表題のようなことでいろいろ驚かれたと思います。
さて、ここではいつも書くように裁判結果以前のことを書ければと思います。
裁判については世界メシア教のInstagramやyoutubeの新年の挨拶で詳細に触れられています。
説明責任がありますからね。ただ信仰実践の本題ではないと思った方がいいと思います。
そこでもメシア教が勝ったと思うのは違う旨おっしゃってますし、世界救世教を救う裁判であったことを伝えています。
それに、今回裁判自体無効になっての和解といっても、世界救世教側が尾行盗撮盗聴によってした調査行為の謝罪をししたり4代教主様に全権をお返したという話はありませんでしたので、結局救世教側の態度は変わってはいないとおもわれます。裁判では勝てなかったというだけで、飽くことなく諦めず目的のため行動をするのでしょうか?ただそれは欲の本質ですけどね。
考察したいのは、これらの結果にもつながる霊主体従の法則的な事です。
(※本当の基本の基本、信仰の目指したい在り方自体は別のところに書くかもです。)
私は裁判に勝とうが負けようが世界メシア教にとって必要なこと都合の良いことになると思っていました。
それは信仰の基礎が大切にされているからです。
それは、相手ではなくいろいろな刺激を通して感じる自分自身のことを祈る見つめることです。それと上から下への流れですね。
このことは仏教、キリスト教、まして明主様、それらを問わず主神が定めた正しい宗教の基本の信仰営みでして、これがあって初めて本当の神様のご加護があるという基本的な事です。
基礎へのアプローチの違いは時代時代にありますが、基本はあります。
そして、邪神が作った信仰や邪神の影響を受けてしまった信仰やカルトでは軽視されがちなことです。
逆にいうとこの基本を捻じ曲げるといいようにできるわけで、カルトや宗教を利用した利己的な人の狙いはここにもあります。また自分の欲に負けて邪神にとらわれた人はこの捻じ曲げることこそ正しいと信じて疑わない世界に入ります。いわゆる明主様のおっしゃる意味の小乗信仰ですね。
ここに陥ると、奇跡や救いでいえば、先祖とか一子孫の未来という多くの御霊様とか全人類ではなく、個人的な救いに集約され狭められていきます。さらに小さくなると個人の欲という都合の良い願いがかなうかどうかになるんですが、そうなると全体としての幸福にはつながらなくなってきます。
浄化続きでそれを何とかかんとかしているのが続きます。家庭でも例えば親が子に託すのではなく子が親に依存するようになります。その依存した子供の子供はどうなりますか?
つまり個人という視野では幸福を得るには足りないのです。
ですので誹謗中傷しないことです。悪口ですね。今回のことも最初はショックだし、めちゃくちゃに言われたりされたりした人もいるでしょう。誹謗中傷で個人名出しながら布教された人もいるようです。
いろいろあってできないかもですが、基本的に誹謗中傷しないことなのです。なぜ欲と誹謗中傷がつながるのかわからないようだと困りますね。これがわからないようにされてると危険なのです。支配者にとっては、また家庭だとマザコンとかファザコンのその親とかにとって都合がいい。
ただ、私も誹謗中傷と事実解明、開示との境目がわかりにくかったり、一部は言わないと意味が分からなかったり、未熟だったりしますので、まあ、厳密にはなかなか難しいんですが、そこを目指すようする。相手より格段に少ないようにする。
これは書いていくと長くなるので省略しますが、ここにいかないと神様の光をダイレクトに受けれないし、地球にいる子孫を通してのみできる無数の先祖、それこそ自分につながる億単位の御霊に光による許しを伝えられないし、そうなると私含めそれ以降の子孫たちの未来に希望が開かれないことになります。
宗教していてわからないといけないのは、神様の光を霊界に近い想念を通して受け入れるということ、またそれによって自分一人ではなく、無数の祖霊、名前知っているレベルではない億単位の御霊を救う力をもつところでないと間に合わないんですよね。
というか間に合わせることが不可能な時代がいまでしょう?
だから力の強弱ですね。同じ主神でも信仰のレベルにより違います。
そして神様ではないということならば、間違いなく邪神を信仰している。どっちかですからね。神様なのか、個という自分に執着して視野を狭めて見えない世界をわからないようにしている勢力。またその中間にも、正しい信仰を曲解させて神様を便利屋のようにして下に見る、要求するように、原因ではなく現れた結果(病気とか人間関係の問題とか)のみのアプローチをさせ続けるような、解釈を捻じ曲げるというのもあります。
神様を信じさせること、そして霊の存在を見つめ、自分の想念、生き方を見つめないなら奇跡なんて意味はありません。なぜなら奇跡以上の奇跡に行かないでずっと奇跡が起きる前の浄化の状態と奇跡をいただいた状態という成長がない無間地獄にとらわれてしまうからです。
ここにとらわれると先祖と同じ過ちが現れて浄化しているというのはわかりやすくはありますが、そこから抜け出られるわけでもないんですね。
こういうのでも、無宗教の人への誘惑と、有宗教の人への誘惑の違いもわかるでしょう?
神様は人の御霊の成長を求めているのを忘れていると、神様の本当の願い救い光に到達しないですよね
主神の経綸側
・・・神様 エホバ ミロク メシア キリスト 釈迦 マホメット等
その他目的のために動いている諸神霊
個に執着(正しい人間の御霊磨きに利用されている側)
・・・悪魔 動物霊、
人間の負の感情から生まれてしまった邪神(思疑神)
解釈を捻じ曲げて神様を邪神の教えに変える
・・・大悪魔 サタン 天邪鬼
みたいなものですね。
小さい範囲では知ってる人多いんですね。例えば浮かばれない名前も知っている先祖がいるから、同じようなことが起きているとして、
そういう場合に浄霊浄霊言っていては、原因である先祖の問題が起きてきて、同じような病気したり事故したりと、それが起きてから対処しますね。それを繰り返しますね。浄霊などで問題自体は解決していない。だから子孫にもおきる。起きた問題を最小限にしているに過ぎない。
そうなると救いが成し遂げられてはいない。
神様の願い、先祖の願いが少しずつでも成し遂げられていくと、状況そのものが改善されていったりします。必要がないものは取り上げられるし、全体を通してその人にとって幸福がもたらされるようです。
ただ神様から見てその人に必要がないと思うものに執着しているとわからなくなることもあります。簡単に言えば必要がない嫌な人とかと縁が切れて幸せになることもあります。でも相手が改心するとは限らない。
夜の時代は、神様の御心の成し遂げられないようなことをしていて、それを何千年も積み重ねて、なんとか命をつないでいるという感じでしょうか?そうすると、名前知っている先祖の因縁じゃなくて、そもそものもっともっと昔からの先祖の在り方の問題であることがわかります。霊界を信じるならですよ?
あり方によってある太古の先祖が邪神に乗ぜられ間違わせられたことが問題でいろいろな問題が起きているとしたら、そのことに対してアプローチがいります。これは聖書でも明主様でもおっしゃっている人類全体にかかっている原罪のことです。明主様も原罪には言及しています。
その根本は贖罪主のところにきます。これはほかでも書いていますが、主神エホバの救いの始まりがここだからです。この時の救いを認めて、その後の営みを悔い改めれば、自然に必要な改善が集まってくるように私は感じました。
運がよいような、事象に恵まれて改める気づかされることがあるような、どこまでも人を恨んだり、相手のせいにしたり、こういう思いがすぐになくなるわけではないけれど、薄まったり、気にならなくなっていったり、そこに結論を置かなかったりしていきます。
そうすると今まで以上に自分を大事に、自分が大切に思ったり自分を大切にしてくれる真の家族を大事にするようになったりもします。
ここにもマザファザコン問題がわかりやすく、親を過剰に大事にする人の家族は親ではなく自分の奥さんと子供でしょう。本当の信仰していたら、自分の都合の良いような信仰をしていないなら、こうなるわけがないんですね。
そうして整ってくると、いろいろなこと健康にも経済的にもなんだか必要なだけ恵まれてきます。そもそも減ってきます。だけど、視野が狭いと困ったときに声かけてくれる人にばかり感謝して問題そのものを解決しようとしている人を軽視するようにもなります。邪神の思うつぼですね。神様の教えの排除ができてしまうわけです。無間地獄へご案内が完了するわけです。
個人が神様や先祖を意識してその願いを共にかなえる中で、個の願いもかなえられていく。
組織もそうで、だからメシア教にとって必要なことをいただけるということを思っていました。というかこういう法則が存在しないなら自力的だったり暴露的なやり方にも納得はいきます。
こういう作用が神様にないのなら自力的に改善がいるでしょう。
今回のことは神様がいらっしゃるよということを教えている最期の機会なのかもしれないですね。
どうも時期が示されているようですね。
今年ある時期に霊的には定まるんでしょう。行き先が定まったことをお互いに気づかないまま進むことになりそうでもありますね。
おかしいなと思うならすぐそこから移動するフットワークが大事ですね。あんまり猶予もなさそうですけどね。