米子城の紹介1 歴史と関ケ原の戦い | みどりの木のブログ

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今日からは

江戸時代に鳥取藩の支城であった米子城の紹介です。

天守のあった米子城本丸の石垣です。

 

もらったパンフレットにある写真から引用しました。(米子市教育委員会より引用)

 

 

米子城の歴史

応仁の乱の時に、西軍の山名氏が支配する伯耆と、東軍の京極氏が支配する

出雲の国境で対立していました。『出雲私伝』によると、文明2年(1470年)尼子

清定と戦った、伯耆方が敗れて米子城に入るとあるのが初めての記録です。

1524年に大永の五月崩れ(尼子経久は 大挙して伯耆に進入し、伯耆一円を

制圧しました)によって山名氏の米子城は落城、尼子氏の支配となります。


1562年頃、毛利氏の尼子氏攻略に伴い、毛利氏と組んだ山名氏の支配に戻

ります。
1569年に尼子氏再興の旗揚げをした、山中幸盛らは米子城主山名之玄と結

びます。しかし、毛利方の吉川元春に攻められ落城、城主・山名之玄は自害しま

す。吉川元春は配下の福頼元秀、1577年から古曳吉種を城主にしたと推定さ

れています。


1591年に、秀吉の時代に東出雲・隠岐・西伯耆を領した、毛利家の吉川広家

が城主となり、古曳吉種に命じ、湊山に築城を始めます。しかし、古曳吉種は

文禄の役で戦死し、吉川広家は関ヶ原の戦いの結果、岩国へ転封されます。

 

吉川広家肖像画です。

 

1561年に、吉川元春(元就の次男)と新庄局の三男として生ま

れ、1570年に父と共に尼子勝久の討伐戦が初陣でした。
幼少時は「うつけ」で父を嘆かせたという逸話があり、杯を受ける

際の礼儀作法がなっていないことなどを注意された書状が残って

います。1600年の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が石田三成や

安国寺恵瓊らによって、西軍の総大将とされたとき、広家は徳川

家康率いる東軍に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で

広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されました。外交に通じた

恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても東軍加担を主張する

広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべき

とする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされます。しかし、あく

まで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利

重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にした

うえ独断で黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵とい

う密約を取り付けます。しかし、関ケ原の合戦後は大坂城から

発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押がありました。

毛利家改易と広家には周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰が

ありました。毛利本家存続のために広家は家康に起請文を提出

します。

    「私に対する御恩顧は後世まで決して忘れませんが、何卒

    毛利家という家名を残して戴きたく御願い申し上げます。
      この度のことは輝元の本意ではありません。輝元が心底

    人間が練れてなく分別がないのは、各々ご存知のことで

    はないですか。
      輝元は今後、家康様に忠節を尽くしますから、どうかどうか

    毛利の名字を残して下さい。
      輝元が処罰されて自分だけが取り立てられては面目が立

    たないので、私にも輝元と同じ罰を与えて下さい。
      もし、有り難くも毛利の家を残していただけたなら、輝元は

    この御恩を決して忘れません。
      千が一万が一、輝元が徳川に対して弓引くようなことが

    あれば、たとえ本家といえども、輝元の首を取って差し出

    す覚悟でございます。」

広家のこの起請文に対し、家康は10月10日になって、輝元に

対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利

宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障

する旨の起請文を発行します。毛利家内では広家は裏切り者と

して、岩国に転封しました。


江戸時代
慶長5年(1600年)に、豊臣秀吉の三中老であった、中村一氏は駿府城下内膳屋敷で

徳川家康と会談し、東軍徳川方に加わりました。この論功により、一氏の嫡子中村一忠

は伯耆一国17万5000石を領し米子城に拠り、初代米子藩主となります。一忠は執政

家老の横田村詮と共に、米子城を完成させ、さらに新たに米子城下町を建設し、現在の

商都米子の礎を築きます。この中村氏の中村は豊臣秀吉が生まれた地である、中村か

ら取られています。
1603年に、城主側近の安井清一郎・天野宗杷等の言葉により、城主中村一忠
は横田

村詮を謀殺します。徳川幕府は安井と天野両名を切腹に処しました。

 

1793年の米子城の絵図です。

本丸は湊山山頂に位置し、大天守や四重櫓、二重櫓、多聞櫓、鉄御門(くろがねごもん)

などが置かれました。大天守は中村一忠が吉川広家の四重天守の横に建てた独立式

望楼型4重5階の天守でした。

 

明治11年に撮影された望楼型4重5階の天守です。

 

現在地にある現地案内板です。二の丸は現在庭球場になりました。

執政家老の横田内膳正村詮が担当して、築造したため「内膳丸」と呼ばれます。二重櫓数棟

と武器庫が設置されました。横田村詮が暗殺された時、その一族が立て籠もった所です。

三の丸は鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地となっています。

 

 

二の丸です。城主の御殿や、その台所、藩の役所が置かれていました。

1603年に横田村詮は二の丸の建物内で暗殺されました。

鳥取城見学の後で来ましたが、天候は雨になりました。


二の丸入口は、東西25.4m・南北22.7mの桝形があります

二の丸入口の枡形です。下図①より撮影しました。

旧小原家長屋門が見えています。

 

 

1609年に、中村一忠が20歳で急死し、中村家は家系断絶のため改易され、翌年に

替わって加藤貞泰が伯耆の内で2郡6万石を領して藩主となります。(中村氏旧領の

残り11万5000石は、八橋藩市橋氏・黒坂藩関氏・天領などに分割統治されます)
1617年に、加藤貞泰が大洲藩に領地替えします。そして、米子藩は廃藩となります。

伯耆・因幡が鳥取藩池田光政の所領となったことにより、米子城には家老の池田由成

3万2千石が城代として駐在しました。

池田光政が鳥取に入封した際、鳥取城が32万5千石の居城としては手狭であったた

め、代替城として候補に挙がったのが、布勢天神山城・倉吉打吹城・久米郡の茶臼山・

米子城でした。いずれの城・地域ともに一長一短がある中、米子城は「藩侯の居城とし

てふさわしい城」として最後まで新城の候補地とされ、激論が交わされました。結局、

鳥取城を拡張して水堀を造ることになります。米子城は鳥取の中心地になりませんで

した。元和元年(1615)に江戸幕府が発した「一国一城令」において例外として存続

が許された全国の支城のなかで、米子城のような立派な天守がある城は珍しいです。

藩主のいる鳥取城は三階櫓が天守代わりなので、藩主の城より立派です。
1632年に、池田光政の岡山国替により、池田光仲が藩主となり、明治維新に至るま

で米子城は家老の荒尾氏が城代として駐在します。輝政の母(善応院)は荒尾善次の

娘でした。それで善次の子成房を父にもつ鳥取藩家老の荒尾成利(荒尾但馬)に米子

の所領支配(1万5000石)を任せました。荒尾氏は鎌倉御家人として知られ、尾張国

知多郡にある荒尾郷を名字の地としています。現存する荒尾氏に関する文書などから

も、荒尾郷と尾張国中島郡に所領がありました。ただし、戦国時代の荒尾氏は系譜や

出自に関しては不明だそうです。初代荒尾空善は在原氏を称しています。

 

米子城の航空写真です。(米子市教育委員会のパンフレットより引用)



明治以降

明治3年(1870年)に、米子城山が米子駐在の士族らに無償で払い下られます。
明治8年(1875年)には、士族らが土地と建物の買い取りを米子町に要請しますが、

不成立となり、切り売りされます。
明治12年(1879年)に、当時の金30円で古物商山本新助に売られ、石垣を残して

取り壊されました。その後、城跡一帯は坂口氏の手に渡ります。
昭和8年(1933年)に、坂口平兵衛 から米子市に寄付され、現在は湊山公園とし

て整備されています。


今日は此処までです。明日に続きます。

 

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