昨日の続きです。今日は南宗寺の紹介です。
戦国武将の三好長慶が父・元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557年)に
大林宗套を開山として建立した南宗寺です。臨済宗大徳寺派の寺院で、創建
当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して自由貿易都市として栄え
た堺の町衆文化の発展に寄与しました。茶道の千利休の師である武野紹鷗は、
大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深めました。千利休
も第二世笑嶺和尚に参禅しています。日常の俗世を離れて禅の修行に入った
ような茶の湯の生活や、知識ではなく体で会得していく茶の湯の方法を確立し、
茶人としての素養を深めました。1615年の大坂夏の陣でほとんど焼失します
が、住職の沢庵の尽力で再建しました。
「大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康。し
かし大坂方の猛将・後藤又兵衛は怪しいと睨んで槍でついた。家康はそのまま
南宗寺で絶命。しかし死去はふせられ、家康の影武者が活躍。家康の遺体は
ひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという」、こんな伝説がまことしやかに
ささやかれいます。しかし、家康には双子の弟がいたそうで、この弟が影武者
として討たれたと考えられます。その理由は、弟は僧侶でしたが家康の墓とい
うものが僧侶の墓形(上が丸い)なのです。なので家康の弟である可能性があ
ります。新しく堺の堀が出来た時に、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が寺を
参詣したのも、家康の弟(秀忠のおじさん)の死が起因していると考えられます。
徳川家康の墓などの紹介のリンクはここです。
境内には、三好家一門の墓、千家一門の碑、武野紹鷗の碑など著名人の
墓があります。下のリンクで見れます。
千利休の供養塔など紹介のリンクはここにあります。
南宗寺の入口です。少し唐門風な感じの門です。
門をくぐると
右に⑫の座禅堂があります。
⑫の座禅堂の先に受付があります。
拝観料400円を納めて、ここから撮影禁止です。
地図の下に南宗寺と天慶院があります。
南宗寺は今回内部撮影が禁止でした。なので以前2013年10月にUPした、
この時はまだブログを始めた時期なので、写真が小さめです。
2013年には撮影可でしたが、今年は禁止になっていました。
江戸時代の南宗寺境内図です。(下が北です)
⑤の海会寺の隣に⑭の天慶院があります。
最初は南宗寺を外から撮影した写真です。
③から撮影した南宗寺の総門です。
通りに面してある総門。大林和尚揮毫の「龍興山」の扁額が架かっています。
⑥の総門を内側から見た写真です。
⑦の甘露門です。(国重要文化財)
1647年に第十三世住職により造営された、
禅宗様式と和様式が折衷した建物です。
甘露門を横から見たところです。
⑧の橋です。堀は堺を囲む堀につながっていますが、
この辺りは空堀です。
⑨の客殿と通用門です。
⑩の唐門です。建立年月は不明ですが、様式から17世紀中頃
のものと見られます。この中に堺東照宮がありました。
第2次世界大戦の空襲で焼けたので、現在は石碑(松下幸之助
氏寄贈)のみです。堺町奉行が代わると、その度に奉行様のお
参りがありました。
唐門の右側には千利休ゆかりの「椿の井戸」があります。
椿の井戸です。
利休屋敷で使われた井筒です。
これも椿の井戸の隣にある井戸です。
堺は地下水が豊富で井戸が多いです。
それが茶道発展の理由の一つです。
⑪の1652年建立の仏殿です。(国指定の重要文化財)
天井には八方睨みの龍があります。
南宋寺方丈と仏殿の紹介のリンクがここにあります。
南宗寺の鐘です。
南宗寺の境内図です。
後の写真はパンフレットの写真です。
⑬の方丈(本堂)です。太平洋戦争の空襲で焼けましたが復元されました。
庭は三好氏故郷の阿波国の風景を写しています。手前の白砂は鳴門の海
を表しています。室内の襖絵も阿波国の風景です。
南宗寺の説明板です。
実相庵です。1876年(明治9年)この南宗寺で博覧会が開催され、
このとき塩穴寺にあった千利休ゆかりの茶室実相庵が移築されました。
1945年(昭和20年)の空襲で焼失しますが、1963年(昭和38年)
再建されました。
南宗寺茶室の実相庵紹介のリンクはここです。
長くなるので今日はここまでにします。明日は天慶院の紹介です。
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