海会寺(かいえじ) 堺市文化財特別公開の紹介1 | みどりの木のブログ

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 堺市で文化財特別公開がありましたので、その紹介をします。

11月6日(月)にそれを見に行きました。天候は曇りで少し肌寒

い感じでした。特別公開は11月11日(金)~13日(日)にもあ

ります。最初は海会寺にいきました。

 

海会寺の山門です。(これは少し以前撮影の写真です)

9月に「さかい利晶の杜」に行った時の写真なので晴れています。

 

配布されたパンフレットより引用の堺地図です。(宣伝用なのでお店の広告が多い)

交通量が少し多いのですが、効率よく見学するには、堺駅・堺東駅のレンタサイクル

の利用が便利です。

 

1728年の堺古地図南側半分です。(上が東です)

 

創建当時の海会寺は開口神社の西(下側)にありました。

現在の海会寺は南宗寺の境内にあります。

 

周囲は江戸時代初期に掘られた堀があります。

堀は大坂夏の陣で、堺が徳川方に味方したため

に、大坂方から堀を埋め立てられ焼き討ちにさ

れました。その後、徳川家の協力で堀が再建さ

れました。海会寺は正平6年(1351年)、乾峯

士曇(かんぽうしどん)が開山で、当時の海会寺

は、開口神社の西門前にありました。方八丁の

境内と300石の寺領を有していました。6ヶ寺の

塔頭(子寺)もありました。 夏の陣の後、当時の

南宗寺の住職であった沢庵が、同じ臨済宗であ

った海会寺の再建に協力して、南宗寺の境内に

海会寺を再建しました。

 

南宗寺の地図です。南宗寺の敷地内に海会寺があります。

 

①から順に⑤まで移動しました。

①から見た南宗寺です。

 

②のところです。

 

山ノ口橋です。この橋は紀州街道(熊野街道)でしたので、

江戸時代にはよく使用されました。

 

次に③の南宗寺の正門は

③の南宗寺の山門です。

 

④の無料駐車場です。

 

次に⑤の海会寺の山門前は

⑤の位置で海会寺山門の写真です。

 

塔頭(子寺)が6院あり、寺領も300石程度あったと伝えられ
ていますが、 今はこの旧地には金龍水(こんりゅうすい)と呼

ぶ井戸を残すのみです。古地図の開口神社の下(西)に甲斐

町山ノ口筋に海会寺前という所があります。
 当寺第5世と思われる季弘大叔(きこうだいしゅく)が、文明

16年(1484年)から同18年にわたる、「庶軒日録(しょけん

にちろく)」という日記を残しており、遣明貿易で栄えつつあっ

た当時の堺の姿がわかる唯一の資料となっています。
 その後、荒廃したので古渓宗陳が天正13年(1585年)に、
現在の祥雲寺の処に再興をしました。 大坂夏の陣(1615)
で焼失しますが、その復興には至らなかったので、南宗寺の
住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)の助力によって、

南宗寺の境内寺域に再興されました。しかし、寺領や寺宝が

南宗寺(三好家の菩提寺として1557年に建立)に渡ります。

そして、南宗寺の子寺扱いとなります。

生保2年に沢庵が亡くなり、海会寺側は堺町奉行所に南宗寺

の末寺取り消しの訴訟を起こします。14年争った後に判決が

下りて、海会寺の独立が認められます。南宗寺は臨済宗大徳

寺派ですが、海会寺は臨済宗東福寺派となります。寺地につ

いては「旧南宗寺内たるべきこと」となり、南宗寺からの借地

扱いでした。しかし、寺宝は南宗寺より取り戻せました。江戸

時代を通じて、鳳郡の津久野村から30石の領地を安堵され

ていました。秀忠から連綿と続く朱印状が展示されていました。

書かれた和紙の質も、近年になるほど良くなっています。

また、大量に作ったので将軍の花押は無く、祐筆が押したと

思われる朱印(大きめのハンコ)がありました。初めの秀忠の

朱印は読み難い文字ですが、後世の吉宗の朱印は読み易く

吉宗はすぐに読めました。撮影禁止なので写真はありません。

将軍が代わるごとに、江戸から朱印を持った使者が来るので、

その接待が豪華であったといいます。接待のあと最後に朱印

をもらったそうです。

 

山門をくぐると

 

左側には

左が庫裏(お坊さんの住居)の玄関です。右がお客様用の式台玄関です。

 

本堂・庫裡の説明板です。

 

門廊です。唐門と本堂への廊下が一体となっています。

 

門廊の解説板です。

 

唐門入り口から、華頭窓と本堂を見たところです。華頭窓の前には

腰掛があります。

 

方丈(本堂のこと)です。「方丈」の文字は沢庵和尚だそうです。

 本堂庫裏及び門は重要文化財に指定されています。

 

方丈の縁側です。左は門廊です。この方丈の向こう側が庫裏です。

この縁側で枯山水の庭を眺めて、座禅の修業をするそうです。

 

枯山水の指月庭です。

中央の一番大きい阿弥陀如来を表す石が、夜の座禅修行時に月を指さす

ように見えたので、指月庭と名づけられました。

 

指月庭の解説板です。

5色の奇岩を11個配置しています。

 

指月庭です。

 

指月庭です。

 

指月庭を南東の隅から見たところです。

 

堂内では撮影禁止です。

展示の屏風には文英清韓の文書が書かれています。

縦長の文書はお経を写したもので、短いものは漢詩

やお釈迦様の言葉などです。文英清韓はこれで弟子

に説法したといいます。

 

「方丈」の下には珍しく障子が貼られた窓があります。

 

 

海会寺の解説板です。

 

南宗寺より古いお寺なので、寺宝がいくつかあります。

大坂の陣の発端となった「国 君臣豊楽」の文章

を書いた人が、文英清韓という僧侶で、海会寺の住職

でした。徳川家から家と康が分離しているのに、一方で

豊臣は分離していないという苦情でした。縁起を担いで

のことです。NHK大河「真田丸」でもありましたが、彼は

この苦情を聞き入れず書き直しをしませんでした。徳川

家はそこで五山の僧の答申をもらうと、いずれも当時の

諱(名前のことで、当時人前では言わないもの)の扱い

に対する常識や礼儀として問題視され、諱を避けなかっ

たことについて、五山の僧から非難されています。

当時南禅寺長老で、一流の物知りの高僧でしたので、

そんな事はないと信じていたのでしょう。徳川の悪意

のある陰謀とまでは考えていません。そのため豊臣氏

だけではなく、 文英も連座し、長老であった南禅寺か

ら追放されて、住坊の天得院は一時廃絶の憂き目にあ

っています。

文英は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭も

り、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されて、

蟄居中に林羅山と知り合い、のち羅山の取りなしなど

により許され、さびしく1621年に没します。

 

インコのぴよたん動画お借りしました。(94秒)

食べ物のことをホントによく喋ります。

インコはオウムや九官鳥より、よく喋るように思います。来年は酉年ですね。

ペットショップに行くとインコは、一羽2500円くらいで売られていました。
今日はここまでです。明日は天慶院と南宗寺の紹介です。

 

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