星の系譜。
「星の瞬きは

僕らを進ませた



明るく強く。


夜の海の奥に光る

街の海岸線が

明るく光っていた。



希望を創造する

時代(とき)が来たのだ。」

 







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*このブログにあるすべては、1つの

個人的な観点であり、時代とともに変わるかも




  • 18May
    • 【龍系】明龍(めいりゅう)の話。

      とりあえず、夢の話とします。 自分の知らない感覚をいくつも突破した先に何があるのかと考えたことがありました。 そこで、(自分にとっての)未知なる層をいくつも突破していってさらなる場所へ場所へと感覚を研ぎ澄ませた先になんだかよくわからないまったく、ここにないような空間にいる透明な龍がいる空間にぶちあたりました  あくまでも夢の話としてですね。。それで、その龍は姿も、まったく違いますなんというんだろうクジラと、なんかが一体になったような巨大な姿でぼくは、あまりにもの雰囲気に厳かさ?に怖いくらいでしたまったく違う場所にいてまったく違う空間にいるその龍みたいな存在巨大でなんとも言えない主張もあるのかないのかさえ分からないただ、なにかこう超えている ような感じですそれで、その透明な龍ですがなんていうんだろう龍神の長(おさ)系の人がいるんですけどちょうど連絡が来て「明龍というか、透明な龍と縁が出来ました」という話をしてたら、『全然、別なとこ(空間)にいるよ』と言われ、「そうですよね。」と僕。『透明ということは枠が無いということ影にひそんでいる というかね』と、その人は伝えてくれました。その人は知ってました。面白いですよね。脱線したかのように見えるけど後で戻るんですけど 笑いろいろな煩雑な体系、あるいはサイキックな体系、あるいは権威ある体系それそのものがもついまや堅くなった殻があるとしますよねもし、その人がどんなに【知ってる】と思っていてもそれ自体が枠の中にあるならその人は気づかないかもしれない足元にバツってデッカく書いてあってもまさか自分がある枠の中にいるとは思えないのかもしれない「素」に戻るとき素直の素ですけど素に戻るときもはや忘れ去られた音叉(おんさ)のような振動がそれを思い出させてくれるのなら。。明龍は、何かその強烈な音叉を発しているかのようでしたすべての形骸化した型は、もはや、【素】と遠くなってるのならそれに響かせる響きが必要なのかもしれませんいま、明龍による【響き】があるとするならそれ自体が「知らなく」ても知ってるという 勘違いを生み出すことも可能だけれどもその明龍の響きが音叉としてこの空間にこだましている時どう受け取ろうが問題ではなく空間に【響き】はこだましていますしかし、それを勘違いのオンパレードで受け取ってるのが仮に現状だとすると切り取って好き勝手解釈するわけ という事になってしまうのも無理はないのかもしれませんもし、音の始まりが始まっているのなら形骸化した権威的な枠や、考え(掴んだ枠)では、受け取れないのかもしれません知性によって受け取る以上の響きを感じられるのなら直接響き が暖かさを伝えてくれるのかもしれません素になって聞けば、子どもの無邪気さで聞けば、大人になって身につけた枠でなく重(思、想)い鎧ではなく他人を出し抜く ためや悟り的な思想により自己満足を産むための存在の重さ やそれを持つ前の赤ん坊のような無知と開ききった姿でその音叉のひびきに触れられるのならわからなくてもなんらかの【素の元】のひびき を受け取るかもしれません。私たちが【知っている】鼻高々さではなく圧倒されて畏敬を感じる ほどひらききったとき何かを感じ取れる感受性が(忙しい)わたしたちの心のスキマにじんわり入ってってくれることもあるんでしょうか?なんだかよくわからないけれどなにかを受けとることもあるなんだかよくわからないけれどそれで明るくなることもある知性のスピードでは追いつかないけれどなにかの理性が落ち着くような場所があったりなんかするわたしたち(の祖先)がビックバンの集中した極から生まれ日々進化し、ここまでやってきたというのならわたしたちは、次の未来に向かってこの集中した極を現在にもってきたとき新たな未来にどんな種が残せるでしょうか?わたしたちが集中したこの瞬間の極熱のねっとりした溶けるような熱の中でなにを生み出せるのでしょうか?この一極集中した熱さの熱の中でぼくらは、どんな浮かれた熱い夢を描きそこに向かって熱い歩を進めるのか?ぼくが好きな映画の1つが、『冷静と情熱のあいだ』なんですがそのなかに、こんなセリフがあります「『僕は過去を蘇らせるのではなく、未来に期待するだけではなく、現在を響かせなければならない。』」現在に響く、残響の中に隠された大いなる希望の種が花咲くいい時代があるのならこの時代は、存在に揺さぶりがかけられ振るわされ不安に振り回されながらも現在を響かせるために強く意識されるようなそんな時代な気もしますそんな、(かなりズレたけど)明龍の話です(笑)---------------------------------『明龍の響きが音叉となって伝わるのならしかし、気づきもしないだろう明龍に学ぶ叡智が仮にあるとするのなら直接に「響き」自体が教えるのかもしれない。明龍のもつ深貫(しんかん)は、存在の帯びに透徹(とうてつ)しておりだれも目撃できぬまま空間に残響を響かせている遠く、古来の龍たちが受け取った残響が彼らの中で働き働きを活かさせたのなら彼らが被(こうむ)った恩恵は彼らに意識されない働きを産む透徹さが働き に感知されなくても明龍の残響のようなにぶい、はるか昔の咆哮はやはり、新しい龍たちの中に生きただろう。奥深い、まるで違う渓谷のようなモニュメントの中に存在感をもってひそむその巨大な体躯をそのはじまりの音として意識されずに存在させてどのじだいからも影響されずに強烈に存在する時代を超えて存在する存在感に響かせられた存在がその龍の力を養ったのならその龍の目の鋭さの中にさえ明龍がいたとも言うことも出来るだろう古の習わしの中にいないその存在感は、はっきりした働きの中に目撃されないながらもその大働きの意を受け取っているのかもしれない。』       

  • 30Apr
    • 老子と、黒い龍に乗った賢者。の画像

      老子と、黒い龍に乗った賢者。

      前に自分が書いた文章を、久しぶりに読み返しました!けっこう前の文章だけど頑張ってると思う 笑 もし、「知っている」という枠に自分が入っているのなら世界は、感嘆のない既知なものに見えるかもしれないいま、浮かべている微笑みは、赤ん坊の頃にもありましたか? 老子 10章『われらよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄(はく)との2つともを、たもち守りながらしかも、道(タオ)の発動現成にあたって、それ(道)からはなれずに生きていくことが出来るだろうか。このわれらの中にある生々の原動力、無意識的 生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、わが欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうど、あの嬰児(赤ん坊)のように生きることが出来るだろうか。自分が道を得て悟ったというその自意識さえ洗い落し、すすぎ去ってしもうて、完全な道自体になり切ることが出来るだろうか。民を愛し、国を治めるにあたってよく無為たることが出来るだろうか。治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって自分の力でそれを自由にすることが出来ることを知りながら、よくそれをしないで、すなわち人為的発動をしないで、無為を守っていることが出来るだろうか。あらゆる方面に聡明でありながら、しかもよく知なきがごとくしていることが出来るだろうか。道は万物を生じ、万物を畜(やしな)うているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしないし、また、すべてのそれらのこと(生じさせるとか、畜うとか)を自分が為したからというて自分がそれをたのみとして期待しない。また、それを育てたからというてわがものとしてとりしきることをしない。これを道自体のもっている奥深い真の徳というのだ。伊福部隆彦著--「現代訳 老子」の訳より』  ----------------------老子の「わかってなさ」は、異常だと思う。普通あそこまで踏み込めない。居心地悪すぎるはずが、とうの昔に、それになってる。普通、世界を知覚するために人は、安定させた視点を立脚させるだからこそ、論理は確固たるものだし画期的だし不動になるけれど、それは、強烈に立脚しているからだ老子は、オカルトも真面目な真理も社会情勢も全て、おそらく全く同じ話に見てる見ようとしてない完全に同じ話に善い悪いじゃなしに存在は、その世界で通常、立脚するそれがその人の肩書きだったり主張だったり、論点だったりするそれはそれで世界を遊ぶ衣装として楽しめるはずだけど老子のわかってなさは、常軌を逸してる通常、わかってるってことつまり、スピリチュアルなアイデンティティーなんかを装って、色々しゃべるそれは、服なんだと思ってみたら面白くて専門家も、その視点を立脚している立脚しなければ、論理はないかもしれない空中崩壊でわからないだけど、この老人は、「わかってない」を極めているようにさえ見えて世界の宝を掴んでいる老子は、愛の話も積み木と全く同じ話と思っているこれは、常軌を逸してる彼は、論点すら立脚させない全てを掴んでは話せるなにも知らないという態度さえ平等にそれになれる論理すら、せせら笑う彼は、論理を話すように感情的に詳しく話すしそれを、全くのオカルトとしても扱えてこれは、論点がおかしい彼の視点は、どこにあるのか?論理は、主張は、どこにあるのか?あらゆる場所に文字通り、あらゆる場所に立脚した視点は、わかっている様を主張するのかもしれない老人は、狂気の世界にいるあなたは、だあれと聴けば彼は、笑いだすだろうそれだけだヒントも示してくれない彼はジグザグに進み、全く規則性がない自然のようだそれかと思えば、彼は、ぼくらに合わせてぼくらの主張を正しいというそれが、世界の誰であれだ老子の「わかってなさ」は、常軌を逸してるそうだからこそ彼は、世界の宝を持っている宝を見せびらかす者は始まりすら、踏んでないのかもしれない老子は、全ての論理を捨てせせら笑い同時に、全ての論理を支持し熱狂する誰とも、差がなく馴染んでいる誰とも、差がある馴染んでない頭の理解すら置き去りにし、頭の理解すら、そうだと言うだから、彼を誰も見つけられないまるで彼は、ここに文字を記さない空白のようだだから、誰も読まずきにとめず違いすらわからず違和感すらわからず通り過ぎるだけだ空気に注目しないようにそして、同時に強烈に自分の内側にもいる彼は、ロジックを壊す狂気のロジックを持っているそれは、相対する双方がもつもっとも正しいロジックを両側から同じ圧で同時に実際にするようなものだだんだん、立脚した視点は居心地悪くなってくる心地よい視点は、おそらく、立脚した存在にそう出来るだけ自分という枠を強化するのかもしれないわからないに明け渡してみるすぐに、それを埋めてくれる論理や、宗教で存在を安らげたくなるかもしれない知性は、満足しない補足の説明を始めるかもしれないあぁ、こういうことなんだそれが、インテリによってずっと行われてきたことかもしれないひとつはじまりから、やり直してみるでも、ここで話した話もまた立脚を助ける話なら必要のない話なんだろうここまで書いて老子のことを何も捉えられない自分を馬鹿みたいに思うだろうどうやら、ここが始まりかもしれない自分にとってはあなたにとってはあなたの大切な物語があるんだろう微笑んだらそこがチェックメイトだまた、はじまりから始めてみよう宇宙は、こうやって、なんども自身を体験してきたのだろうか?いや、どうだろうか?それでもなお、老子のわかってなさわかってる様はミステリアスでここまで冒険にしてくれる黒い龍に乗った賢者は、時を放つ放たれた時に人々が微笑む賢者との共通は、微笑みの中にここから、ダンスを踊ろう意識のダンスを

  • 27Apr
    • キリストのもつ、秘伝的な伝統。の画像

      キリストのもつ、秘伝的な伝統。

      のっけてなかった!----------------------最近、キリスト教の歴史の本を読んだ。長い歴史のなかで色んなことがあったんだなと思った。 もともと、キリストはユダヤ教をより正しい方向に戻そうとしたわけで、 「キリスト教をやるぞー!」と言ったわけではなかったようだった。  別の本には、 『疑いもなく、ジョシュア・ベン・ミリアムまたはイエス(キリスト)は隠されたユダヤの〈伝統〉に通じていた。byハレヴィ』と書いてあった キリストは何を想い、何を行おうとしたんだろう わからないが、ざっくりしたニュアンスで言えば 真に深い〈伝統〉は、次の言葉に含まれてるような気がした  『(カバラの教えは) 霊的プロセスについての進化を促進し、状況を発展させ大きなスケールで〈創造〉を支援し、個人を進化させて神に奉仕するためのものでした。 by ハレヴィ著 カバラの仕事』  そしてこれは、空海の密教にも通じていて、不思議な一致があるように思う 進化が深い部分で深まったとき、 歴代の賢者たちは何を目指したのだろう 西洋と東洋を貫く透明なものが 背景に流れてる気がしてならない それはおそらくさらに一歩進んでいて もしかしたら、それがキリストのもつ秘伝的な伝統ではなかったのだろうか

  • 07Apr
    • カタチの妙技。〜りんかいを越えるもの〜の画像

      カタチの妙技。〜りんかいを越えるもの〜

      ある日の詩  -----------証(あかし)は音でとらえられ それから深(しん)でおさえられうる顕現は、妙法によってささえられ心の奥底は、仏法によりささえられ密蔵もまた、神法によりおさえられる経た存在は存在で、じかにその妙を抑えようとし発により発露する動きを生む動として働きにふるいをかける甘露は、じかに受け取られ詳細は、深みから感化される妙技は、感路より運ばれて密技が技を成すおさえられうぬものはそんざいの かたち により流動的にそれを得とくさせられる伝統の中にあるカタチはカタチを持つものそのもののカタチにより会得される真に流るる妙技は、その存在をして悟らしむ越えているもの は越え潜んでいるわたしが 密むときカタチが少し変わるのなら体得された妙技もまた変わりうるのだろうか?どのカタチをとろうともカタチには色があり発するものは変わってくるどの座をとるのかどの技を為すのかカタチを行き来することでモットーは、多面的になる ----------------------『 ひそんでいる(透)明龍が、存在している顕現の場はそれを活かす慈悲によりささえられている 繋がりは、教え、導く を響かせるのならまた、学べるものも増えるのだろうか。』    

  • 01Apr
    • 空海と、カバラ。の画像

      空海と、カバラ。

      この2つは、個人的に見て、すごく似てる部分がある気がしていて。  空海は、顕教(けんきょう:文字に出来る教え)と密教(みっきょう:秘密の教え)をある本で語っているのだけれど その深い部分では共通の部分があるように思う。 それは、〈流れ〉自身に、責任と影響力を持つことに端を発してる事のように思う。  時代時代によって神秘家は、永遠の今と合一する事を述べた –なぜ、教えが必要なのか???–  空海の密教の深い部分では永遠の今としての遍在である事からまず始まって それは、個をある創造(たとえば地球)の内側に創造することで ある種の力を用いて、流れそのものに影響を与える与えるというか促進するものだと思う  つまり、永遠の今と言うものがある そして、個を創造すること と言うものがある  その上で、遍在の応用は、 「流れているパターンを促進する個として何が出来るのか??」  という新たな問いが出てくると思う。  空海が説く密蔵(みつぞう)が極めて理解困難なのは 永遠の今との合一を示していないからだ それは、さらに踏み込んでおり  通常、無について語る人(ほぼ、知的に行き詰まり、勘違いしてる人)にも、知的な理解は不可能であろう  なぜ、理解できないのか? それは、微妙なニュアンスになるけれど まず、生命として実像として遍在的に立脚することもわからないし その〈流れ〉に責任を持っている個というニュアンス自体が不明であるからだと思う〈伝統的教え〉が永遠の今 に合一することをゴールとしていたのなら 空海は、なぜそこをゴールとして捉えないのか?なぜ、そこの存在に指をパチンと鳴らし気づかせ 先に進ませようというのか?(空海の「秘密曼荼羅 十住心論」より)  もちろん、その教えもある けれど、なぜ空海は、さらに密教を提示したのか??永遠の今と合一した後に存在としてする事があろうか?真の合一を識る者からすればそれは、ある種のゴールだったのかもしれない しかし、何が提示されうろうとするのか?空海が示したことはそこがゴールではないとさらに道を示したそれは、日々続くこの創造(現実世界)についてのさらに深い理解と 責任を持つ自己を創造する事でさらなる促進が可能と成り得ることを理解したのだと思う  このニュアンスの部分は、通常、顕教(言葉に現せる教え:けんぎょう)では不可能と語っていると思う  空海は、遍在を持つ身体〈身密〉をさいど、世界にも持つ事に端を発して示していたのでは無いかと思うそれは、創造に関する一連の再理解と存在に関しての進化のようなものだったと思うなので、誰もついていかれなかったのかもしれないそれは、永遠の今との合一ではなくその応用であったと思うその存在は、個人として強烈に個を立脚させるが同時に遍在としての生命曼荼羅をその法身とし、 同時に、二者を取る中から始まるのかもしれないわからないが、個人的に思う、言える事はそれは、文明の創造に関して責任を持つ 強烈な個として生命曼荼羅としてのこの世界に立脚しており その強烈な立脚から成された応用の技は良く、その文明の生命曼荼羅としてのタオを促進するだろう  それは、曼荼羅に精通しており、曼荼羅に浸貫(しんかん)し、生命に寄り添っていて、生命の真隣(まとなり)にいる優しさがあり、 生命に対して文明に関してさらなる目覚めを促進するために優しさを持っていた「永遠の今の気づき」を得てもなお生命の苦しみに寄り添いあった結果熟考し、さらなる一歩を踏み出し永遠の今との合一を果たした永遠から離れた永遠から離れる事で創造世界に降り立つが創造世界は、もう一度、観察され、熟考された敢えて、永遠の今という真理から離れて(もちろん縁は残る)立脚した個から再び理解された  創造を促進する個としての立脚は、まだあったのだと バラバラの生命として遍在的に立脚しながら考えられたのかもしれない  なので、空海は、(空海が言う)密教を最後に持ってきたのではないだろうか※空海が言う十の心の成長のなかで●第八 一道無為心(いちどうむいしん)●第九 極無自性心(ごくむじしょうしん)この2つの心は、悟りを得た(人間)の覚者の在り様(ありよう)だと、読めば分かるかもと思う。●第十 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)ここの心を持つ者は、一般的には知られていないそれは、あの時代であれば空海という名になるのだろう。  この地球に、日本にその時あった小さな点を空海と呼ぶのならこの空海が何を行なったのか?が鍵になる事と思う。  曼荼羅精通者が曼荼羅として遍在的に実像として立脚を行う時その身体は、まるで巨大な何かを模すようでもあり それは、時間と空間という創造に対してなんらかの影響力を与える可能性があるのかもしれない。   ※ちょこっと詳しく(Wikipediaだけど )顕教衆生を教化するために姿を現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに説き顕した教え。密教真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた教えで、その奥深い教えである故に容易に明らかにできない秘密の教え。     

  • 29Mar
    • "凛"の話。 |りんの探究(たんきゅう)。~わからなくても、ワカるもの。~の画像

      "凛"の話。 |りんの探究(たんきゅう)。~わからなくても、ワカるもの。~

      いつかのまとめです読みにくいかもですが、 まとめるのを忘れてたので、思い出したので貼ります(^ ^) ------------超え を、声とし、器に響かせるのは。言霊を超えた超えを響かせるのは。器に響いてゆくのは。  深い存在の思い出が、器をかすめるときに、器に響かせるのは。懐かしいもの。  基本の基として、懐かしいものは。 "ひびき" は、音となって伝って、思い出せるのなら、ひびき をたどればいい。 けれども、それを西洋的な世界観、構造観で捉えてしまうのは、ひびきを見失ってしまう  西洋的な世界観の中には、もはや「ひびき」なく、システマチックな理解の中には、熟した果実もなく。音も聞こえない。  たどれないものをつかって、たどることができず、ひびきは、、大和言葉の深い響きの中にあるものは、、とらえられない。 (音が玉となって、ヒビをいれるのは、芯の中心にあること。)  風が、吹き込んでくるように、素直に、響かせ に呼応(こおう)したのなら、それは、凛(りん)を産むと思う。  凛(りん)は、円の中心で、非常に早い回転の中でも、かき乱されることなく芯を持ち、立っている。凛(りん)の探求においては、その凛がなす円と、まわりの人たちという円の饗宴が理解されるなかで、その凛は鮮やかさを増し、芯に深みがくわわる。 " 優しさ " が、音に、芯に、柔らかさと深みを増し、さらに深い、凛に気づかせる。凛は、ひびき を産む、それぞれがもつ色味をささえる味になる。いま、仮に、太陽が凛だとするのなら、それは周りを活かし、支え、構造のもとになっている。 個人が、凛と立つときに、ひびき が伝わるように。   凛の深度は、優しさで支えられ 中心軸は、 (もともとそうであった)わたし の純粋な喜びをしり凛の円が、凛の球が、周りの凛を響かせあう凛と凛が ひびきあう 中で、流れる ひびき をしり "ひびき" が、優しく伝えあう 無いところに探しても無い あるところに探さないとそれがある"それぞれ"の玉座に自分がもらった球を、表現できるのなら、そういうことかと思う。 こえた は、こえた 場所で理解されこえた がならす おと がそれぞれの中にあり、ひびきあうのだろう   ------------ ※ついき  凛は、いつだって忘れていた優しい中心だとするのなら凛の球を形成し凛の球は、静かな ひびきをふくませる ひびきがたおやかな流れを形成し その流れる音楽は真芯(ましん)を思い起こさせる真の芯(シン)は、存在にとって手に取る優しい水のように暖かみがある それぞれの存在の真芯が柔らかな風をたずさえているというのなら風は、どこに向かっているのだろう?    しょかりん"りん"     

    • 西洋と東洋の叡智を繋ぐ"トウメイナモノ"。の画像

      西洋と東洋の叡智を繋ぐ"トウメイナモノ"。

      新しい記事を書こうとしてたら、つぶやきのまとめを記事にしようとしてたことを思い出しました!(しかも2つ!)つぶやきだったので、ちょっと読みにくいかもですが、、、 -----------------------------西洋哲学が、神を見上げ、一体化を目指す中で、 東洋哲学は、一体であるそのものとの直接的合一、つまり合一を目撃する者目撃した者がいないこと を目指したのではないだろうか?そして、なお、その両者の背景で流れる透明なものは、共通していると思われる「透明なもの」は、それそのものが神聖な性質を示し、神秘なるものを生むなにものかだとすると 西洋哲学と、東洋哲学は、透明なものの内から産声をあげたとも言えるのかもしれない。 この「透明なもの」について言及する時に神秘なるものが流れ出す様を見るのかもしれない透明なものから発達した 神なるモノを見上げる神秘なる系統と、 神なるモノなどないくらい一体化することを目指すものという神秘なる系統は、 奥深くで手を結んでおり、 この系統樹を統合する"働きをもつもの"が進んでいくようにも思うまた、どちらも知的言及や、それに付随したピタゴラスイッチ的な人間的洞察からは その"神秘" を永遠に推し量れないことは両系統で語られているように思う 存在の領域が強くその存在の知性を主張するところに留めるからだ 老子は、儒教を元にした"学を絶つ ことに言及している存在が、遍在性に溶け込む、または、受けいられるときに 自己は、握ることができないほど 座が、遍在そのものになるだろう 遍在そのものであるとき主張すべき自己たちは、遍在の一部として別の場所から連続同時に目撃されつづける「つかむ」、「つかまない」「知る」、「知らぬ」もなく 遍在として、その全てを目撃するとき なにか忘れられた神秘との約束を思い出したように 個生命は、圧倒的、遍在的、同時生命の中のあらゆる場所として、慈悲の涙を流すだろうそれは、優しさを生みその個生命にとってはなんらかの違いを生む動きの運びとなるだろう(たぶん) 合意できる霊性としての神秘の門はありえない 合意できる個人は、遍在性と和解した上での分離した個人として門を通り過ぎるから遍在は、瞑想の頂点にあるようにも思う それは、いきとしいけるしとししせるいいあらわせあらわせぬ すべてを意味するから 個人は、強烈な生命たちとして立脚し、マンダラの質を帯びる さかのぼれば透明なる叡智がそれを支えているこの、「トウメイナル叡智」として指し示すものが、 この運動の始まりと終わりをなすものが 動きに神聖な性質を与えているというのならば この「透明さ」について2系統を通してあるいは、通さずにも学べるのかもしれない。2系統のハブとなる透明なもの は、 どちらにも橋渡ししている 右手に東洋哲学左手に西洋哲学を握るのなら神秘としての透明さはそれを可能にしているし ゆるりした場所でもう一度、両系統に色味を与えるのだろう。ただの靴職人であり、学もなかった、ヤコブ・ベーメがある日を境に恩寵が介入し さまざまなものをいきなり語り出したというのならそれは、透明なるもの に通づることで流れ出した何かだったのかもしれない。※どちらかと言えば、今、こんな気分です

  • 23Mar
  • 15Mar
    • 【複製】老子を感ずること。

      2015年の記事ですたまたま見て懐かしかったのでシェアします(^○^)----------------------老子は、あまりにも狂気的であまりにも一貫性があり、あまりにも一貫性がない彼は、自分にとって近すぎて、それを目視すらできない捉えることができないするりするりとすり抜けていく老子は、今まさに宇宙で展開される生の映像の早送りみたいだとらえた瞬間にもう、そうではなくなっている彼は龍のようで、その姿をとらえられないとらえられた姿は、誰かがとらえやすくした姿なのだそれは、そうとも捉えられる彼は、あまりにも個がしっかりしていてあまりにも個がなにものにもかわる彼は、自分を無くしていると思いきや強烈に個人でいる彼は、空気のようで目に見えないがすぐ目に入る老人でもある見た目でとらえようとすればとらえられるが簡単にはいかない多くの人が愛について語り合うが、彼は、あまりにも当たり前にそれを語りはしないそれでも彼は愛のいたるところに存在はするけれど彼は、愛からもっとも遠い場所に在る彼は、周りからは不安定に見えるが完全に安定的でもある彼は、こういう話をしないが彼は、当たり前に存在する彼は、龍に乗っていたのかもしれないが彼は、龍でもあるのかもしれない彼は、当たり前に存在しなにも構ってはいない彼は、思い悩んではいないが彼は、狂気のなかにいる彼は、あまりにも近くにいるために忘れがちになる彼は、隣に座った人かもしれない彼は、通りすがりの普通の人かもしれない彼は、あまりにもそれをなにもいわないので発見することができない彼は、知覚そのものであり彼は、強烈な個人でもある見えない個人をどうして、語れることだろう彼は、彼の狂気の世界に照らし合わせればみずみずしい。でも、彼は、みずみずしさを知覚できない彼は、みずみずしさとひとつだからだそうとらえると彼はするりと龍へと姿を変えるここまでした彼の話は何だったのか?彼は悠々と泳ぎ泰然としていてあまりにも確固であってあまりにも冷たくあまりにも暖かいそうは思ったけれど彼は、生と共にいてつかみずらい彼はどこへいってしまったのか?彼は、隣にいた彼は、すぐ隣にいた目線を変える間もなく彼は、あまりにもそこにいた彼は、反射していたすぐさま反射を捉えたが彼は、反射することをやめた彼は、体の内側にはりついていたようだあまりにもあたりまえであまりにも知らない間に彼は、自分自身のようだったどうじに彼は、外にもいた彼は、強烈に個人だった薄皮一枚のこの魂の間になにがあるのだろう?彼は、魂の余白であった彼は、生身であった彼は、とらえどころのない噴水の水のようだと思えば、彼はヒュルリと隠れてしまったどこだろう?まるで、彼はエゴのようだいつの間にか隠れていていつも目の前にいるどこだろうか無味乾燥の灰色の世界を好んでいるように見える彼は、無味乾燥の世界とひとつのようだ彼は、龍に乗っているのかもしれない彼は、あまりにも当たり前すぎて当たり前と共にいるようだ彼の姿を探せなくなったのなら彼の場所ださっきまで彼がいた場所にあなたが立ってしまっている老子はどこですか?と私は答えるあなたは微笑むと知らないと答えた私はその場を立ち去るとようやく気づいたそこにいたんですね私がもう一度老子に会いに行くと老子はあなたになっていたあなたはあまりにも老子と無関係だっただから、あまりにも関係していた老子が渡す黒い本を開けるとそこには、私が知っている老子の言葉が書いてあったそれは、私の中に書いてあるものだったもう一度閉じてあけると本には何も書いてはいなかった正確にいうと、文字は強烈に書いてあったそれでも書いてなかったのだった空白は言った道(タオ)を創り出すように私は理解した受け取りしその血潮たおやかに近づいてきては消えていった歴史もまた消えていった歴史は誰により書かれたのだろう?熟考のあとに感じてみたその問いに答える事はその問いのなかに入ってしまうその問いを置いてみよう輝かしい宝石のように歴史を書いてみよう老子はまざりなにかを示さずに示していた私は、示してあるものをおいかけるのをやめ示す という行為に熟考した熟考が追いついてきたころその本がやってきたその黒い本は皮で出来ていたタイトルは白字で老子であった読む事のできない本を書き始めることに似ている龍の背から見える景色はいかようだろう?はっきりと目視するとそれは朧げながら見えてきたそれは、歴史のはじまりの書かれている場所隅のほうでなにかがはじまりすでに書かれたものを人々が読んでいた

  • 24Nov
    • 沙門空海 、旅をする。ー 悟りに悟入(ごにゅう)した者でさえ 理解できないものー

      ある意味、多くで語られているのが自分なりに言えば空論(くうろん)な感じがしてる空の思想についての論理的な理解。だから、ほぼ、体験つまりその「空の理解」という段階をこえて悟りの体験へと直接、悟入(ごにゅう)してる話はほぼ皆無で知ったかぶりの顔で増長に語っている人たちも「空についての理解」を自分なりにして消化して話してる段階かと思うしはっきり言ってしまえばそこに何も無いというかなくもないけれどただそれだけの話に思う基本、それしか見たことない何も言ってこなかったけれど。だから、そこについての歴代の覚者たちの「真実の体験」と教えがあり、それは、変化する覚醒のタオとも言える結局は、論述体系を手に入れる事でその型となり、真実の体験は、知的な論述思考が「ああ、こうなんだろうな」と納得した狭い理解体系に留まり、とどのつまりただそこで詰まってしまった(何も知らなかった時のピュアな自分と、型の窮屈さとやたら賢ぶる様は、どんな違いがあるだろう?)詰まったからこそ、覚者たちの真実の体験が生きた とも言えるかもしれない自分は、最近、この事について話したいと思ってなかった語り合いたいと思ってもなかったただ、そう思っていたけれど違うことに気づいた自分の空海についての密教的な理解は話したい事に気づいたそこを本当は話したかったのだと空海の理解については、本当に、誰かの空海論ではなく空海自身が書いたものを直接読めばその異質さに気づくと思う多くの人が空論についての論述体系と論理的理解を披露しあうなかでなんと異質な事だろう空海の話は、空論の論理的披露しあいの場に登らないそして、みんなが理解できる部分を話し明言されていない覚者たちがそれぞれの真実の悟りの体験の中でそれぞれの立場で話したそして、それは受け取る人たちにとって必要であり役に立つものであったと思うしかし、空海の世界観を観ればそれは、理解できないと思うそして、遍在に悟入し一体となった者でも理解できないと思うもちろん、見方によってはその立場(遍在を理解する者)において遍在的な縁起(関係性)からすべて同じであると論じる事も出来るそして、その理解も役に立つしかし、空海の世界観に照らし合わせてみるとその遍在との和合も、ある辿(たど)るべき形態として見ていると思うこの事について公(おおやけ)に久しぶりに話される事について意味があるように思えてならない論理的理解な人が納得しやすいのは空(くう)についての話でありそれもまた役に立つかもしれないが直接的に極彩色のマンダラに飛び込む時個人の世界感はそれを置き去りにしその甚妙(じんみょう)さにそれまで訳知り顔をしてたのが「なんだったのか?」と思うつまりそこもまた過ぎ去る場所でしかなかったのだ空海的な世界観において自分の印象は、論理でなく感性そのもので言うとすると「荘厳(しょうごん)が遍在的に仏(ぶつ)してる」だ感性で何か感じられる人がいるとすればそれは、密教的な世界観に縁がある人かもしれない最澄の法灯から道元から何からスーパースターが出ているのは人々に、その悟りの臨在と真の悟性を伝え感化せんがため空海の法灯から一般的な人にとってのスーパースターが出てないのはなぜだろうか?根本的に識らないものそれは、その世界観に入り込めんがための空海という指針これは、語られていないいや、誰も語ることもできない論理体系にしたものを論じ合う以上に直接、マンダラの世界観に陥入するときなぜ、空海の世界観が悟りの世界観のようにまっしろや何もない様でなく徹底的な立像と極彩色であるのかを当然と思う人々は、曼荼羅(マンダラ)にだかれ曼荼羅にさそわれ曼荼羅に感化される誰もついてこれないのは密教的な世界観に選ばれて、その座についてないからだと思う誰も語られてないのはそれが悟りの法灯の千変万化する教えの1つだと思っているからだと思う誰も知らないのは、悟りに悟入した者でさえこの世界観に没入することをえらばれ入ってなければわからないから今は、世界の普遍さ と瞑想による絶対化と円熟による極まりばかり強調されるのかもしれない真実を言えば、空海を成して可能だったからと言わざるを得ない千変万化する教えのそれぞれがひとびとがそれぞれの場所で受け取るものでありそれこそが必要でありそれぞれに応じた教えが必要だと思うしかし、空海については理解を誤解されてはならないと思うだれも話してるのを見た事がないくらいのすごみを空海は、地におろしたと言うべきなのかもしれない密蔵(みつぞう:秘密の蔵)がもたらしたものを誤解されてはならないと思うもたらされたものをそれぞれの場で "出来る" 理解として縮小してもならないと思うもたらされたものをもたらされたものとしてもたらされたものがもたらされたものとして真言における密蔵が深く伝えた叡智がその叡智たらんそのままの言説不可の叡智としてそしてそれは、悟りに悟入するためというだけの理解として誤解されないようにそれはおそらく人々を助けるためにもたらされた自分は、無宗教だだからこそ、ここをどういう意味なのか全体として受け渡しそれが他の分野の統合にも役に立てれば幸いだと思う自分の今世の役割の1つが真言歌についての宗教から完全に離れた一般人的な視点からの再構築だと知る時その意味を知る再びされる必要がある話を再びされる必要があったおそらく、される時代だからこそのためにその深妙(じんみょう)たるさまは、これまでの悟入の理解だけではなくそこから離れ再び分離しあえてマンダラを見上げるゆえの発見があった分離した生命という光を知らない無明の生命として再び在ることで悟入(ごにゅう)の理解は慣らされ悟入と悟出を繰り返すのち空海さらなる生命のために大きな責任を負うそれは、生命しかみてないからこその光そして、その準備が出来たからこそのマンダラの理解それは、どこからかもたらされた叡智を届けんがため沙門空海、旅をする地にもたらされた叡智は暖められ届けられるために保護された空海はそれを確信したのち1人、生命を全うするだれも理解できなかった智性は、知性により理解されたのではなかったマンダラ陥入者によりそれは直接、言説不可の叡智としてさずけられんことを世界観は、遍在を理解するためではなかったその世界観は、遍在と深く関わりを持ちその性質が磨かれ応用されたものとしてもたらされた誰もここを言説により断定できないもはや断定する個は、ここにおいては遍在する秘密主によってとってかわり遍在を真に共有する友愛をもつ者としての性質を帯びるからだここは、その性質をもたない個の 思考的、論理的努力が介在できない者でそれは、遍在と和解しているという根本的理解を持つ知的な遊びで満足する者はする者として生命を生きるがそれをやすやすと捨てるのが空海な人生の凄みであり生命を想う心の深さ ゆえにだと思う自分の面倒を見ることが好きな人たちが中途半端な理解で自己を満足させて人に自慢げに話す事で自尊心と信者(のような人たち)を獲得した彼らは、空(くう)の理解を語り合うがその実体が空である以上そういった幻想の囚われてる事に気づく 時がやってくることを願ってやまないし出直してこいと言いたい空海が歩いた道を振り返る時彼のもたらした叡智からふりかえる時はじめて知らなかった空海に触れることなるのかもしれないそれは、マンダラへの直接的な理解であった風をきって生きた空海その歩みはまさに大曼荼羅かのよう黄金の空間でなる緑色の鐘は優しく叡智との縁(えん)を再びとりもつそれは、巨大な仏と2体の応化仏とのあいだにある黄金の灌頂(かんじょう)頭にハスの葉からしたたされた水は深身に深くねづいてくる発露は、賢しい知ではなく、素から素のもとからこの地に再びそそがれる。-----------PS:こういう空海の話はときどきしたい方です

  • 20Nov
    • 空海について想うこと 〜吽字義(うんじぎ)の感想〜

      の動画を撮ろうとしてるんだけども空海の著書を読んでいると、とんでもなさに気づくって思う。多くの人は、四国のお遍路とかのイメージがあると思うけれど空海についての本とかも読んだことあると思うけれど空海の語ったことってほとんど知られてないと思う。空海が書いたものを読むとここまで精緻に吟味されて推しはかられ、書かれてるものに圧倒されると思う 吽字義(うんじぎ)という本があって阿吽(あうん)の呼吸のうん の字に注目した本でその中で空海は一大体系を述べてるのだけどこれが非常に興味深く仏教用語でクラクラするかもだけれどあたりまえなのでジャンジャン飛ばしながらでも眺めてみてほしい。「吽字(うんじ)の中に訶字(あじ)があり、これは因縁の意味であります。こう考えれば、因縁によって生ずるあらゆる教えが含まれていますし、それらの教えも、外道(仏教以外の教え)、二乗(声聞乗と縁覚乗、南方仏教、小乗仏教)及び大乗諸教が含まれ、それらの教えがそれぞれ勝手に主張し合い争い合って自分の教えこそ最もすぐれているといい張るのですが、それはいずれも正しくないのです。外道、二乗、大乗諸宗で、人有り、法有り、因あり、果あり、常あり、我ありといって有に執着していますが、これらは麼字の一点(空点)の中におさまってしまうものです。これらは有に執着するという意味で増益の一辺に片よってしまっていて、いまだ中道の正観を得ておりません。またこれと逆に人無し、法無し、因果無し、常なし、我なしなどと断定するのもこれも無の一辺に執着しているのであって中道に立っていないのですが、こうした種々の見方はすべて汙字の一点の中に含み尽くされているのです。もし空に非ず、有に非ず、非常、非断、非一、非異などに執着する見方は、阿字の中の非の義(前出)の中に含まれるものであり、不生、不滅、不増、不減などのいわゆる八不に執着する見方は、阿字の中の不の義(前出)の中に含み尽くされております。さらにまた、無色、無形、無言、無説などと執着している見方は、これも阿字の中の無の義に含まれ尽くしているのです。そしてこれも真実の義とは言えないもので、これらは皆、すべてを否定しながら真実に迫ろうとする立場であり極端な見方であります。これらの偏見を持った人々は、この世における真言密教の密号とか名字のありさまとか、大日如来の真実語とか如義語を知らない者たちなのであって、彼らの用いるあらゆる言説、思惟、修行といったものは、みな正しくないといえるのです。あえていえば誤っているのです。最も奥の深い真言密教の教えを知らないからです。--吽字義(うんじぎ)より抜粋〜角川ソフィア文庫の訳より〜」これは、空海が言わんとしてるところは、世の中にある無を主張する人や虚無主義などさまざまな教えの中で偏りがあり、本意気ではなく真実ではないってのを語ってるのだけれど途中の道半ばにいるものたちが多く陥ってしまうことをそうではないと語っているもちろん空海は、真言密教なので大日経ゆらいの密教の重要さを語っているそして、個人的に思うのは、空海の理解はもはや、通常の遍在の体験的理解(悟りの本懐)をもってしても近づけないものであるように思うまず仏教に惹かれる人は、空(くう)を知り、それを目指すと思うそれは、ある生命が生命自身の本質を問う中で生きた学びの中で進んでいくそして、空で在りたいと思いそれを想い目指し一体化しようとするそして、空の思想ではなく悟りそのものに貫通する事でそこがゴールだと思うもちろん、切り離された個体生命がその命の本懐である悟りを得る事は、ゴールだろうしかし、その遍在性を立脚にするとそこはゴールから通過した存在への光輝な道に変わると思うここで、存在は、ある理由から、その場を離れようとする(さらに大きな責任を担おうとする)ときに、自分が経た境地すら離れようと思う遍在を横に置いといて再び熟考するそして、思い立ってマンダラ(遍在的な命たち)から離れて独り、再度離れたところで存在を確逸(かくいつ)するつまり、マンダラ(遍在性)を識ってはいるが離れた個人として世界に降り立つなので世界はカラフルな極彩色にみえる空と極彩色が一致しているつまり、存在が人間の思念を離れる中でついに得た繋がりをバラバラの世界に切り離された遍在から離れた自己として完全に見出す無色の中に見つけようと己を空しくしてみつけようとしたものを完全な個人の中であらゆるものに見出すここで行われる身技にはジャンプがあるここを空海は、真言密教という立場で捉えて使っていたかと思うが遍在を目指す世界においては理解される事はなく空海は、遍在性が体得されとうぜんの世界から来たかのようだ遍在性を、目指す世界線においては、悟りが目指され遍在性を、常用のものにする世界線から来た者は悟りが応用されるそれは、遍在に執着しないそれは、遍在を身技に困る事で世界の目覚めを促進しようとするなので、空海は、在る こと について多感に喋ってないと思うこれは、空海は、さらに上の世界線というか世界観から来た可能性があるように思うそれは、遍在性という世界の中に自己を創り出しマンダラ(遍在性)の身技を持って行われる一連の行(ぎょう)に思われるしかし、これ以上語るのは空海が顕教(けんぎょう:言葉で表せられる教え)ののちに密教(言葉であらわせない教え)を置いたように理解や、知的理解という浅はかなもの を超えて機根(きこん: 向いている事)がある者にふさわしいのだと思う思う、、、がこの空海の世界観と立脚は、あらゆる宗教においても参考になると思うあらゆるものを包含できるある特殊な立脚があの時代にあったその地球における点その小さな場所に存在した名前を 空海と呼んだのだろう時代は、まだ、気づかないしかし、真言密教の優先をとくのではなく(自分は無宗教なので)彼の示した指針は、とんでもない域にあり時代が彼の指針を正着として学ぶ時代が来ると思うそれは、到達すること ではなく到達した生命が他の生命に出来るあらゆることを熟考した結果歩んだ歩みにもたらされたある特殊なタオと言えるのかもしれない。

  • 15Oct
    • 『明治維新という名の洗脳』の画像

      『明治維新という名の洗脳』

      めちゃくちゃ面白かった。長州が武器を買うお金は、どこで蓄えられてたか? 萩藩(長州)最後の藩主は、旧藩から受け継いだ財産を明治天皇に献上したが、それは50兆円を超える金額だった 財政がひっぱくするなかで、どこにそのお金があったのか? そして、新政府の中枢にいすわったのは、その仕組みを作った者たちだった。 その仕組みは受け継がれ 現代で、それは、特別会計と呼ばれている。 ---------------------- 戦争時には、その開催国の通貨の信用度が落ちるとともに暴落する 外資系銀行がやってきて、そこが貸し出す国際 流通通貨を使用せねばいけなくなる そして、さかのぼれば、通貨発行権を持つ中央銀行をおさえている者たちもあらわれる。 明治を国同士で見るのではなく、国際金融家もからめてみると何かが見えてくるのかもしれない 仮に、ある種の洗脳があるとしたら、自分たちでもう一度考えてみようと思わせてくれる本だった  NHKを作ったのが、GHQの民間情報教育局なんて知らなかった。  ・・しかし、興味深い時代だ文明の気づきの量が増していけば、こういう動きが起きてくんだろうか? この時代の中で、人々の気づきを増やしている人たちが陰で行う努力が、 少し先の、、、ずっと先の未来を創造していっているのかもしれない。  

  • 02Oct
    • かならず終わってしまう僕たちの人生のなかで、 「これが良かった」と言える人生はあるのだろうか?

      かならず終わってしまう人生のなかで、「すでに知っている幸せ」の再上映を延々と繰り返し、かならずやってくる死がやってきた時に、深い部分で正直に「これが良かった」と言えるのだろうか。   ある日、自分を襲った経験は、突如としておこり、次の瞬間にあらゆる場所に強烈に遍在していた この経験から個人に戻り、個人として生きる人生がやってきた その中で自問されたのは、あらゆる生命と非生命を同時に経験した中で、何を経験したいというのだろう? という事だった。 そこには、「いま ここ」という深い安らぎがあったが、今回の自分の人生では納得出来なかった 存在が求め続けた言い当てられなかった「深い安らぎ」に到達した後で何をするというのだろう? 安らぎを求めた存在は、安らぎを得た後で、目標が消え去っていた けれども、目標が消えて、深い安らぎそして、全生命の中に浸透する深い遍在する気づきは、今回のゴールではなかった 探したかった目標は、探し当てた目標に変わり、 しばらくすると、次の目標がおぼろげながら見えてくる 自分にとってのそれは、「全生命の進化に貢献する」 という目標だった その目標の中に、さらに小さな目標たちが見えてきた 個人的な本当の人生の目的のように思えた。  学生時代に、勉強する周りの人たちを見て、これが何だというのだろう?と思った 永続性の無いものに見えたし、 「答え」にも思えなかった 興味が無かった 大学にいったら、自問自答の日々が始まった 「何を」したいのだろう私は、「だれ」なんだろう?「なん」なんだろう 社会が持っていた答え、社会人たちが言う答えに、 意味は分かっても、心底共感は出来なかったし かといって、答えもわからなかった  ある日、会社でやりたい事を全部やれていて満足していたとき、だけれども、これでいいのだろうか?と思った。 本当に、ソコに何があるのだろう? 小さな幸せでもいいじゃん毎日がそれならばって気休めの言葉もあった。 けれど、本当の本当の本当のところでは、それは気休めの処方箋のようなものでしかなく、納得してはいなかった そんな矢先、あれがあった 膨大な経験のただなか真ん中に来たかのようだった 人生にとって、神聖な瞬間だったと思う それは、すべての気休めをかき消した あらゆる場所で遍在しながら遍在は、まるで合掌していたかのようで ジブンニキヅイタと言えるのかもしれない。  なぜ、あのような事が起きたんだろう  人生という深い神秘そして深い価値に気づいたきもした 「私は、ここにいるんだ」  ちょうど、アバターコースを受ける1週間ほど前の出来事だった avatarという言葉には、 avaと、tara下を 通ってという意味もあるらしい。 私にとってまさに 下を 通って この現実界を通ってなにをするべきかの答えが始まった気がした  それは、人の目覚めに関する事だった  まるで、お膳立てされてるかのようにそれは、始まったのだった  無限定に気づいているだけのことではない それを知った存在が意図的に文明を生きるとき、 文明はより良くなることが出来るだろうか?という壮大な問いかけへの始まりだった ある賢者が目覚めた上で十分に長い生を送ったならば 永遠そのものと同じ性質であるその一部である私たちは、 〈力〉としてそれを文明のために使う事は出来るだろうか?  (これについては、インサイドアバターの本をご覧いただきたい)  私は、前のどこかで会っていた師に再開した瞬間だったのかもしれない 運命は、それを私の戸口に運んできたのだった。※右上の・・・から日本語選択できますと思ったけど、スマホだったら「you tube」の部分をタップして、その先で画面を拡大するとデカ字で見れます。「覚醒した星の文明を創るのは、野心に満ちた仕事です。しかし、不可能な仕事ではありません。--ハリーパルマー」

  • 23Sep
    • 【京都の鬼門】比叡山延暦寺とソコにいた存在の画像

      【京都の鬼門】比叡山延暦寺とソコにいた存在

      夢の中の話として聞いてください♪ 京都の鬼門?と言われているらしい比叡山延暦寺。そこに待っていたものとは。。。 謎の楽しい冒険を謎だなぁと思いながら進んでいます役小角(えんのおづぬ)のおひざもと、金峰山寺にもしその時を待っていた 鬼がいたとしたら  陰陽の祖がいたとしたら、契約としてその存在を活かせるのでしょうか?  比叡山延暦寺に行く方は、動画でも言ってますが、家族連れは、レンタカーで行ってくださいね!笑

  • 06Sep
    • 【 岡本太郎が絵を見て生涯2度だけ涙した。】の画像

      【 岡本太郎が絵を見て生涯2度だけ涙した。】

      【岡本太郎が絵を見て生涯2度だけ涙した】 「私は鑑賞者として感激したのではない。創る者として、揺り動かして来る強い時代的共感に打たれたのであった。 言い換えれば、作品の完成された美に打たれたのではない。 創作者の動的な世界観に、私の意志が強烈にゆすぶられたのだ。 これらがあたかも自分自身の魂の所産のようにさえ感じられたからだ。 完成された古典美には陶酔感、幸福感は味わえても、このような力は亨(う)けない。 -----------もう一度言ってみたい。私の流した涙は鑑賞者としての感動ではなかった。 創作者として、同じ時代の悩みを悩み、たくましく正面からぶつかって進んで行く先達者の姿に 全身をもって感激し、涙が眼からふきでたのである。 それは恐ろしい力となって亨くるものを歓喜させ奮い立たせる 私は身を翻すように抽象画の道に突入して行った。 概念で覚えた過去のすべての芸術様式を切り捨て、もっとも簡明な抽象に還元させて それからあらためて自分の道を進んでいこうと思った。  --セザンヌとピカソのある絵に生涯2度だけ涙を流したことを語る岡本太郎」  ・・・最近、絵を描いていて初めて涙が出た 自分は、その絵がどこがいいかまったくわからなかった いわゆる壮麗で綺麗で、美しくハッとして、迫力があって というものではない 「こう書けば共感が得られ、キレイと思われる」という自分を否定するような絵だ 賭けてジブンを超える絵ではなく その意気込みもないが理由が分からない絵 途中で止めているその絵を今、見返しても何がいいのかわからない おおよその共感もえられない 自分ですら ・・たぶん、自分がその絵に追いつけてないんだろう 理解できる範疇を越えてるんだろう  モチーフは、先に捉えてあるがこのモチーフが何を意味するのか何を現しているのかさっぱりわからない このモチーフを出したいと思う この絵が問いかけてるものを直視したいと思う 自分が描く絵にジブンが向き合わされるのは変な気分だが。。 モチーフは、瞬間的に先に捉えてある 捉えてあるが、この絵のモチーフがどの空間のどの座標にあるか謎だ 謎なその絵は自分に涙を流させたが理由もわからない 岡本太郎さんの本を読んでいて、魂を打ち震わせる感銘を受けた話がのっていた 自分にとっては、あのモチーフをとらえ、出し、触れることが筋道なのかもしれない。

  • 03Sep
    • 平野啓一郎さんの「日蝕」を、読んで。の画像

      平野啓一郎さんの「日蝕」を、読んで。

      久しぶりに小説を読んだ。三島由紀夫の再来と言われた人の小説だった。 『蒼穹(そら)には燦爛(さんらん)と虹が赫(かがや)いていた。』 蓋し(けだし:思うに )、漢字が難しかった 笑 内容は、中世ヨーロッパにおける錬金術師と、主人公である「私」の内容だった。 筆者が当時23才でこの本がデビュー作だとしたら、他に書ける人がいるのだろうかと思うほどの文体と、着目点だった。 筆者は、宗教的な神秘つまり、教義を超えたなにかに"物理的に "、しかも、それを "超えて"表現したかったのだろうと思う。 いいかえれば、身近に、現代的なみんなが思慮できるところをおさえつつ、 その延長にあっても、思慮することのない、本懐を伝えようとしたのだろう。 これが、評価されたのが意外だった はねのけられるような部分を突きつけて、読者に謎をせまった。 この本当の価値は、迫られた読者がその謎の余韻に想いをひたし その向こうをその両目を通して思いやろうとする中に 微かにある錬金術師が伝えたかった本丸についての 微かな同じ問いへの衝動が生まれる事にあるだろう それを、現代の人たちに、ある種のなまめかしさをもった「こんにち」の問題として考えせしめた事が その大きな仕事の役割であっただろう事を考えたい。 思わず、文章が小説よりに成ってしまったのは、それが普段小説を読まない者が 俄(にわ)かにそれに触れ得意げになった子供がヒーローの真似をするようなものだという事に ひどく憧憬(どうけい)を感じながら、ここに記しておきたいと思ったことにある種の驚きを感じ得たからである

  • 22Aug
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      天翔る龍(あまかけるりゅう)

      やはらかい 場所はむすひ 結ばれて 結(ゆい)となりむすばれたところは、明日へと続く未来(みらひ)となる。 音は、直線となって、走る 眠りと目覚めの中にない音はたおやかに〈流れ〉ている流れは、理解に曲解され生きている欺瞞となった 新たな音はたおやかで自然ゆえにぬるりと指のあいだを通り抜けてゆく 掴んだ 成ったを止めてふっと身を通して成ってみる 力量は忘れられ 普通の身体と成った 羅針は、最初から示していたが 誰もわからぬ昔話のようだ 見据えた流れの直上 一直線に川は流れる ゴオッと川は向こうに向かって 流れている  

  • 03Aug
    • 押さえた場所が、あんまり心地よかったから。

      押さえた場所が、あまりに心地よかったから 私は、その場所にいる私を私の本文だと思いはじめた 押さえた場所が、あまりに心地よかったから、私はこの世界に関してそれ以上のことは無いと言い聞かせた  押さえた場所をあまりに、みんなが見せつけ合うので、わたしもまた、その場所でいいのだなと思った  あまりにもたくさんに人が同意してそれ以外の世界を見ようとしなかったから 私は、自分自身のことを幸せに思った あまりに、納得できたから私は、世界についての関心を失ったしなびたふさぎこんだ心と共に ある日、風が吹いた 宇宙が動き、すべての場所が変わると言う 私は、押さえこんだ場所があまりに自分なりに納得して幸せに思ってこれ以上無いと思った  優しい風が頬をなでた 意固地になった自分の周りには生命が躍動していた  意固地になった無感覚な自分はまるで幻想のよう  気づかせてくれたのは、生命の苦しみだった 目を塞げば、何も見えず 何も見なければ納得させられた 深く鎮座する苦しみ と 私は、頬をなぜた優しい風に感謝し 立ち上がる  世界平和をやるにはいい時代だ。

  • 29Jul
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      オリンピックのピクトグラムと小林賢太郎(ラーメンズ)

      オリンピックのこのピクトグラムが、人気があるってことで、めっちゃ嬉しく思った。解任されちゃったけど、このアイデアは、小林賢太郎さんのアイデアだと思う。(ラーメンズは、動画のチャンネルをすべて寄付に回していて、過去に自分が見た限り、さげすむようなネタは見たことがない。)ぼくは、DVDを買うことがめったになく、これまでに5枚も買ってないと思う。そして、お笑いのDVDで唯一買ったことがあるのが、ラーメンズ(小林賢太郎&片桐仁)のDVDだった。 たまたま、ラーメンズのドラマチックカウントを見て、めっちゃ凄い!!面白い!って思ってあまりにも衝撃を受けたシュールな笑いが面白かったし、自分は、ドはまりしてたけど、周りにはあんまり知っている人もいなかっためちゃイケとか、ダウンタウン世代なんだけどラーメンズだけは違って見えた。後でわかったけど、彼らが美大だったからかもしれない。三本組のDVDを買って、何回も見たあった!笑これこれ!!Amazon | ラーメンズ DVD-BOX | お笑い・バラエティラーメンズ, ラーメンズ お笑い・バラエティDVD・Blu-rayはアマゾンで予約・購入。お急ぎ便ご利用で発売日前日に商品を受け取り可能。通常配送無料(一部除く)。www.amazon.co.jp芸術作品みたいで、ずっと見てたお笑いというか、なんだろうこれ、、、こんなの作れるんだ。。。って思った今回、ピクトグラムが人気でとにかく、すんごい嬉しい!!彼らの仕事が評価されたようで、あの頃の長崎にいてDVDを見ていた自分を懐かしく思い出したよければ、ラーメンズと小林賢太郎さんのチャンネルも見てみてくださいピクトグラム好きな方は、こっちのパントマイムも面白いと思う!それでは、当時はまっていた&その後見ていた青春メドレーを貼り付けて終わりにしたいと思います 笑(よかったら、ラーメンズの上に貼ったDVDも買ってみてね!四枚組でお得です!各公演のテーマがあるみたいで、通しで見ると違った印象があります。新品でね!笑)いやぁ、めっちゃ懐かしいわww勉強ってタイトルの公演の勉強という謎の男とのコントプーチンとマーチンホコサキさん 笑条例は、前のコントの和歌風に喋れって条例がでたら、お前それにすら従いそうだなってくだりから来ています途中の変化のたたみかけがめっちゃ面白いwこれは、ギリジンという謎のヒーロー?が、路上で観客からパフォーマンスでお金をもらおうとしているの図です 笑当時、歌だけを別の人が歌ったりして流行ってたwこれは、時間ある人向け、飛ばして見てもわかりませんロングコントで、ヒヤリとするような内容です(25分くらいあるので後で時間ある時見てね)よくこんなの、通しでできるなぁって当時思ってた最後は、夏が好きなので、夏休みを日本の形シリーズは、交際が一番好きでしたが、残念ながら、公式からはアップされてませんでしたもし、ラーメンズが気になった方は、当時買ったこちらのDVDが4公演まとめてあるので、見てみてくださいいやー、懐かしい。。。そして、ピクトグラムが評価されてよかったなぁ。。。Amazon | ラーメンズ DVD-BOX | お笑い・バラエティラーメンズ, ラーメンズ お笑い・バラエティDVD・Blu-rayはアマゾンで予約・購入。お急ぎ便ご利用で発売日前日に商品を受け取り可能。通常配送無料(一部除く)。www.amazon.co.jpこれも持ってたなぁプーチンマーチン懐かしい 笑Amazon | Rahmens 0001 select [DVD] | お笑い・バラエティラーメンズ, ラーメンズ お笑い・バラエティDVD・Blu-rayはアマゾンで予約・購入。お急ぎ便ご利用で発売日前日に商品を受け取り可能。通常配送無料(一部除く)。www.amazon.co.jp

  • 16Jul
    • 映画『太陽の子』試写会の感想の画像

      映画『太陽の子』試写会の感想

      試写会がよくわからないまま当たったので、『太陽の子』を見てきた。三浦春馬さん好きな人は、たまらないと思う。。なんというか、戦争の余韻が凄い。等身大の戦争というか、戦争は日常に本当にあった話なんだって思った。長崎の原爆資料館で、惨さや、黙祷したりとか、知ってるつもりだったけど、当時色んな悔しさがあったんだなと。最近見てきた映画がいい意味でドラマチックでエンターテイメントだった。けど、この映画は、当時いた人たちの日常に入り込む、日常で浸りこむ戦争のようだった。たしかに、あの日、あの時、同じ日本の人たち、若者たちがあの夏を生きていて、"あの夏"の悔しさがあったのだと。個人的には、めっちゃ考えさせられた。あの夏、その場所に、自分がいたら何が出来ていた、何をするんだろう?と思った。戦争というスケールのデカさに、「何もできやしない。。」と思った。けれど、考えてたら、、個人的には、「教えは残る」とインスピレーションを感じた。キリストやブッダが残した教えは、何千年も残り人々を救っているあぁ、だから、今と同じことをするんだろうとインスパイアされた。神聖な何かは受け継がれてゆく。千年先を見すえて、文明が良くなる責任を持って、最善手の一手を指し続ければ良いのだと。歴史は、前に進んでゆく。キリストとブッダが蒔いたように、良い種を蒔いていきたい。最終的に、なんか、ホッとした最悪の時代を歴史が紡ぎだしたとしてもそれは、巨大な歴史というスケールで通り過ぎてゆくできれば、未来に咲かせる花も確認されたい。---映画は、京都大学と京都大学の学生で開発を進められた「F研究」日本の原子爆弾研究の内容です。熱い夏に始まりますので、ぜひ、熱い夏を感じて下さいめずらしい、科学者側の葛藤ですなんというか、、、三浦春馬さんもあいまって泣いちゃいました"今、これからどうしていくんだ"という事を考えさせる余韻が凄いです  後の彼らが、発展していく日本の中で幸せであって欲しいと願います余韻が残る映画ですなんと言っていいかわかりませんその余韻は、いつもと違う夏を縁どる印象を持っていると思いますぜひ、見てみてください。