ワンポイントコラム
<韓国朝鮮 歴史のトリビア>
264.ヘサンコングク恵商公局
 
 
 
 
現在KBSワールドで放映されて居る2014年放映のドラマ『朝鮮ガンマン』ですが、全22話中現在19話が終了しました。
イ・ジュンギが主演し朝鮮王朝時代、最後の刀剣士がガンマン(即ち銃士)に生まれ変わる話を込めて居ます。

 

 

珍しい開花期、近代を描いた史劇で、放映時に銃マニアに注目されたそうですが、確かに色々な銃器が登場し、ガンマニアには堪らないかもです。
 
2010年のストーリー公募大選で優秀賞に選ばれた作品が原作だそうで、放送当時には開始前に「このドラマに出てくる人物と事件は歴史的事実とは異なる創作物である事を言明する」という字幕が出て居たそうなので、歴史的事実とは無関係なストーリーで進むだろうと諦めて、多少の?大きな?(笑)歴史歪曲も目を瞑って観る事に心を決めたので、さほど文句は有りません。
 
もとよりコチラは✖️1.3倍速でテレビ視聴して居る身なので、文句など言えた柄では有りませんか?(笑)

 

 

とは言え、国王高宗、明成皇后始め実在人物が多数出演し、1882年の「壬午軍乱」など歴史的事件が登場するので、やはり大まかな史実に対する歴史歪曲が気になります。
 
19話で高宗がボブサン褓負商の力に押され『ヘサンコングク恵商公局』を創立する場面が描かれました。

 

 

『ヘサンコングク恵商公局』はこの時期実際に創られ、我が国の近代史に様々な影響をもたらした官衙(組織)です。
1884年にキム・オッキュン金玉均ら開花派によって起こされた『甲申政変』の14箇条政綱でも『ヘサンコングク恵商公局』を廃止する事と言う条文が有る程です。
 
今回はこの『ヘサンコングク恵商公局』とその後継団体について見る事にします。
 
元々朝鮮土着商人集団で有る「ボブサン褓負商」は16世紀頃から独自の「ギルド」組織を構築して商行為を体系化して居ました。
ここでギルドとはヨーロッパの中世において、商人や手工業者などの自営業者が、キリスト教の友愛精神に基づき、生活のさまざまな面で相互に助け合うために結成した身分的な職業団体で、厳しい戒律と特権が与えられて居ました。

 

 

中国にも『行(こう)』や『作(さく)』とよばれる同業者の団体が有りましたし、朝鮮にも主に『契』などの強力なギルド組織が存在し、18世紀には全国的なギルド組織が完備されて居ました。
 
↓詳しくはコチラの記事で↓
 
以前、ワンポイントコラムの「ボブサン褓負商」や「酒幕」のコマでも述べましたが、高額紙幣がついぞや近代に至るまで発行される事の無かった我が国で、まるで近代ヨーロッパの銀行制度を凌駕する確固とした信用取り引きが可能だったのもこの様なギルド組織の全国化による物でした。

 

 

彼らは手型「オウム於音」を発行し、それを全国的に流通させる事によって、高額紙幣や重い貴金属の持ち運び無しに高額な商業取り引きが可能だったのです。
 
1860年代、西欧列強の武力浸透とこれによって国家の危機意識が表れた際に、国家レベルで朝鮮王朝政権がボブサン褓負商組織を支配しようとする試みが現れ始めました。
 
1866年にフランス艦隊による『ピョンイン丙寅ヤンヨ洋攘』が起こるや否や、大院君は既存の「ボブサン褓負商」の自治組織を公式に承認し、首長の「トバンス都房首」「チョプチャン接場」などの権威を認定、同時に彼ら麾下の「ボブサン褓負商」を大々的に動員しました。

 

 

これにボブサン褓負商たちは大きく応え、一時軍隊に付属して戦争に参加しました。
「ボブサン褓負商」組織の強固さはこの近代初の国家危機の際にも遺憾無く発揮され、1866年フランスとの「ピョンイン丙寅ヤンヨ洋攘」の勝利に大きく寄与しました。
 
こうして、ボブサン褓負商が持っていた全国ネットの組織性は、権力層が自分の権力を維持するための目的に活用される事になったのです。
以後、ボブサン褓負商は固有業務である商業活動の他に『政府外郭治安部隊』の性格を帯びるようになったと言えるでしょう。
 
1882年に起きた「壬午軍乱」の際、親政府的見地で準軍事的任務を担当したボブサン褓負商は、漢陽(ソウル)都城内外の下級軍人と都市貧民を中心とした暴動が爆発し閔氏政権に最大の危機が迫ると、それに対抗して自分たちの力で阻止しようとしました。

 

 

この様に、この時期になるとボブサン褓負商は親政府・親権力的性格が露骨化し、政府としても彼らの物理力と組織力に注目し、これらを軍隊組織に吸収しようとしました。
 
そうして1883年4月にボブサン褓負商組織が軍隊の最高指揮機関である三軍部に統合、王室を補う準軍事的性格のボブサン褓負商が政府機関を通じて管轄され、政府の軍事組織の一翼を正式に担う様になりました。

 

 

しかしボブサン褓負商の第一の目的は当然、あくまで商業に有りました。
彼らは軍事的任務よりも商兵団の組織を好んだのです。
特に1882年以降、日本商人の経済侵奪が激しくなると、商業問題と軍事権の両方を管轄する「統理軍国機務衙門」に所属する事を望む陳情書を1883年4月と6月の二回にわたって提出、この様な状況で官制が改編されて三軍部が解体されると、高宗は「ボブサン褓負商」を同年7月にトンリ統理アムン衙門に所属させ、続いて『へサン恵商コングク公局』を設立したのでした。

 

 

『へサン恵商コングク公局』は開港以来日本や清国商人の進出により変化した商業環境下で、政府の保護の下で商業活動を展開しようとするボブサン褓負商の努力が反映されたものでした。
 
『へサン恵商コングク公局』の設立で、ボブサン褓負商に対する政府の統制は強化され、より具体化されました。
そして、ボブサン褓負商に対して一般商人よりも一定の優位を保障しました。
 
政府は『恵商公局』を設立して以来、いわゆる『サンピョ商標』という一種の商業許可証を発行、その対象をボブサン褓負商だけでなく一般商人にも該当させました。

 

 

これは全国の商人を『ヘサン恵商コングク公局』の収税体系の下に置こうとした物でした。
 
そして一般商人に対する商標発給と商業税の徴収を傘下のボブサン褓負商組織である『イムバン任房』で主導的に引き受けるようにしました。
これを通じて、ボブサン褓負商は自分たちと他の商人を区別し、一種の御用商人に変身することに成功したのでした。

 

<伝統市場>

合わせて彼らは商隊、すなわち軍事的目的を兼行する者として規定され、火賊(盗賊)や「商人を詐称する者」を取り締まる権限を与えられました。
『ヘサン恵商コングク公局』所属のボブサン褓負商は治安維持に動員され警察力と準軍事力、準公務員的な仕事をしました。
そしてこれを基盤に一般の小商人や民衆に対する侵奪が増大した為、1884年に起きた『甲申政変』の政綱で『へサン恵商コングク公局』を廃止する事を正式に言明した事も、彼らの存在が如何にマイナス的に作用したかを物語ります。

 

 

『ヘサン恵商コングク公局』は1885年8月に内務府の所属に入った後、『サンリグク商理局』に改称されましたが、機能は変らず、彼らの権限も変わりませんでした。
 
こうして、民衆から出発した人たちが反民衆的な態度を見せる様になった事を端的に物語るのが甲午農民戦争です。
1894年甲午農民戦争が勃発するや否や、ボブサン褓負商「商業の道を楽にして国のために害を除去する。」と言う名目で政府軍と共に農民軍討伐に乗り出しました。
多くのボブサン褓負商は各所で群れをなして、無実の農民たちまで「東学徒」に追い立てて問題を引き起こしました。

 

 

この様なボブサン褓負商の行動は社会的に物議を起こし、甲午農民戦争が終結すると、政府はボブサン褓負商組織を解体する方向に進みました。
日清戦争後の新政府は1895年3月に『サンリグク商理局』と傘下の各イムバン任房をすべて解体させ、ボブサン褓負商の収税も完全に禁止しました。
斯くしてボブサン褓負商の活動は一時萎縮しました。

 

 

しかし、政権の必要性から彼らは再び蘇生する事になります。
1897年「大韓帝国」成立直後、政権担当者は独立協会を牽制する必要があったので、1898年6月に『ファングク皇国協会』を結成させます。
『皇国協会』は高宗の意志に積極的に応じた皇室派官僚により、「サンリグク商理局」と各イムバン任邦の復活運動に注力していたボブサン褓負商と彼らが連合して創設した新たな政治・経済団体でした。
「皇国協会」の重要課題は失墜した皇帝権の確立と強化に有り、政府高官が後援しましたが、一般会員は大多数がボブサン褓負商でした。
「皇国協会」「独立協会」の議院設立運動に反対して、政府の御用団体として機能しました。

 

 

大韓帝国政府は「独立協会」が次第に大衆運動である『万民共同会』運動に広がり、君主権を制限する動きが強くなると、口実を作って解散させる機会を狙いましたが、この時出たのがボブサン褓負商でした。
 
1898年12月に「独立協会」のメンバーと「皇国協会」ボブサン褓負商の間に流血沙汰が繰り広げられました。
政府はこれを問題として、ついに皇帝が解散勅令を下し、軍人と警察を派遣し、両団体とも強制的に解散してしまいました。

 

 

ボブサン褓負商が狙った全国規模のボブサン褓負商団体と地方イムバン任房の復活は、この1898年末に独立協会と万民共同会を解散させた功を認められて実現しました。
政府は1899年6月にボブサン褓負商を中心とした『サンムサ商務社』の設置を許可し、全てのボブサン褓負商は『商務社』体制に吸収されたのでした。
つまり、甲午改革期に『サンリグク商理局』が解体されて以来満4年掛けて、ボブサン褓負商の全国的規模の商団再建が達成されたのです。

 

 

以上の過程で見たように開港後、ボブサン褓負商は絶えず官に組織を認められ、さらに彼らの営業独占権を保障されるべく喜んで権力の味方になって民衆と対抗し、民衆運動弾圧の先頭に立ちました。
商人たちは社会的冷遇と差別を乗り越え、自分たちの力でより良い生活条件を作る為の行動を絶えず行い、朝鮮の産業発展に一定の刺激を与えたりもしました。

 

 

しかし、商人たちは朝鮮社会にあった両班意識を克服出来ず、金儲け後には地主両班への転身を望むなど、自分たちの活動性を自ら弱め、性理学的観念体系に組み込まれる事で彼らの発展は制限されました。
ある意味では近代的な人間型に近かった故に中世で虐げられた商人たちでしたが、彼らはついに自分たちが所属する社会体制を克服できず、結局その社会の論理に包摂されてしまったと言えるでしょう。
 
『商務社』 は1904年12月『共進会』に改称、朝鮮の植民地化と共にその役目を終えました。

 

 

 
<参考文献>
한국민족문화대사전
우리 역사넷

 

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