃墟になってまだ落ち着く状態ではなかった。

 

そんな田舎暮らしの中でも夜になると電気がついた。

裸電球で60ワットである。

100ワットは電気料が高くなるからつけられなかった。

 

おじいちゃんの家は農家。

居間での夕食時であった。

突然停電になった。

電力不足で停電が多かった。

 

おじいちゃんは言った。

いま電気がこっちに向かって走って居るぞ。

ろうそくの光の下で心細く食べているときであった。

 

ほら、いま藤岡に来た。

速い速い、いまとなりの白石だ。

ほうら、今そこの畑の道に来た。

そうら、玄関の前だ。

 

それ、とおじいちゃんが言うとぱっと電気が付いて昼間のように明るくなった。

僕は驚嘆した。

まるで魔法のようであった。

おじいちゃんはうれしそうであった。

 

そんな戦後事情の電気であった。

おやじの木工所の電気も不足であり昼間は電気の力が弱かった。

そこでおやじは午前3時に起きてモーターを回して仕事をした。

 

僕は夜中に仕事をする両親のせいか目が悪くなって目やにが出た。

朝は目やにで目が開かなくなって起きることが出来なくなった。

おふくろが一生懸命に眼を洗ってくれて眼が開いた。

 

おじいちゃんが目医者に連れて行ってくれた。

もちろん自転車であった。

そんな懐かしい電気事情が思い出されるのであった。

 

 

 

 

昭和30年代だった。

 

僕は高校三年生。

翌年に高校三年生の歌が大ヒットしたころ。

 

夏休み、僕は友人と3人で九州旅行に出かけた。

東海道をのんびりとした急行列車にゆられて旅をしていた。

デッキで景色を眺めながら風に吹かれながら旅をしていた。

当時はまだドアもないデッキであった。

 

すると、突然雨が降ってきてほほにあたった。

雨だねえと僕が言うと、友人は、バカ,おしっこだよ、というのだ。

ええー。なんでだよう。

 

友人は説明した。

列車のトイレは走っているときだけ使える。

トイレの下に直接散布する。

走っているから粉々になって空中に消えるというわけだ。

 

僕は驚愕した。

信じられない。

この日本でそんな非衛生なことが行われているなんて。

 

沿線住民はいい迷惑だった。

当時は黄害と言われていたらしい。

 

そこで僕はあるホームで下をのぞいて回った。

すると、線路のわきにこんもりと大があるのを発見した。

事実かー。

僕は絶望したものだ。

ぢうやら走り出す前に我慢できなくてやったらしい。

 

今ではそんなことはない。

日本は世界一のトイレ大国になったのだ。

 

昔は、お隣の韓国や中国、さらにフランスに至ってもトイレについては驚愕の事実があるのである。

それはまたの機会に。

 

至らなかった青春時代。

驚愕の事実を知った出来事であった。