昨日の続きです。
今日が鳥取城の最終回です。
天球丸から下にある三の丸跡に移動しました。
下図⑨から⑩の中間地点から⑭方向の石垣を
見たところです。右端の石垣の上には二階櫓が
ありました。(下絵図参考)
江戸時代初期1683年の鳥取城の絵図です。(鳥取県立博物館蔵)
以前にも引用しましたが、加筆部分の経路と番号が⑩以下
間違っていましたので、ここで訂正しておきました。
城修理で幕府に願い出た時の絵図です。
江戸時代初期なので、天球丸の丸巻石垣が描かれてい
ません。
藩主御殿・政庁の三の丸については
三の丸には左側に塀があり、左側から入れません。
下側から入っていました。
ところが
江戸時代後期になると
三の丸は左側から入る構造に変化しています。
2か所の赤丸部分に門が出来ています。。
そして、下側からの門が閉鎖されています。
また、三の丸は明らかに右側に拡張されています。
三の丸解説板です。
藩主御殿・政庁の部分は
三の丸の詳細な絵図です。(鳥取県立博物館蔵)
⑨から⑩の辺りです。三の丸跡の表示ポールがあります。
この右側は
県立鳥取西高校の入口になっています。
上写真の三の丸跡表示のポールが見えています。
この日は12月の定期テスト中なのかひっそりとして
いました。
三の丸解説板です。
高校を移転して、藩主御殿を再建して欲しい所です。
さらに下に歩くと
⑩の辺りから見た二の丸石垣です。
さらに下ると
⑫から⑩方向を見たところです。
ここには二重門があり、枡形になっていました。
⑬の辺りから見た、仁風閣の裏入口です。
仁風閣は最初の方で解説しました。
次に、⑪大手門跡の所には行けなかったので、
グーグルストリートビューより引用の写真です。
橋の上⑪から大手門方向の写真です。
ここは上の古絵図では枡形になっていました。
枡形正面奥の石垣・二重門が取り払われています。
ありし頃の古写真では
1860年代の橋から見た大手門枡形です。(鳥取市報より引用)
最後に鳥取城を城下町から見た古写真は
鳥取城を城下町から見た古写真です。天守代わりの御三階櫓がよく見えます。
御三階櫓の再建が待ち望まれます。
以上で鳥取城の紹介を終わります。明日からは
鳥取藩の支城だった米子城の紹介です。
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