自分を正しい立場に置き、相手を攻撃する発想は教えにない
自分を正しい立場に置き、相手を攻撃する発想は教えにないこれは何度も書いていることです。専従者など、何かしらの立場が与えられると問題が起こることがあります。指示を聞いてもらえないとき、本来なら「どうすれば伝わるだろうか」と工夫するはずです。ところが、その努力をせずに、裏で「あいつは言うことを聞かない」などと相手を貶める人はいないでしょうか。同じことを、相手が従うまで何度もしつこく言い続ける。明主様には「粘り」という論文があります。ですので、自分を神様の立場に置き、自分が正しくて偉いのだという前提で信徒を見下すことではありません。今の時代、そのような姿勢に人はついてきません。昭和の時代を生きた先輩方は、慣れや時代背景もあり対応されるかもしれません。しかし、それでは若い人のいない教会になってしまいます。若くても、精神が“ご老人”のようになっている人もいます。それをおかしいと思えない人が、意外と多いように感じます。「下座の行」をどう理解するか明主様は「下座の行」という教えも残されています。ある急逝された先生のことを指して書かれたという噂もありますが、大切なのは内容です。これを「形の上だけへりくだればよい」と解釈する人がいます。あるいは「目立たないように布教すればよい」と受け取る人もいます。しかしそれは、本質を外しています。精神が穏やかで、虚偽のない専従者は、家庭も円満であることが多いものです。「この人についていけば、こんな人生になるのだろう」と、自然に見えてくるものがあります。では、相手を尊重せず、悪く言う人についていったらどうなるでしょうか。関わる人をすべて下に見ているのですから、そこに幸福は生まれません。立場上、業務上、秩序のためにできないことがあるのは当然です。しかし「偉いのだから好きにしてよい」ということではありません。その違いは、言葉よりも態度に表れます。時代錯誤の感覚若い人の中にも、管理職になった途端に「偉くなった」「自由にできる」「人を使って仕事ができる」と思う人がいます。令和でも平成でもなく、古い価値観のままの“旧人類”的感覚が残っているのです。人権感覚やコンプライアンス意識、時代錯誤の男尊女卑。問題にならない範囲で続け、注意されればその部分だけやめる。だからダイバーシティも本当の意味では理解していません。理解した“ふり”はできます。「私は神様だけでいい」と言う人もいます。しかし教主様や真明様の発言を見ていると、人権感覚は非常に鋭敏だと感じます。現代社会を踏まえた上で、配慮しながら語られている。その繊細さに気づかないまま、教団の評価や点数を優先する。話も聞かず(あるいは聞いたふりで反映はされない)、いつも同じメンバーだけに頼む。それでは、やがて焼け野原になります。他宗を学ばせたくない心理支配したい人は、教えを支配の道具にします。また、他宗に触れさせたくない人もいます。他宗を学べば、自分の歪みが見抜かれる可能性があるからです。外から学ぶと分かるのは、どの宗教も「基本」がしっかりしていること。理想の人間像の第一歩は、実はよく似ています。救世教にもメシア教にも、その基本はあります。その上で目指すものの差異が分かるからこそ、素晴らしさも見えてきます。しかし、その過程で「自分は基本ができていない」と気づくこともある。浄霊の誤解最も誤解されやすいのが浄霊です。浄霊は神様を知らせる方法であって、悪さをしていても暴飲暴食をしていても許される“免罪符”ではありません。それは明主様の言う邪神の論法に近づいてしまいます。浄霊をきっかけに、完全なる人間へ、地上天国の住人へと向かう。その方向性を持つものです。「浄霊に徹して覚れる」というのは、何もしなくてよい状態になることではありません。欲を制御し、欲を克服しようとする努力なくして信仰とは言えません。欲へのアプローチの方法は宗教ごとに違っても、この点は共通しています。その姿勢によって、その人が単なるメッセンジャーなのか、人として尊敬できる存在なのかが分かれます。自己愛と発展誰もが聖人君主ではありません。問題は、できていないことに気づかない、あるいは無かったことにしてしまう姿勢です。信徒が本当に思っているのは何でしょうか。発展していた時期は、いつも「新しい人」が多かった。そしてそこには、仲介者である教会長の人格がありました。自分の主張ばかりで、人を否定し、尊重せず、不快にさせる人を紹介したいと思うでしょうか。その後のフォローもなく、人間関係に不和を生む人を。紹介されない理由は、外ではなく自分の態度にあります。それを否定し続けるのが自己愛です。心の奥で「尊敬できない」「信用できない」と思われている。発展している先生は、欠点があっても、その基本ができています。厳しさや支配的な部分だけを真似し、温かみを持てない人は発展しません。しかしこの指摘は、本人にはなかなか届きません。立場を利用して圧力をかける可能性があるからです。結果として「無視」が選ばれます。それでも「無視された」と憤慨する。しかし原因は自分の内にあります。こうしたことは、本来若いうちに学ぶべきことかもしれません。40代、50代、60代になって誰かが教えてくれることは、ほとんどありません。だからこそ、今気づけるかどうかが分かれ道なのだと思います。