吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

吹けば飛ぶよな家具屋のおやじ

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トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

というのは川端康成の小説だ。

 

僕の友人に新潟の雪国の人が居る。

同じ家具店で若い頃一緒に東京などで勉強に参加していた。

冬になると友人が言う。

トンネルを抜けるとそこは雪がなかった。

 

新幹線も湯沢からトンネルに入り一気に関東平野に抜ける。

そこは晴天であり、雪国の人にとって不思議な世界に映るらしい。

 

今現在、大寒波が日本列島に居座っていて連日ニュースやワイドショウは雪国からの中継がいっぱいである。

今度の大雪は雪国だけでなく太平洋側までも降らせている。

鹿児島の桜島が雪化粧して住民が驚いている。

 

しかしここ群馬県は雪がない。

東京に出ると人から群馬は雪で大変でしょうねえといわれる。

群馬でも北部と南部では全く違うのである。

 

群馬の中央に赤城山と榛名山がそびえる。

その北と南では全く気候が違うのである。

 

ここ数日、北の空を見ると赤城山と榛名山には雪雲がかかっており姿が見えない。

そこから雲はだんだんちぎれて晴れたり曇ったりして関東平野に流れていく。

すさまじいまでの雪雲は高気圧の強さを感じさせて雪国の人々の奮闘が忍ばれて申し訳ないような気持ちである。

 

雪国の友人に冬の雪対策について聴いたことがある。

雪が余り降るとお店も雪下ろしが必要だが、従業員も自宅の雪下ろしで出勤できなくなる。

雪下ろしをしたいが、屋根の下は隣の駐車場である。

関東では聞き慣れない除雪費用というのが大きいのだという。

 

雪のニュースを見ながらいつも雪国の友人を思って居る。

 

南岸低気圧というものがあって、10年くらい前に一晩に80センチを超えるような積雪があり、当社の倉庫がつぶれたことがあった。

雪国に比べべれば80センチだなんて大した事がないと思われるが、なんと関東地方は大パニックになったのである。

国道に出ると車は一台も通らない。

完全に経済がストップしてしまった。

 

国道を歩いている人に聴いてみるとコンビニに歩いて買い物に行ったという。

食べる物が棚にないという。

 

たまに車が通るが自信満々の四輪駆動の車である。

しかしその四駆も我が家の裏では完全に動かなくなっていて、僕はシャベルを出して助けたものである。

車体が雪に当たって動かなくなったのである。

 

雪対策のない関東平野の80センチ騒ぎであった。

僕は連日雪かきをしていたものである。

 

それに比べて2メートル3メートルの雪国の友人の事を忍び尊敬の念がふつふつとわいてくるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日、大谷選手の知られざる裏側というNHKの番組を見ていて、艱難辛苦という言葉に接した。

 

大谷選手は昨年からドジャースに移籍して一年間めざましい大活躍を見せたのである。

しかしその裏側ではすさまじい艱難辛苦との戦いがあった。

激動の一年間を振り返った。

 

ドジャースに移籍して、結婚も発表して熱狂の開幕第一戦が韓国で行われた。

真美子夫人も同伴しての晴れやかな開幕戦であった。

初めて真美子夫人を披露して日本中が熱狂した。

 

大活躍をした第一戦を終了してその夜から大谷選手の艱難辛苦の日々が始まった。

寝耳に水のごとくの水原一平通訳の賭博による使い込み事件の発覚であった。

日本では大谷選手は関係していないと信じられていたが、米国のマスコミは大谷選手も疑った。

 

そんな中でも多くの同僚選手達は大谷選手を信じた。

中でも、フリーマン選手は大谷選手に寄り添った選手であり、大谷選手の肩を抱きかかえるフリーマン選手の後ろ姿が写真として残っている。

 

なぜこうも熱い心でフリーマン選手は大谷選手に寄り添ってくれたのか。

フリーマン選手も艱難辛苦を何度も乗り越えてきた人だったのである。

10歳の時に母親を皮膚ガンで亡くした。

本人も2016年に皮膚ガンの手術をした。

常に検査を継続していないと危険なガンの家系であった。

だから常に暑い日も長袖である。

 

誰よりも寄り添ってくれる人が重要であると知っていたフリーマン選手は徹底して大谷選手に寄り添った。

開幕から40打席ホームランがなかった大谷選手のバットから誰もが願って居たドジャース移籍第一号が飛び出したのは41打席目であった。

同僚も皆喜んだ。

ほっとしたのである。

 

監督は言う。

今回の事は一番あってはならない出来事であった。

しかし大谷選手は一人で立ち上がった。

すべて一人でするようになって、各選手やコーチとも通訳なしで話すようになった。

コミニュケーションが飛躍的に良くなって本当に良い結果になった。

 

そんな中、今度はフリーマン選手が苦しい事情に見舞われた。

息子が難病におかされたのである。

今度は大谷選手が徹底して寄り添ったのである。

病み上がりのような状態で復帰したフリーマン選手の背番号を

全員が着用して励ましたのである。

大谷選手は翌日も翌日も一人だけフリーマン選手の背番号で練習に参加していた。

 

大谷選手も事件発覚からはよく眠れない日々が続いたという。

そんな人生の艱難辛苦と闘うときに、寄り添ってくれる人が居るという事の重要性を誰よも分かって居たフリーマン選手であった。

 

ドジャースに入団したばかりで選手間でも大谷選手はどんな選手なのかと半信半疑であったときに、徹底して寄り添ったフリーマン選手は誰よりも分かって居たのである。

 

それからは数々の伝説的な奇跡を起こしながらドジャースは世界一まで登り詰めたのである。

固く結ばれた絆は本当に固かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本の出生数が減少して居るが、お隣の中国、韓国も同じである。

中国は躍起になっていろいろな政策を実行中である。

日本でも実行しているが、全然効果がない。

 

それは我が家の周りでも同じである。

通学する児童の数が昭和の時代に比べても段違いである。

昔はぞろぞろと行列で登校する姿があった。

今は数人である。

 

ウオーキングに良く行く運動公園でもテニスコートに居るのはお年寄りの集団である。

サッカー場は日曜日には東南アジアの人たちの熱狂がこだましている。

野球場は暖かくなれば試合がたまに行われるが普段はがらがらである。

 

平日の運動公園は僕一人が独占して縦横無尽に歩いて居る。

僕のためにこんなにも整備されて予算をつけて芝刈りなどもしていただいて申し訳ない。

 

先進国になるとなぜか結婚が減少する。

子供の一家当たりの数も減少する。

 

後進国は反対に子供の数はぞろぞろである。

日本も戦前の子供の数は一家に5人から10人は当たり前であった。

僕のおやじやお袋の家庭がそうであった。

 

お袋が生きているときの兄弟6人の夫婦の揃った写真があるが、合計が12人になる。

兄弟6人が全員結婚するのは当たり前であった。

結婚しない人は本当に珍しかった。

今は逆になってしまった。

 

学者に聞いたことがあるが、

貧困だと人間の本能で子供の数を増やさなければならないという危機感で生めよ増やせよとなるらしい。

絶滅しないために。

 

経済力が付くと今度は教育費が問題になるし妻の勤務の関係も出てきて子供は制限される。

 

子供達はどこへ行ったのだろうか。

居るはずなのだがと、今日も僕は歩いて居る。

おそらく昔のように外での遊びが少なくなって、家の中でのゲームやスマホで遊んでいるのだろう。

 

僕は今日も庭先にいるお年寄りに、こんいちわー、と声をかける。

今日もいい天気だ。