【世界史人物16】始皇帝「法による支配」 | 技術士を目指す人の会

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2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、始皇帝です

は、山川の教科書のP70、《秦の統一》で登場します。

 

●いつの時代?

BC221年(中国統一)

 

●どこの人?

中国人

 

●何をした人?

秦は中国の王朝で、政(せい)はその王様です。

政(せい)は中国ではじめて皇帝を名乗ったので、始皇帝と呼ばれます。

 

 

●世界の4大文明

まずは、古代世界史のおさらいです。

世界4大文明というのがあります。

メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明ですね。

山川の教科書では、一番最初にメソポタミアが紹介されます。

チグリスユーフラテス川流域で灌漑農業が行われていました。

BC3500年頃、神殿を中心とした集落が生まれました。

BC3000年頃、シュメール人が都市国家を作ります。

ウルのジッグラトがが有名です(下の写真)。

メソポタミアでは、BC2400年頃、アッカド人による統一国家ができます。

次に、エジプトが紹介されます。

ナイル川流域で農業が行われていました。

BC3000年頃、統一国家ができます。

エジプト文明と言えば、ピラミッドが有名です。それから、アブシンベル神殿も有名ですね(下の写真)。

次に、インダスです。

インダス川流域で農業が行われていました。

BC2600年頃、都市国家ができます。

インダスについては、統一国家という記述はありません。

不明な点が多いようです。

インダス文明と言えば、モエンジョダーロが有名です(下の写真)。

※画像出典元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%80%E3%83%AD

 

そして、山川の教科書で最後に紹介されるのが、中国文明です。

昔は、黄河文明と呼んでいましたが、後の調査で、黄河流域だけではなく、長江流域も栄えていたことが分かりました。

このため、山川の資料集では黄河文明とは記さず、中国文明と記しています。

中国では、BC6000年頃から農耕がはじまっていて、黄河流域ではアワ、長江流域では稲が中心だったそうです。

BC5000年頃、農業を中心とした集落が生まれました。

そして、BC2000年頃、中国最初の王朝国家が誕生します。

名前は「夏」です。

 

●中国の王朝国家

中国最初の王朝、「夏」は、不明な点が多く、正確な場所すら不明です。

その後、BC1500年頃になると、「殷」という王朝国家ができます。

「殷」については、墓や宮殿跡が発見されたました。

殷の遺跡は、殷墟と呼ばれいて観光スポットになっています。

ここは、メソポタミア、エジプトのように巨大遺跡はありません。

ただし、文字が刻まれた甲羅や骨が発見されました。甲骨文字です。

中国人は記録を残すことに長けていたようです。

BC11世紀になると、「殷」は「周」に滅ぼされます。

「周」は、鎬京(現在の西安)に都をおいて、中国北部を支配するようになります。

この頃から、天という概念が定着します。

天とは、神のようものもです。

武力で王になったのではなく、天からの命により王になったとするものです。

天命という概念を取り入れることで、広い範囲で民を支配することを正当化したわけです。

さらに、王様を頂点とし、その親族に土地を配分することで、服従を得る秩序体制が定着します。

これが中国における封建制度です。

中国の勉強する上で、天と封建制度の内容を知っておくことは必須です。

さて、

BC8世紀頃になると、「周」の力が弱まります。

抗争の時代に突入します。

BC8世紀〜BC5世紀を春秋時代、BC5世紀〜BC221年までを戦国時代と呼びます。

戦国時代には、7つの大国がありました。

秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓です。

これらを戦国の七雄と呼びます。

 

「秦」の戦士を主人公として、これらの七雄の闘争を描いたマンガが『キングダム』です。

映画化もされています。

 

 

 

七雄ですが、互いに同盟を結びつつ、戦争を続けました。

その名の通り、戦国時代だったわけです。

しかし、最終的には、「秦」が中国統一を果たします。

「秦」は都を咸陽(現在の西安の近く)におきます。

マンガ『キングダム』では、主人公の信とその仲間が戦いに勝利します。

マンガでは戦略と個の力で他国を上回ることで「秦」は勢力を伸ばしていきます。

「秦」の強みを武力として描いているわけで、これは物語として読んでいると面白いです。

 

ただ、山川の教科書では、「秦」について違う角度で書かれています。

「周」の時代に親族を中心とした封建制度が確立されました。

この制度は、血のつながりを重視したので団結力が強いです。

その一方で、優秀ではない人材が重要ポイントに登用されるというデメリットがあります。

このデメリットにより、多くの国が衰退していきました。

「秦」の首脳部は、早い段階で、こうしたリスクに気が付きました。

血筋ではなく、能力を重視して人員配置をするようになります。

優秀な人材を確保することを重視することで、「秦」は急成長を遂げます。

「秦」が勢力を伸ばすことができた理由は、腕っぷしが強い人間ではなく、政治力と経済力に優れた人間を確保したからです。

「秦」は、まずは政治力と経済力を身につけ、これを活かして財源を手に入れ、強い武力を確保したわけです。

最終的には、BC221年、政(せい)が王の時、中国を統一します。

この統一にあわせて、王のことを皇帝と呼ぶようになり、はじめての皇帝なので始皇帝となったわけです。

しかし、その11年後のBC210年、始皇帝は亡くなってしまいます。

その後、各地で反乱が起き、BC206年に「秦」は滅びます。

 

ちなみに、「秦」が衰退する中で、項羽と劉邦が覇権を争います。

劉邦が勝利し、「漢」をたてます。

この二人の激闘については、マンガ『項羽と劉邦』に描かれています。

マンガのタイトルは、項羽の方が先に書いてありますが、勝つのは劉邦です。

間違えないよう気を付けましょう。

 

 

●始皇帝のやったこと

前述したとおり、「秦」では、血のつながりではなく、能力を重視した人材登用を行ってきました。官僚制です。

同時に、「秦」は、封建制ではなく、郡県制を採用しました。

封建制の場合、地方の統治は、地方にいる親族に任せます。

一方、郡県制では、中央から地方に官僚を派遣し、その官僚が地方を統治します。

始皇帝が中国を統一した際、元々あった7つの国が1つになったわけですから、広大な土地になりました。

国を中央と地方に分けました。中央は「秦」のあった場所です。

地方はそれ以外です。地方を郡というくくりで細分化して、秦から官僚を派遣して統治したわけです。

 

それから、始皇帝は、中国統治に伴い、貨幣、単位、文字を統一しました。

元々は7つの国だったわけですが、貿易は行われていました。

貨幣、重さや長さの単位、文字が異なるわけですから、時間と労力が必要です。

これを統一することで、スムーズな経済活動を実現したわけです。

 

また、北方民族からの攻撃に備え、長城を整備しました。

北方民族の攻撃に備え、騎馬が乗り越えれないよう、境界に沿って盛土を行ったものです。

よく勘違いしますが、現存する万里の長城は、「秦」の時代のものではなく、「明」のときに作られたものです。

それから、中国南部で領域を広げるため、軍事物資を輸送する運河を作ります。

この運河は霊渠と言い、33kmもあるそうです。部分的に現存しています。

 

●始皇帝の名言

始皇帝の名言について、ネットで検索してもヒットしません。

マンガ『キングダム』では、政は名言を残しています。

しかし、これはフィクションです。

実際の政は、恩愛の情にかけ、残忍な心の持ち主だったそうです。

このことは司馬遷の『史記』にも記されています。

実際、思想統制を行うため、数百人の儒学者を殺し、思想を記した書籍を焼き払ったそうです。

これを焚書坑儒といいます。

始皇帝は残忍でした。

しかし、始皇帝は様々な改革を行っています。

特に、以下のことを重視した点が優れていました。

 

 

「秦」が中国を統一する前は、親族の繫がりを重視した封建制が基本でした。

親族重視は、一家の長を敬うことを意味します。

一家の長、つまりは王様がルールブックになります。

これが上手くいっている場合はいいですが、長による恣意的な統治が行われる場合もあります。

これでは国が乱れてしまいます。

こうしたリスクを回避するためは、ルールを定め、それに従って政治を行うべきです。

そうすれば国が安定します。現在、世界各国がそうしています。

始皇帝は、法による支配を重視していました。

そして、李斯等の優れた法家を配下におきました。

同時に、儒学者を迫害しました。

なぜなら、儒学の教えの中に、親を敬う教えがあったからです。

儒学が封建制度を生んだと考え、これを否定して法治主義を浸透させるため、焚書坑儒を実施したわけです。

始皇帝は、法律を重視し、官僚による中央集権を実現しました。

極めて優秀なリーダーだったわけです。

ただし、秦は強力な常備軍を設けていたわけではありません。

また、元々が7つの国だったわけで、その改革路線に反対する者も多くいたようです。

このため、始皇帝が亡くなった後、反乱が起き、「秦」はわずか15年で滅んでしまいます。

 

●始皇帝の画像

マンガ『キングダム』より

キングダム 31 (ヤングジャンプコミックス)

 

ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D

 

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