私部城(交野城)の紹介1 歴史  | みどりの木のブログ

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今回から大阪府交野(かたの)市にある私部城

(きさべじょう)の紹介です。交野城ともいわれま

す。2019年1月7日に交野代官所を見てから

行きました。

 

私部城址にある石碑です。

 

築城した城主の安見(やすみ)氏は室町時代に

畠山氏の家臣だったようです。

1565年に、安見右近は畠山氏の配下として、

大和で合戦に参加したと、多聞院日記にありま

す。この頃、畠山重臣の遊佐信教から三好家臣

の松永久秀に右近が預けられます。

1568年に久秀配下として、安見右近が北河内

の交通要衝であるここに私部城を築きます。

三好長慶死後三好家は、久秀と三好三人衆が

対立していたので、久秀は織田信長の配下とな

ります。

 

下の縄張図①から撮影しました。

 

縄張り図です。(交野市教育委員より引用)

 

交野代官所の北西にあります。(グーグルより引用)

 

1961年国土地理院の私部城航空写真です。

 

現在の私部城です。

三郭と四郭は開発されて破壊されています。

 

1569年に、安見右近が岩清水八幡宮の領地

だった、星田からの年貢を納めないと訴えられ

ます。(岩清水文書)

1570年に、織田家家臣となり安見右近は織田

家重臣の佐久間信盛の娘と結婚します。

1571年に、久秀が織田信長を裏切ったとき、

右近は久秀に呼び出されて、奈良の西新屋で

切腹に追い込まれます。

同年5月に、私部城は松永軍に包囲されます。

1572年4月、織田方の佐久間信盛・柴田勝家

の援軍が私部城に到着、松永軍が退却しまし

た。

1575年に、織田信長が河内を平定します。

1578年10月1日に、織田信長が堺から京都

への帰り道に、私部城の新城主安見新七郎の

ところで休憩を取ります。

この頃信長の廃城令で廃城の可能性がありま

す。

1581年に、信長による京都馬揃えで、安見

新七郎が「取次者」と記録されています。

1582年に、本能寺の変で信長が暗殺されま

す。安見氏は領地替えで他府県に移ったよう

で、私部は秀吉の領地となります。

 

短いですが、今日はここまでで、明日に続きます。

 

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