昨日の続きです。
岡山後楽園は、江戸時代を代表する、
大名庭園の一つです。岡山藩主 池田
綱政が家臣の津田永忠に命じて、
2代藩主の池田綱政肖像画です。
1687年に着工して1700年に一応
の完成をみました。その後も藩主の
好みで改造されますが、、江戸時代
のまま大きく変わることなく現在に伝
えられています。
水戸の偕楽園、金沢の兼六園と共
に「日本三名園」の一つとも称され、
国の特別名勝に指定されています。
現在の後楽園です。
綱政の時代には藩主の居間、
延養亭(えんようてい)や園内
に点在する建物の座敷から、
眺望を楽しむという要素の強
い庭でした。
綱政の子継政は能舞台周辺
の建物を大きく改築し、園内
中央に唯心山を築きます。
そのふもとに水路を巡らせて、
沢の池と廉池軒の池を結ぶ、
ひょうたん池を掘らせました。
こうした改造で庭を巡り歩い
ても楽しい回遊性が備わって
きました。継政の孫治政は、
倹約のため、田畑の耕作に
当たっていた人々をやめさせ、
一時的に芝生の庭園となり
ますが、その後すぐに園内
東の大半は田畑へと戻りま
す。現在の井田(せいでん)
はその名残です。こうした
時代ごとの藩主の好みや
社会事情によって後楽園の
景観は変化ています。
江戸時代の後楽園には、
許しがあれば領民も入る
ことができました。能を
好んだ綱政は自ら舞う姿
を見せたり、継政以後の
藩主たちは、参勤交代で
岡山を留守にする間は
日を決めて庭を見せて
います。また、藩主のお
客をもてなす場としても
使われました。
明治4年(1871年)に、
池田家では「御後園」を
「後楽園」と改め17年に
は名園の保存を目的に、
岡山県に譲渡しました。
当初は公園ではなく県庁
付属地として公開された
ため、日没閉門などの
決まりを作って保存が
図られました。
昭和9年(1934年)の
水害、昭和20年の戦災
に遭いましたが、江戸時
代の絵図などに基づいて
復旧がはかられて、江戸
時代の姿を大きく変える
ことなく今日に受け継が
れています。
上図⑥から見た正門です。
中に入ると
平四郎の松があります。
解説板です。
後楽園が出来る前は農村地帯
でした。
松の幹に菰がまかれています。
松に菰がまいてあります。
後楽園の西側です。
下図は1700年頃の後楽園の西側です。
本丸との橋が無かったので、御船入跡
が下図では港にされています。
1700年頃の後楽園です。
解説板です。
今回はここまでで、明日に続きます。
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