2019年1月下旬、仕事で、千代田区役所方面に出かけたんですが、その際、区役所の敷地の一角に、案内板を発見。
その案内板に近づくと、「大隈重信侯 雉子橋邸跡」とあります。
早稲田大学の創立した大隈重信は、明治新政府に出仕し大蔵卿等を歴任し、日本国の「円」の創設に力を尽く、内閣総理大臣を二度務め、近代国家の基礎作りに貢献しました。
明治9年(1876)10月から明治17年(1884)3月まで、この雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、明治15年(1882)創立の早稲田大学の前身の東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
こんな由緒書きも。「江戸幕府蔵屋敷の礎石」。江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属の家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。
平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことが分かり、ここの設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。
礎石の配列から、2棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657)で焼失したと考えられます。
礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え、小さな石材は床を支える基礎と考えられます。
「大隈重信邸跡」
近世になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には大隈重信が邸宅を構えます。
その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て、現代を迎えます。
へぇ~ここ千代田区役所は、かつて、大隈重信の屋敷があったんですね。知らなかった…(^^;
それと、礎石の存在がよく分からず…暗くなっていたからかな?(^^;
千代田区役所の目の前は、江戸城のお濠があって…
大きな玉ねぎ、日本武道館も見えました♪
この先には、清水門があります。
江戸城清水門は、以前レポしていますので、詳しくは、そちらをどうぞ。
この日は、もう暗くなっていたので、ここで、引き返しました。
江戸城清水門のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12483425701.html
2019年2月中旬に、仕事で、丸の内に出かける用事があったのですが、皇居内堀沿いに、昔のビルが残っていて、一般公開しているのというので、立ち寄ってみました。
そのビルは、こちら。「明治生命館」。
入口の上には、「明治安田生命保険相互会社」とあります。
入口上の柱が特徴的だな~スゴい!
アーチ形の窓も、歴史を感じさせてくれます。
その窓のサッシも重厚感あるな~♪
見学できる内部に入ります。
エレベーター。こちらもまた、古そう。
エレベーターの制御盤でしょうか、今では見かけない代物です。
廊下にも、見かけないものが…
近づいてみると、「私設郵便函」とあって…。そうか!上階にも同じような郵便箱があって、投函すると1階まで落ちて、郵便局員が回収できるようになっているのか!
公開されているラウンジ部分に入って…おお~重厚感ある空間だこと!
天井が高くて、細部の彫刻が施されていて…
模型もありました!
裏側に回って…
『明治生命館の建築「外観」』という説明パネル。意匠は古典主義様式で、ひときわ印象的なのは、お堀端に面した外観。荒石積みの基壇階の上に、5層分を貫く巨大なコリント式の列柱が立ち並び圧倒的な力強さを見せています。
外装石材には、岡山県北木島産の花崗岩が用いられ、総数量は10万切に及び、2ヶ年に渡り1日平均200人が採掘運搬に従事したと伝えられています。
鉄骨鉄筋コンクリート造、地上8階、地下2階。
昭和9年(1934)3月創建。
設計は、岡田信一郎。施工は竹中工務店。
『明治生命館の建築「内観」』。
2層吹き抜けの店頭営業室と廻廊、この展示会場の面接2層吹き抜けのラウンジなどでは、イタリア産ポティチーノクラシコを始めとする各種大理石が用いられています。
2階の応接室、会議室などの主要室では、木材が主役を演じており、外国産のチーク材やウォルナット材を多用しつつ、コーニス、木製パネルなどの造作が見られ、一部にはスパニッシュ様式を取り入れた演出も行われています。
『明治生命館の足跡1「誕生」』
現在の明治生命館が建設される以前は、明治28年(1895)に完成した「三菱二号館」と呼ばれる建物が建っていて、これが「旧明治生命館」です。
設計は英国人建築家J.コンドルと愛弟子の曽禰達蔵。
当時、「三菱ヶ原」と呼ばれた茫々たる草原に突然出現した洋風建築は、人々の度肝を抜け、後には「一丁倫敦」と呼ばれる煉瓦街が出現します。
新社屋建設が昭和3年(1928)に決定。
設計を依頼された建築顧問の曽禰達蔵は、指名コンペ方式を提案し、当時を代表する建築家8名を選出、採用されたのが東京美術学校(現東京芸術大学)教授の岡田信一郎による設計案です。
当初は旧館を残し隣接して新館を建設する予定でしたが、「新旧両敷地を合わせた大建築こそ理想」とする岡田の進言により、旧館の取り壊しが決定。
起工は昭和5年(1930)9月。まもなく岡田は病に伏し、翌々年4月に急逝。
当初から設計に参画していた実弟の岡田捷五郎が後任に就き、昭和9年3月31日に竣工しました。
曽禰達蔵と言えば、佐賀県唐津出身の建築家で、辰野金吾と一緒に建築を学んだ人物ですね。
唐津にある「旧唐津銀行本店」には、曽禰達蔵の胸像がありましたね~
それと、唐津にある「旧三菱合資会社唐津支店本館」も、曽禰達蔵が建築顧問だったそうで…
旧唐津銀行本店にある曽禰達蔵胸像のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12201171286.html
旧三菱合資会社唐津支店本館のレポ
https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12235827536.html
『明治生命館の足跡2「戦中戦後」』
竣工して10年も満たない明治生命館は、第二次世界大戦の荒波に翻弄され、昭和16年(1941)の金属回収令ではブロンズ製のドア手摺、照明器具など意匠的に優れ芸術的価値の高い金属製品が供出されましたが、本土空襲が激化する中、明治生命館はその被害を逃れ、戦禍をくぐり抜けることができたことは、幸運だったと言えます。
昭和20年(1945)GHQ(連合国軍総司令部)は日比谷の第一生命館を接収、明治生命館は米極東空軍司令部(FEAF)として使用するため接収命令を下しました。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)」が開催され、昭和21年(1946)4月5日、その第1回には、連合国軍総司令官D.マッカーサーが演説を行いました。
対日理事会は隔週毎に行われ、サンフランシスコ講和条約が発効され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回開催されました。
米軍からの返還が正式決定されたのは昭和31年(1956)で、同年7月18日に明治生命館屋上で返還式が挙行され、星条旗に代わり日章旗が掲げられました。
『明治生命館の足跡3「改修」』
明治生命館はこれまでに何度か改修・改変を受けていて、1回目は線自由の金属供出とそれに伴う仮補修、2回目は接収中の米軍によるもので、間仕切りや床の模様替え、壁・天井を青や緑のペンキで塗り立てる等、意匠的価値を無視したものでした。
3回目は、返還後の復旧工事で、岡田捷五郎が復旧のための営繕委員会の相談役として関わり、戦時中・接収中に改変された箇所を復元。
平成9年に、重要文化財に指定されました。
こんな模型も…。
この模型は、「旧明治生命館」。
「旧明治生命館」は、旧名称第2号館、設計者ジョサイア・コンドル、曽禰達蔵。
建築主は三菱合資会社、事業主体明治生命保険。石造の地下1階、地上2階、一部3階。
「旧明治生命館」を別角度から…
裏側からも…この建屋が残っていたら…
2階も見学できるのですが、この日は時間がなくて、別の仕事に向かったので見学できず…(涙)
また日を改めて、見学しに行きたいと思った次第で…
しかし、丸の内は、どんどんビルが建て替わって高層化していますが、昔の建屋を残しながら、建て替えしているものが増えているようです。
それに、昭和初期竣工の建屋が、今も現役で使用されているというのは、スゴイことですね(^^)
丸の内界隈もまた散策してみましょうか。
大隈重信邸跡
東京都千代田区九段南1-2-1(千代田区役所)
明治生命館
東京都千代田区丸の内2-1-1
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