鳥取城の紹介7 山下の丸2 池田家 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は鳥取城の最終回です。

 

下図③の所から見た天球丸と、左端に二の丸石垣です。

 

1681年の古絵図です。

 

③から見た天球丸です。江戸中期から後期に出来た丸巻石垣があります。

 

③の下には藩主御殿があった、三の丸がありました。

現在は県立鳥取西高校です。

 

この左側は水堀が造れず、空堀の竪堀になっています。

絵図③の右は竪堀のあった所です。幕末まで竪堀は維持されました。

 

③の所でガイドさんから、藩主池田家の説明がありました。

 

池田家の系図です。見えている手はガイドさんの手です。

 

池田氏は和泉国池田村(現和泉市)を発祥とし、摂津国と美濃国に荘官として赴任し、

池田荘を開いたとされます。 源平合戦の頃に、源頼政の弟源泰政が池田氏の養子に

入り、泰政の子の泰光が摂津豊島郡を時景(摂津池田氏)、美濃池田郡を泰継(美濃

池田氏)に継がせました。

摂津池田氏は江戸時代に旗本になりますが、不祥事から改易になりました。

美濃池田氏は池田恒興の代に織田家重臣となり清洲会議に出席し、秀吉を支持しま

す。小牧長久手の戦いで戦死(享年49)。嫡男の元助も共に討ち死にしたため、家督

は次男の池田輝政が相続します。輝政は1600年の関ヶ原の戦いでは、前哨戦とな

った織田秀信(三法師)の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に落城させます。

戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となり

ます。池田輝政は徳川家康の愛娘、督姫を後妻にし松平姓を許され、一族で合わせる

と播磨、備前、淡路、因幡に計100万石近い諸藩を有し「播磨宰相」「姫路宰相」「西国

将軍」などと称されました。備前国岡山藩、因幡国鳥取藩は明治まで続き、侯爵になり

ました。

池田長吉(鳥取6万石)は恒興三男の分家筋で、次に入った池田光正が本家でした。

池田長吉はその後、備中松山藩に領地替えで転出しています。

家康の血を引く池田光仲が、一番大きい領地鳥取32万石になります。本家筋の光正

は岡山に領地替えで31万石に石高が減りますが、山陰より山陽が良いと喜んだそう

です。

ただし、鳥取池田家の分家鉄砲洲家の5代藩主で学者の池田定常は自分の系図を調

べた結果「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよく

わからない。池田家は池田信輝(恒興)より以前はその実一決しがたい」と述べていま

す。また、新井白石も「池田恒利をもって祖としそれより以前は疑問」と言述している。

戦国時代にガラガラポンしたので、百姓・商人・山賊・海賊出身者が武士となり、室町

時代の武士の多くが貴族化していたので、滅亡したり百姓・商人になった者が多くいま

した。

              (文章はいつもウィッキペディア・パンフレット・ガイドさんの話などより書いています)

 

鳥取城の因幡池田家長屋門が、東京上野の国立博物館に保存されています。

その記事へのリンクはここです。

因幡池田藩江戸屋敷門です。石高32万石あるので最高クラスの門構えです。

 

今日は此処までです。明日が最終回です。

 

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