”私は悪くない!””お前が悪い!”自分を守るためだけにする自己愛の卑怯な手口
今回の教団浄化の件でも、また日常生活でも見られることですが、“自分を守るためだけに他人を悪者にする”中間管理職がいます。彼らの根底にあるのは、 自分の非を認めたくない 罪を少しでも軽く見せたい 責任を負いたくない という幼稚な心理です。本人は深く考えていないことが多く、問題の先送りを延々と繰り返すタイプでもあります。■ 悪者づくりが組織を壊す部下の中間管理職がこのタイプでも、案外その上司が気づかないことがあります。あるいは気づいていても「面倒だから」と放置してしまう。またはその中間管理職と同じタイプの上司だから…という場合もあります。そうするとそのグループでは上も下も、そういう自己愛タイプのみが発言力を増すことになります。するとどうなるか。 組織に損害が出る 行動が制限される “悪者を作る人”だけが得をする上司がその人の問題を先送りにしたい、苦情を避けたいと思えば、結果的に“悪者づくり”が正当化されてしまうのです。その結果、組織上、立場の低い本当に善良な人が悪者扱いされるという歪んだ構図が生まれます。信仰の世界でも同じで、明主様の教えにあるように、「自分を善いとし、他人を悪いとする心こそ悪」 なのです。善人を責める人間を信頼する信徒はいません。■ 内向的自己愛が生む「私は悪くない」の演技内向的な自己愛傾向の人は、とにかく自分が悪者になるのに耐えられません。 真に迫った謝罪ポーズ 被害者ぶる演技 言い訳をぼかしながら責任転嫁こうした態度で周囲を惑わせます。彼らは“嘘の技術”だけが年々上達しており、表面では謝っているフリをしながら、結局は「自分は悪くない」という前提を崩しません。■ まともな上司なら惑わされないが…まともな上司は 聞き取り 確認 事実の整理 を行うため、自己愛の嘘に翻弄されません。しかし、事実確認を怠り比較思考で善悪を決める幼児的な中間管理職がいる場合、冤罪の方を悪者にしてしまうことが平然と起こります。家庭でこれをやれば信頼が崩れてしまいますが、組織でも同じことです。ただ組織は組織を守るための動きがまず起きます。つまり上司は部下の中間管理職をかばってその部下をかばわないということが起きがちです。■ 「失敗を認める」ことができない人の幼稚さ仕事では失敗を認める方が信頼されます。しかし、自己愛型はこれができません。・謝るフリだけして何も変えない・隠す・言い訳をして論点をずらすテレビで見た「ジュースをこぼした子どもが、ソファで隠した」という話のようなものです。子どもなら可愛いですが、大人がやるとただの幼稚さです。■ 他人を悪者にしながら出世する“悲しい現実”残念ながら、人を悪者にしながら出世してしまう人はいます。しかし彼らは 人に恨まれ 信頼を失い 晩年に大きな苦しみとして跳ね返るという共通点があります。組織は立場で守ってくれますが、霊主体従・霊体一致の法則では、自分自身をごまかすことはできません。■ とばっちりで悪者にされる“良識ある人”自己愛型の「私は悪くない」は、必ず誰かに罪を擦り付ける行為になります。そしてそれに乗っかり、同タイプのグループ内の人間は「お前が悪い」と攻撃を始めたりします。これは信仰的に見れば、“目に見えない邪神が蠢いている状態”とも言えます。ここに負けず、人を貶めないことが宗派問わず正しい信仰の基本です。■ 「自己愛の管理職」に目をつけられたら?自己愛管理職は、自分の立場が脅かされるのを極端に恐れるため、 有能な部下を潰す 能力が発揮できない部署、仕事に回す 意見を無視する 手柄を横取り 威圧・無視による支配などを平気で行います。こうなると、部下は 自殺する 諦める 何も言わず指示だけこなす 退職する といった心理に追い込まれます。これはもう“パワハラ”というより人格の支配・隷属化に近いものです。■ 信仰の世界における大問題自己愛型の管理職を放置すると、信徒は必ず減ります。なぜなら、 苦情を理解できない(したくない) 失言を繰り返す 共感性がない 心の会話が成り立たないからです。数字は嘘をつけません。10年単位で見ればはっきり分かります。新規ではなく既存の信徒の意欲が低下、本当に信頼し頼りとすべき部下の意欲も低下しますので増えようがないのです。■ 信仰とは“人間性の向上”である信仰実践の目的は奇跡でも数字でもなく、人格の向上です。御霊が磨かれ、人間性が取り戻されていなければ、どれだけ成果を並べても意味はありません。信仰とは、「こうすれば病気が治る」「こうすれば願いが叶う」というレベルの話ではなく、もっと根源的な“魂の成長”です。そうであれば増えない理由がありません。■ 年齢を重ねても幼稚な人がいる理由30、40を過ぎても幼稚な態度が抜けない人は、精神年齢との乖離が目立ち、周囲に違和感を与えます。家庭で他者を尊重し、責任を果たし、子育てや社会経験を積めば、人は自然と成熟していきます。(結婚すればではなく、結婚という経験を生かせればの話です。)しかし自己愛型は、 傲慢 卑屈 のどちらかにしかなれません。■ “悪者にされた側”はどうすればいいのか自己愛タイプに悪者扱いされた場合、何を言っても覆りません。彼らは事実ではなく“感情”で善悪を決めています。被害者からみれば自己愛にのみ都合が良い”妄想”のようにも感じるでしょう。唯一の出口は 距離を置く 証拠を集める 必要であれば公に出す 組織を離れる という選択です。無理に戦うと、相手は陰湿な報復をしてきます。距離を置くとじわじわ自滅していくのが分かりますが、それを見届ける必要はありません。嘘の実力を示し続けると、早晩消化不良が発生するからです。早くに正されないのは優しさをはき違えて、助けてしまう被害者の甘さかもしれません。自分の人生を脅かす人間を助ける義理はありません。他にもっとあなたの助けを必要としている人がいます。明主様も、執着すると本当に救われるべき人が遅れるという意の事をおっしゃっているでしょう。■ 最後に ― 信仰とは、獣性との戦いである明主様の教えを読むと、信仰とは「獣性人間」を乗り越えるための道も目標の一つであることが分かります。自己愛の 責任転嫁 他者攻撃 正義の独占 自己正当化はまさに獣性そのものです。信仰が目指すのは、それを超えた“本来の人間性”です。