フェアネスやジャスティスよりも『村の秩序』 | 北奥のドライバー

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思いついた事をつらつらと書いて行こうと思います。

「公正世界仮説」という心理メカニズムをご存じでしょうか?

 

これは「世界は原則的に公正であり、善い行いを行えば必ず良い結果を得られ、逆に不心得だったり怠惰な者は必ずその分だけ罰としての災いを受ける。基本的にまともな努力をした者が不幸に陥る事はあり得ない」といった認知バイアスの一種です。

 

こういった認知バイアスの強い人間というのは、この「構成世界仮説」の大原則に当てはまらない想定外の好ましからざる事態が発生すると、脳の認知機能が一旦混乱をきたしたようになり、最終的には「むしろ被害者・弱者側に大きな問題があったに違いない」と考え、無意識に自己の中にある矛盾を埋め合わせようとします。

 

例えばですが、日本では性犯罪が発生すると加害者はさして批判されず、寧ろ「男を挑発するような服装や振る舞いをした被害者の方に原因がある」などと批判されることも多いわけですが(こういった話は性被害者の手記、ブログ等で山のように出てきます)、これも上記のそれと同じメカニズムだと思われます。

 

また、度々起こる生活保護受給者や貧困者、所謂「エッセンシャルワーカー」といったブルーカラー的な現場労働者に対する心無い差別発言やバッシングを看過する社会構造も、この「公正世界仮説」がもたらした認知バイアスによるものでしょう。

 

更に言えば、学校や会社内で起こる「イジメ」における「寧ろいじめられる側にこそ原因や責任があった」といった考え方も、この範疇に入るでしょうね。

 

しかし、こういった主張をする人達は、この「公正世界仮説」の原則に当てはまらない現実に突き当たると、「日本社会は安全であり、常に公正なゼロサム的秩序で回っている」という、自らの規範である(場合によっては自らの不道徳を正当化してきた)物語が崩壊しかねない状況に陥ります

 

その『物語の崩壊』から逃れる為に「被害者・敗者とされる側の行いに、より多くの問題があった筈だ」という解釈を無意識の内に自己生成し、自身の中にある認知的不協和を埋め合わせようとするのです。

 

その結果起こるのが不可抗力であったり、或いは本人に法的な権利があるようなケースですら権利の行使を抑圧したり、又は人格否定に繋がる批判を行う人間の大量発生だったのだと思われます。

 

そういえば、2020年に大阪大学の三浦麻子教授らの調査によって「コロナ感染は自業自得だと思うか?」というアンケート調査が行われました。その結果は「そう思う」の他に「ややそう思う」といった回答を含めると

 

日本人:11.5%、

 

米国人:1.0%、

 

英国人:1.49%、

 

イタリア人:2.51%、

 

中国人:4.83%

 

……とまあ、日本人は比較して高い水準でありました。

 

因みに「全く自業自得だとは思わない」と回答した人の割合は他の国で概ね60~70%台だったのに対して、日本は29.25%、つまり三割弱しかありませんでした。

 

……この調査自体に関しては個人的に新味は感じません。何故ならコロナ以前の時代から様々な研究機関が先進国を対象に行ってきた意識調査を見ても、概ね日本人はこの手の「自己責任論」と親和性が高く、「役立たずは叩かれて当然」、「困り事があっても他者や公的機関に頼るのは恥ずべき行為」といった思想的傾向が他国のそれよりも顕著なのです。

 

現在の世界を席巻している「自己責任論」は元来、欧米の起業家や投資家が自らの「エゲツナイ商売」を正当化する方便としてバラ蒔いたものなのでしょうが、コイツは存外日本社会の中に大昔から潜在的に存在したであろう精神性と実に相性が良かった……とまあ、そういう事なのだと思います。

 

さて、専門知識の無い私がこういう事を書くのは迂闊な事かもしれませんが、敢えて想像してみようと思います。日本人は西洋人が云うところの「Nation=(この場合“近代”)国家」、「Modern society=近代(現代)社会」、そして何よりも近代社会の土台を構成する必須の要素である「fundamental human rights=基本的人権」という概念が極めて希薄で、良くも悪くも狭い村社会的な価値観で物事を測る事が多いのではないでしょうか。

 

私は英語圏の知り合いはいません。ただ、色々な読み物を読んだり様々な伝聞に触れるに、

 

『日本人が日本語で「国家」、「社会」、「基本的人権」と口に出して語った時と、西洋人が「Nation」、「Modern society」、「fundamental human rights」と口に出した時では、その解釈は似ても似つかぬものになっているのでは?』……と思う事があるのです。

 

日本的な『伝統的村社会』に於いて「お上」というものは、「飽くまでも自分たちが暮らす生活秩序の外側にあるもので、あまり深く関わったりするものではない」という潜在的規範が強いのではないでしょうか。

 

出来れば『村社会の中にある独自のルール・規範』だけで何もかも終わらせ、なるべく自分たちの秩序の中に外からの権力や「新しい概念」を引き入れたくない。

 

これは少なくとも西洋的な「近代国家とは、国民全体で共有し、国民によって管理運営され、その帰結として持ち得た強大な力をもって国民を守り養う存在である」という考え方とは全く異質なものです。

 

そんな狭い価値観の中では、弱い者、周囲の足を引っ張る者、地域の秩序に波風を起こす者は「厄介者であり存在意義を否定され、攻撃されても仕方のない役立たず」です。

 

近代法が目指す公明正大さやルールの妥当性よりも構成員たちの情緒をベースにした村の秩序こそが絶対的正義です。

本来「justice=正義」とは、「justな判断=適正かつ公正な判断」という事です。
そこには「自分の認知的不協和を埋め合わせたい」といった、
身勝手極まるエゴイズムなどが入り込む余地はありません。
しかし明治の開闢からこの令和の時代に至るまで、日本国自体も自治体も企業も、
実はこういった日本人に特有の『近代以前の村社会的なjustならざる正義』に頼りきりで
発展してきた背景があるのではないでしょうか。

そういう意味に於いて、この日本という国は制度上は近代化して150年余り経っている訳ですが、実はいまだに精神面では封建制を引きずったままでいるのだと思います。

 

この村社会的自己責任論は国の発展段階では上手く機能した側面もあったでしょう。しかし現在はむしろ格差の拡大や深刻な社会的分断を促す危険な要素となりつつあるように思えます。まるで暴走した免疫機能が体に侵入したバイ菌のみならず、周囲の骨や内臓組織をも分解してやがて人を殺すように。

 

だからこそです、現在の日本に求められているのは古く歪んだ『正義』なのではなく、真の意味でのjusticeであり、fairnessなのだと思うのです。