「南宗寺史」には「(家康が)大坂夏の陣で茶臼山の
激戦に敗れ駕籠(かご)で逃げる途中、後藤又兵衛の
槍(やり)に突かれて、辛くも堺まで落ち延びたが、
駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺
の開山堂下に隠し、後に改葬した」との伝説が紹介さ
れている。
写真の位置に沢庵による開山堂がありましたが、戦災で焼けて
その床下から上の写真の墓が出てきたそうです。前回の坐雲亭
のそばにこの墓があり、秀忠と家光が墓参りに来たという伝説
です。ただ、この丸い形の墓は通常お坊さんの墓の形なのです。
実は家康は双子で、もう一人はお寺で育った可能性があり。
お坊さんの影武者がいたらしいのです。(NHKでも放送済)
その影武者が家康の身代わりになり、後藤又兵衛の軍勢に襲わ
れて死んだのではないかと思うのです。
上の写真のように三好一族の墓の向かいに家康の墓があります。
江戸時代堺には町奉行所があり天領でした。この南宋寺にも
東照宮がありました。町奉行が交代した時に、新しい奉行が
下の東照宮にお参りしたそうです。
ここに東照宮があったのですが、第2次世界大戦で堺が空襲
を受けた時に焼けたそうです。
今は記念石碑があります。
この東照宮の入り口の唐門です。これは焼けずに残りました。
塀は三つ葉葵の家紋入りの瓦使用です。この塀は夏の陣で焼け
た瓦を積んで築造されました。なので、ところどころ瓦が黒い
色をしています。
再建の碑裏面には、昭和42年に水戸徳川家初代家老の子孫
である、三木啓次郎氏により「徳川家康の墓」の石碑として
再建されています。知人であった松下幸之助が資金援助して
います。
このため、松下電器がテレビで水戸黄門を放送したといわれ
ています。ただ、大阪名物通天閣が水戸の日立製作所の援助
で再建されたのは残念です。代わりに松下は東京名物の浅草
雷門の再建を援助しています。
次回は本堂と利休の茶室実相庵の紹介です。