ワンネスムーブメントではシュリ・バガヴァンはただ1つのサダナしか与えて


いません。それは、私たちの内側、心の中で起きていることを覗く事です。


これはスピリチュアルな内側へ向かう旅です。あらゆる存在が、


彼らの実在的な外側の生活をより良くする事に興味を抱かせるのは、


「外側の世界は、ただ内側の世界の反映にすぎない」故に、


これを必要とします。もしあなたがこの引用を理解するなら、


あなたは人生の中で、非常に多くの事を理解します。


この、心の中の思考や感情を覗くことを、「seeing(見る)」と呼びます。


私たちは 「the seeing Sadhana(見るサダナ)」というたった一つのサダナ


があるだけです。


このサダナは私たちにとって、まったくサダナの様なものでなく、


またマインドを観察する事がとても面白い事なのです。従って、


シュリ・バガヴァンはこのサダナを「NO SAHDANA /サダナはない」


と呼んでいます。


バガヴァンは言います:  あなたができる全ての事は、


そこにあるものを見る事です。 まず第一に、


あなたはそこに何があるかを知りません。長い間、


絶えずあなたはそこから逃げています。でも、


知るのに間接的な方法はありますが、


それでも実際にそれを見る事は苦痛です。あなたの妬みの思い、


嫉妬の思い、恐れの思い、不安の思いを見る事は、


あまり良い体験ではありません。


常にあなたはそれから逃げています。それは人間の唯一の問題です。 


だから、私たちはあなた方に言うのです、それを見て、向き合い、


立ち向かって下さいと。あなた方は言うでしょう「やりましょう。」と。


最初はそれをするのは難しいでしょうが、


でもしばらくすると、とても引き込まれ(気持ちが)、


実際に見る事は非常に良いとすぐに気づくでしょう。


あなた方が、ご自身の暗いネガティブな側面を見るに従い、


不思議なことに自分を咎める事がなくなります。なぜなら、


あなたはそれが真実である事を知るからです。


そしてそれと一致すると歓喜が起こり、その歓喜とともに、


あなたはすぐに完全に葛藤のない状態を見るでしょう。


あなたの否定的な側面は無くなるという事ではなく、嫉妬、怒り、


恐れが止むという事でなないのです...いいえ、


そういった事ではありません。あなたは、あなたの人生で初めて


言うでしょう、「ああ、これこそが自分だ。


それを恥と思わない。それが唯一の真実だ。わたしは真実に存在する。」


それがスピリチュアリティーの最初のステップであり、


また最後のステップでもあるのです。 後は全ては自動的です。


グルは必要としなくなります。教えは必要でなくなります。


全てが自動的に起こります。


あなたはそこに至るのに何かできる事があると思いますが、


あなたがそこに至る為にできる事は何もありません。


もしあなたが嫉妬深い人なら、嫉妬の無い状態にはなりません。


あなたが怖がりな人なら、ライオンのように勇敢にはなりません。


もしあなたが落ち込むばかりの人なら、


戦士になる事ないでしょう。あなたは変えられません。


あなたは自分を変えらないか、やってみて下さい。


教えは、変えられません、


そして変える必要は何もないと言っています。


なぜならあなたはその様にデザインされてるからです。


あなたはそのままです。教えはそれが全てで、それだけです。


だから、あなたはそれを受け入れて下さい。


「OK、私は変えられない。では、何かする事はあるだろうか?


それについて何もする事はないし、誤りは何もない!


私はその様にデザインされている。」


あなた方は自分をデザインしてませんでした。


神があなた方をその様にデザインしました。


神がデザインしたのには意図があります。だから完全な受容があります。


あなた方が、あるがままを受け入れてる時、それは瞑想であり、サダナであり、


全てです。だからそれは非常にシンプルです。どうぞそれをして下さい。


わたしはあなたを助けます。



私たちは内側でどれだけ進歩したかということです。


各個人で自問する必要があります。正直に話せば、


私たちはどこにも進んでいないと言えるでしょう。


それ以外、答えようがありません。


内側の世界を完全なものにしようとする私たちの探求は、


何も実を結んではいません。


自分自身を変えよう、より正しい人間になろう、


自分の人生からあらゆる不幸や悲しみを根絶させようという、


いくつもの時代にわたる私たちの勇ましい奮闘については、


まったく結果が得られていません。


自分を完全なものに転換しようと奮闘してきましたが、


これは外側の世界を完全なものにしようと私たちが追求してきたのと


同じぐらい長く古いものです。


人間が成し遂げたすべてのことは、


マインドを効率的に使ったことによるのです。そして人間は、


同じように内側の世界でも完全性をもたらそうと、


その同じマインドを使ってきたのです。


自分自身の生き方においても完全なる転換をもたらそうと、


決断力、自己主張、思考力、分析力などを使ってきました。


とても残念なことに、恐らくこれが間違いだったのです。


内側の転換は自己主張や決断力を使って達成し獲得できるものでは


ないのです。悦び、平安、愛、謙虚さ、委ね、神は、


主張や決断力を使って得られるものではありません。


つまりそれらは決してマインド領域で勝ち取るものではなく、


発見されるものなのです。


あなたにハプニングとして生じるものなのです。


それが生じるためにはより高い何かの介入が必要です。


つまり恩寵です。


宗教の歴史を少しでも紐解けば、そのことが明らかになるでしょう。


偉大な神秘家が生まれ、偉大な予言者が生まれ、


あるいは罪深き人が心を転換させ偉大な聖者へと高まりました。


彼らは断じて、それを成し遂げたわけでも、


それを勝ち得たわけでもありません。


ある個人に聖なるものが介入し、神秘体験が始まったとき、


すべてがハプニングとして生じたのです。


彼らの内側で神秘的なものが生み出されたのです。


これが彼らの人生を完全に転換し、


聖なるものとの永遠の絆をもたらしました。


この超越体験こそがあなたの心を転換し、あなた自身を聖なるもの、


神聖なるものへと変えていくのです。しかしながらマインドは、


あなたにいかなる神聖体験ももたらすことはできません。


それはハプニングとして始まらなければなりません。


そうやって始まるものなのです。自分のお手上げ状態に気づいたとき、


あなたは完全に謙虚になり受け身になります。そして、


人間が終わるところに神が始まるのです。


PEACE ON ME

人間はただ存在しているだけです。働いているだけです。


本当の意味で生きているのではありません。


私たちが信じていることとは、マインドが握りしめている意識を


手放すということです。今、意識はマインドの生き残りのために


利用されています。握っていたものを徐々に手放して、


意識がマインドを利用するようになるかもしれません。


マインドはサムスカーラとともにそこにとどまるでしょう。


でもあなたの意識を支配するものではありません。


あなたは純粋な意識だけになります。


あなたが使う「あなた、君」という言葉は


純粋な意識のことを指します。あなたのマインドのこと


ではありません。「私とはマインドです」というとき、


それはアナトマと呼ばれていますが、


間違った自己認識です。これから起き始めることは、


マインドが徐々に人間の意識を支配する力を失うということです。


マインドから解放されれば、あなたは生き始めます。


マインドがあなたをコントロールしている限り、


あなたは存在しているだけです。あなたは生きていません。

第五十二節
 あなたの考えは、あなたの考えではありません。
 あなたの身体は、あなたの身体ではありません。
 あなたの思いは、あなたの思いではありません。
 自分自身という思いは、単なる概念にすぎません。          
第五十三節
 仕事からの解放は、社会からの解放です。
 社会からの解放は、条件付けられた枠組みからの解放です。
 条件づけられた枠組みからの解放は、知識からの解放です。
 知識からの解放は、思考からの解放です。
 思考からの解放は、自己からの解放です。
 自己からの解放は、感覚からの解放です。
 感覚からの解放は、生命が完全に解放された状態です。
第五十四節
 この黄金時代には、仕事も、そして差別もありません。
第五十五節
 気づくことは、自由になることと同じです。
第五十六節
 気づくことは、愛を知るということと同じです。
第五十七節
 気づくことは、神聖で尊い(尊敬すべき)ことです。
第五十八節
 気づくことは、私とーつになることと同じです。
第五十九節
 やるべきことを引き延ばすことは、自分自身に偽っているのと同じ

 であり、その最たるものでもあります。引き延ばすことは、自己を

 守るための一種の思考のごまかしですらあります。引き延ばすことは、

 自由を永遠に拒否していることに他なりません。

もし、あなたが完全に体験できれば、喜びです。


誰かがあなたを侮辱したとします。あなたを傷つけたとします。


それを完全に体験できれば、アーナンダ「至福」、喜びです。


肉体的に、心理的に、感情的に何が起こっているのかは関係ありません。


実際人間は、何であろうと物事を完全に体験する能力を失いかけています。


今食べている食べ物を体験していません。味わっていません。


歩いているのを味わっていません。二つの足で歩くということは、


途方もない体験です。しかしそれを味わっていません。


あなたは何も味わっていません。


すなわちあなたにとって何も存在していないのです。


四六時中、あなたは逃げ回っています。テレビを見て、


本や、雑誌や、新聞を読んで、友達と喋って、、、


逃げ回っているのです。


あなたは決してあなた自身と一緒にいません。


なぜならどんなことも内側で起こっているからです。


あなたはそれを内側では体験していません。


味わっていません。


もしあなたが内側で起こっていることを体験していれば、


人生は100%完璧です。


人生はとてつもない喜びです。