これは名作・迷作 -18ページ目

『草枕』;冒頭だけ(でもいいんです)

草枕












今、読んでいる途中の本ですが、冒頭の文章があまりにも素晴らしいので、書いておきます。というか全体のちょっと難解すぎて、最後まで読める自身がない・・・・。漢語が多い!(^_^;)


「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、画が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

越す事のならぬ世が住みにくけれは、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、難有い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。(中略)

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日の当たる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。---喜びの深きとき憂愈深く、楽しみの多いなる程苦しみも大きい。これを切り離そうとすると実が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。官僚の肩は数百万の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・・」


・・・まだまだ美しい文章が続きますので、よかったら続きを本で読んでみてください。ここまでが比較的読みやすい部分です。(^_^;) ・・・内容に関してはいつか。。。自分が30歳でよかった。。。

今日の発見

福生を歩いていたら、こんなものを見つけました。

coca

自動販売機のボディーが木でできています!すっごくかわいい。(^v^)

これがあったところは50年代、60年代のアメリカ家具が売っているお店。それにあわせて自動販売機もアメリカン?な感じで超ナイス。

「七人の侍」; 古典だけど

七人の侍











世界的名作といわれている黒澤明の代表作品を今回初めて見ました。話の内容も全く知りませんでしたので見る前から期待大。まあ先に言ってしまえば期待しすぎました。。。それから思っていた内容と全く違いました。


時は戦国時代、”野武士”と呼ばれる、農村を襲い、収穫を奪っていく軍団に狙われた村が舞台。村民全体の話し合いの結果、自分たちではどうにも歯が立たないということで、侍に村を守ってもらうことを思いつき町へ出向く。報酬は食事の提供のみで命をかけるという悪条件で、初めは全く誰にも相手にもされないが、賢く人情味あふれるリーダー格の侍(志村喬)中心にいつしか7人の侍が集まり、野武士対策に農民と力をあわせて日々訓練に励む。。。そして決戦の日が来て。。。

歴史的背景からいうと、鉄砲を使っていたのでこの時代はおそらく1543年以降。おそらく織田信長、豊臣秀吉くらいの時代でしょう。もし豊臣時代だったら刀狩令や兵農分離が進んでいて農民は全く武器を持てず武士との力の差が一番出たころであり自分たちの力ではどうにもならないという理由は説明できます。


約3時間半という長丁場で、初めの一時間は侍のスカウト、次は訓練、そして戦闘という構成になっている。しかしちょっと長すぎる。正直初めの一時間でもう飽きてしまった・・・。矢や鉄砲、馬を用いた戦闘シーンは1954年の映像としてはセンセーショナルなのであろうが、「ラストサムライ」や「ブレイブハート」を見てしまった後ではものすごく物足りない。敵が40人しかいないので仕方がないのでしょうが。それから戦闘シーンのある映画全般に対して言えることですが、服装が似ているので敵か味方か分からないので誰かがやられても喜んでいいのか悪いのか分からない。サッカーの試合みたいに色分けをしてほしいなんて。。。まあ白黒なんだけどさ。


そして最後に気になるのが、この映画の侍の役割。結局百姓に雇われて命を懸けて戦って死んだ。何のために?百姓のために?自分のために?百姓のためだとしたらそこまでするための理由、つまり百姓との交流などを描いて欲しかったような。この映画がそこまで有名になる理由、知っている人がいたら教えて欲しい。


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ちなみに主役格として扱われている三船敏郎はお調子者の破天荒野郎としていわば脇役(または準主役?)に近いポジションで現れます。見ているときは全然気がつきませんでした。主役はなんといってもリーダー侍の志村喬。どこかで見たことある顔だな~とずっと思っていたら、同じ黒澤監督の「生きる」に主役で出ていた人でした。あのうだつのあがらないサラリーマンの役が今回は農村を引っ張っていくリーダー役に。すごい役者です。

子供って

今日は高校時代の同級生で、最近結婚した友達の新居にお邪魔しました。昼真っからビールを飲んで、めちゃめちゃ楽しい一日でした。やっぱり同級生っていいなー。しかしカップル2組にシングルは私だけ。ちょっと寂しい感じでした。(T_T)

それはそうと、もう一組のカップルが連れてきた子供がかわいかったー。まだ2歳なのに大人の言葉を理解して、計算した行動をする。なんてずるい奴、と思いながらもとても憎めないくらいかわいいので許してしまいます。

それにしても母の愛は深いな。その子のお母さん(私の友達)が作っている子育てブログを見て感動してしまいました。こどもの行動の一つ一つを見逃さず記録して、少しずつの成長に喜びを覚えるなんてなんて素敵な。何より写真が捕らえる子供の表情の一つ一つにとても愛情を感じます。子供は大きくなったときこの親の愛をちゃんと感じてくれるのかな。でもどんな人生を送るとしても、親に愛されて育った子供は必ず人に優しい人間になると信じています。

今日はちょっと優しい気持ちになれました。

ああ、高尾山

今日、念願の高尾山に登りました。何で念願だったのかというと、近いのになかなか行こうと思えなかったから。。。ちなみに高尾山というのは一応東京都にある山で、東京を縦断している”中央線”の終点「高尾駅」(八王子市)の隣の京王線「高尾山口」(”たかおさんぐち”と読みます。”たかおやまぐち”ではありませんので注意)という駅にあります。今回は女2人での挑戦です。


女二人って怖いです。食ってばっかりです。1:30に待ち合わせしたのに、とろろそば食っておやき食って雪見大福食っておやつ買っていたら登山開始は結局3:00になってしまいました。でも悪いのは環境です。駅を出てケーブル乗り場に向かう道には食べ物やさんがいーーーぱい。登る前に食べるのか食べてから上るのかは人によって違うのかもしれませんが。


高尾山には登山コースが全部で6コースあります。初心者から上級者まで。もちろん今日は初心者コースの1番で。しかし、思ったよりきついきつい!登り始めた瞬間から急な上り坂でその後も急な道が続きます。1時間ほどでケーブルカーの終点まで着きますが、その時にはもうばてばてでした。


寝不足の私はギブアップで頂上までは断念し、そこにあるビアガーデンでバイキング料理を散々食べました(また!)。飲み放題でもあったのにビールが半分しか飲めなかったのは残念・・・。


せっかく山登りに行ったのに食べ物のことばっかりという感じですが、実際はどうなんだというと、鳴り響く川の流れを聞いていたり、見たこともない植物や昆虫を発見したりと普段の生活とは全くかけ離れた「自然」と接しているうちに、なんとなく心が洗われる様な気がしたのは確かです。高尾山は登山者もとても多いし、道もかなり整備されていて安全なので、一人で行っても安心かなという場所です。なにか悩み事があるときには一人でも行ってみたい場所です。・・・ということで。ごめんなさい。疲れていてあんまり詳しく書くことができませんでした。(-_-)


『三四郎』『それから』『門』; 夏目漱石三部作

読みました。夏目漱石三部作。三部作というと『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』あたりをあげたくなりますが、それは三大名作ではありますが、つながりがありません。


っていっても実はこの三作は実際につながっているわけではありません。『三四郎』では三四郎、『それから』では代助、『門』では宗助という人たちがそれぞれ主人公になっていて、彼らのバックグラウンドとか家族構成とかも微妙に異なっています。しかし共通しているのは時の流れが自然と次の作品に映っていて、同じ主人公の成長というかその後の物語のようになっています。


『三四郎』は九州から東京にやってきた、まだ純粋さを残した大学生を中心とした話です。田舎ものの彼が都会の流れについていけずに違和感を覚えながらも自分に素直に生きていこうとする姿が印象的です。

『それから』はがらりと変わり、職も持たず妻ももたずただ「職業のために汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」としてのらりくらりと生きる30男が主人公。ずっとひそかに想い続けていた友人の妻を奪うことに成功するも、家族からは勘当されて、職を探して町をさまようところで終わる。

『門』ではまさに道をはずしてしまった2人のその後を描いています。その過去ゆえに世間の目から逃げるように「社会の罪人」としてひっそり暮らす。なにもかもをあきらめてそれでも2人でささやかに楽しく生活できればいいと思っていたところに偶然に裏切った親友が隣家に尋ねてくる事実を知り窮地に立たされる・・・。


というのがかんたんなあらすじですが、この三作、あらすじだけ見てもはっきりいって面白くありません。

三作を読み通してみて面白いと感じることは、読んでいるときの感じがそれぞれの本でまったく違うということでしょうか。

三四郎』では主人公が新しく発見するもの、経験するものに重点がおかれ、さわやかな青春小説のような味わいがある。同時に主人公の周りの人物の高尚な活動を描写することによって主人公が都会の生活の中で取り残されている孤独感をうまく表現している。『それから』では高尚な生活欲を満たすために自己弁護を続け、それゆえ文章も自己が中心となっていて哲学的であり攻撃的であるような印象を受ける。正直言って一番読みにくい。一転して『』ではぎりぎりのところで生きている主人公の生活様式がこと細かく書かれていて、生活観が漂っていて、とても親近感を覚える。難しい表現もなく読みやすい。一番大きな変化が『それから』から『門』に続くところであった。描写の重点を変えることでこんなにも堕ちた人間の心境の変化を表現できるのかと、作者の表現力の巧みさに驚いた。私の勝手な印象では、「続き物」として意識したというよりは3つの異なった状況にある人間の様子を、重点を違ったところにおいて違った印象の物語を作り出すことを楽しんでいるように見える


話は別として、私はこれらの話の中の生活様式や思想が今に近い、または今以上だとことに驚かされる。この時代明治41年~43年ごろがどういう時代だったかはほかの作者の本を読んでいないのでわからないけど、作品に出てくるもの何もかもが違和感なく今の時代にも共通している。子供がバイオリン、ピアノを習っている、ビアホールでビールをぐいぐい飲んでいる。フランスから着物を注文している。これは極端な例だけど、書かれている生活を読んでいて、現代の生活となんら違いがないというか話がそのまま通じるところが多い。それに、保守的、先進的、その中間、というような人々の考え方の対立などがはっきりしていて、日本人らしいあいまいさを感じさせないところが前面保守的な日本社会を皮肉っているようで面白い。このテーマは昔でも今でも共通して通じるものだと思う。私は夏目漱石のそんな先見性が大好き。


とにかく、この3つの作品は一つ一つ読んでも十分に面白いと思う。(『それから』は終わりが中途半端なので『門』とセットでよくことをお勧めするけど)。だけど作品ごとに変わっていく文体の変化を注意深く読んで、主人公たちの心の動きを一緒になって考えていくことに私は一番の楽しさを覚えるのではないかと思う。

今日のラッキー

今日、最近近所にできた古着屋さんにフラッと入ってしまいました。するとすでに発売中止になっているmade in USAのジャックパーセルの皮スニーカーが3800円で売られている。おおっと思いサイズを見ると23.5、もしやと思い試着をしてみると悲しいことにぴったり・・・。(T_T)しかし失業中の私、3800円も大金。するとレジの前に「古着買取します」の文字が!スニーカーを取り置きし、即効で家に帰って押入れに5年以上眠っていた洋服やスニーカーやバッグを引っ張り出し、袋に詰めてもっていきました。(多分洋服10着、靴5足、バッグ一つくらい?)なんと総額3500円!晴れてスニーカーと交換してもらうことができました。ヽ(^o^)丿聞いてみると、10年前に買ったスニーカーと、バザーでただでもらったリュックが高値だったそう。捨てる神あれば拾う神あるっていうのは本当だったのでした。おわり。(^.^)

jb

『真理先生』; 一番好きな小説

真理先生

「まりせんせい」ではなく「しんりせんせい」と読みます。しかも男の先生です。

『友情』を読んで武者小路実篤ワールドにはまった私は本屋さんでふと手にしたこの小説を何の気なしに買ってみたのですが、『友情』以上に厚い『人情』の物語です。

今出ている小説って人間の悪い部分、特に自分の中の暗闇みたいなのを扱ったものが多いような気がします。感情移入はできますが、読んだあと暗くなります。でもこの小説の中では、金はないのに人徳がある真理先生を中心に、物語には「いいひと」しか出てこないんです。多分そんな小説他にないんじゃないかってくらい。私はこの小説を読んだ後、すごく「日本人」を感じました。そう、そのほがらかさ、人を信じる心、自然を愛する心・・・。なんというか今の世の中から消えつつあるけど確かに残っている日本人のやさしさというものをすごく感じたんです。読んだあと、あまりのうれしさに、空を見上げて「日本人でよかった」としみじみ思いました。

小説としては一番とはいえないかもしれませんが、でも私が「好き」な小説の中では一番です(^v^)

今日の出来事

今日初めてのことをしました。それは、バスを追いかけたこと。しかも2回/(-_-;)/。そして、捕まえたこと。4年間通っていた、山の上の大学に行ったのです。5年ぶりくらいに。1回目、今まであったはずのバス停がなく、うろたえる私の目の前をバスが通り過ぎていったんです。途中まで追いかけたのですが、近道しようと思って道に迷って反対方向に行ってしまいました。立ち寄った交番で気づきました・・・。次は時間を確認して万全の準備をして、スタート地点に戻る帰り道に、なんと次のバスが10分も早いのに目の前を横切るじゃないですか!今度こそと思いながら走り出すもすでに50mの差、2回目も逃しそうになりながらも信号で止まったバスに向かって100mの全力疾走。何とか捕まえました。炎天下で何で私こんなに走ってるんだろうと悲しくなりながらも、1時間に1本しかない貴重なバスのために全ての力を出し切りました。本当に死んでしまうかと思いました。(~_~;)

「JSA」; 終戦記念日に戦争の意味について考える 

JSA












終戦記念日というのにあまり実感がわかなかった今日。そういえば、毎年行われる終戦の行事にもほとんど関心を払ってこなかった。なんか遠い国で行われていることのような気がして。終戦というのを初めて感じたのは中学生のとき、RCサクセションが歌っていた反戦歌「ロング・タイム・アゴー」で「Long time ago 45年前~原子爆弾が落ちてきた時~」というような歌詞を聴いたとき。そのとき、そうか、まだ45年しかたっていないのか!と静かな衝撃を受けた記憶がある。それがもう60年。私の中ではいつまでも戦争は45年前だった気がする。ちょっと時差ぼけ。


ということで終戦記念日の記念に家にあった唯一の戦争関連映画「JSA」を見てみました。こじつけですみません。


舞台は朝鮮半島を南北に隔てる共同警備区域(Joint Security Area=JSA)、南北の兵士が境界線を隔ててお互いに殺意を持ち合い、一触即発の状態に置かれています。そこで起こったのが北側での兵士の殺傷事件。北と南の側でお互いに食い違った証言が出たために事件は迷宮入りするかのように見えたのですが、実はそこにはあってはならないある出来事があったのでした。それは「北の兵士と南の兵士の心の触れある交流」。言葉を交わすだけでも厳罰に値するような緊迫した状況の中で、彼らは自然な形で友情を深めていきます。まるで小学生が、敵だと思っていた隣の学校の生徒と、学校という枠を超えたとき自然と仲良くなるようなかんじです。

こんなにも人間くさくて、いい兄貴がまるで悪の枢軸のように扱われている北朝鮮の兵士だとは初めは信じられないです。本当に。これが先入観というものの恐ろしさでしょうか。主人公の南の兵士もきっと兄貴と出会う前まではそう思っていたことでしょう。これは監督が意図していたことだとも思います。そう、戦争は相手を血の通った人間だと思ってはいけない、自分たちより下等なものとして、殺すに値するものと考えなければならない。そういう意味ではこの映画は戦争の本質を良く捕らえていると思います。戦争はお互いの無知と無関心から来るもの。お互いに関心をもって歩み寄ればその壁は崩れてしまう。でも国が絡んだ利害関係のためにその壁がどうしても必要であるという事実。それがこの映画の悲劇へとつながる。

しかしベルリンの壁のようにいつかJSAが消される日は近いのではないかと思ってしまう。この映画を見ると。

なんかわけの判らない感想になってしまいましたが、この映画はとにかく面白いと思います。シリアスなだけでなく、コメディの要素も入っているから不思議です。もちろん、そんなことができるのはソン・ガンホがいるおかげ。ちょっとよくできすぎた北の兵士の役ですが、やや陳腐に陥りがちなこのストーリーを全体的にうまくまとめていると思います。逆にいらなかったのがイ・ヨンエ。男くさい友情ものがたりを汚されてしまったようで残念です・・・。好きな女優なんですが。