第7章 韓国ドラマ映画
29.鄭道伝チョンドジョン❶
정도전 2014年
「このひと イイモ〜ン?」
TV画面に映る崔栄チェヨンを見て息子のポンチ(胎児名)が聞いて来ます。
「う〜ん、どっちかなぁ」と私。
イイモンだけどこのドラマじゃゆくゆくの敵(かたき)役だからワルモンだし…
テレ朝のニチアサヒーロー物や勧善懲悪アニメにどっぷり浸かって育って来た我が家のミックスツインズ、三つ子の魂百までの言葉の通り、
親がドラマを見てると、
未だに登場人物が善悪どちらなのか必ず聞いて来ます。
<ドラマのチェヨン崔榮>
イビョンフン監督のドラマ(チャングムやトンイなど)であれば善悪の役回りがはっきりして居るので即座に返答出来るのでしょうが、
そうでないドラマ、特に大河ドラマ系の時代劇では善悪をハッキリと分け辛いです。
それこそが時代劇の深みでもあるし観る楽しみでも有ります。
特に朝鮮王朝成立に至る歴史、
高麗末期から朝鮮王朝初期(韓国式に言うと『麗末鮮初(リョーマルソンチョ)』)は評価が微妙なのでどちらが正義でどちらが悪か判断し難いです。
<ドラマ主人公>
現在KBSワールドで放送中の『チョンドジョン鄭道伝』ですが、敵味方が時事刻々移り変わり、呉越同舟的な駆け引きで面白いです。
共和国の歴史認識では遼東遠征から途中で引き返し(威化島回軍)、高句麗の故土回復を永遠に放棄して成立した朝鮮王朝の成立と張本人、李成桂を背信として批判的なので、共和国評価では崔栄はイイモンに変わり有りませんが、鄭道伝を主人公にしたドラマ的にはワルモンです(笑)。
よろしかったら歴史篇を↓↓↓
でも実際、高麗王朝は500年近く経ち腐って居たので、朝鮮王朝成立が全く意義が無かった訳では有りません。
遼東征伐で高句麗故土が回復出来たかも未知数ですし。
なのでいつもの如く、物事良し悪し2元論では済まないんだよと言う結論で話しは終わります。
と、理解の悪い息子に淡々と説明しながら観る史劇はムダに余計な時間が掛かります(笑)。
<ドラマのイソンゲと>
あらすじを。
14世紀後半、高麗。権力は略奪の道具に転落した。 意ある者が去った廟堂からは奸臣の勧酒歌だけが響き渡り、外敵にいつも侵略されるため、生活の基盤を捨て放浪する民の行列が続いた。
そんな中、乱世を治め、太平の道を歩み続けることが自分たちの役目だと信じた高麗の若者達。
彼らこそが、後世で「新進士大夫」と呼ばれる成均館の学士達だった。
そんな学士の一人だったチョン・ドジョン。
新儒学である性理学の理念を大義として世を正しく立て直そうと努力するが、実権を掌握したイ・イニムにより遠い南の島へ島流しにされてしまう。
なんと十年にも渡る流刑地での放浪生活。
しかし、チョン・ドジョンは絶望の中、自分自身の天命を見つけ出す。
易姓革命。
彼は民の尊敬を集める武将イ・ソンゲを訪ねて行く。
この歴史的な出会いが朝鮮の建国につながるのだった。
チョン・ドジョンは単純な革命家ではなく、緻密な計画とビジョンを持って新しい文明を築いた設計者であり創造者であった。
朝鮮建国以後、「朝鮮經國典」や「経済文鑑」等を著し宰相政治を根幹とする中央集権的な官僚体系の基盤を確立する一方、漢陽遷都、私兵革罷のような改革を推進して新しい王朝の基礎を固めていく…。
(引用 公式ホームページより)
<鄭道伝 標準影幀>
ここでチョンドジョンの生涯を簡単に辿ります。
李穡を師として学問を修学しました。
1360年科挙に合格して官吏となるも、1375年権臣イイニム李仁任などの親元反明の政策に反対したため流刑に遭います。
1377年流刑生活の終了後、学問研究と教育に携り、1383年李成桂(太祖)の幕僚となり、後ろ盾を得ました。
威化島回軍を経て1389年李成桂が王を廃し恭譲王を擁立すると功臣として封ぜられるも再び流刑、釈放。しかし、李成桂が遊猟中に落馬して負傷する事件の最中、療養中のすきに鄭夢周らに弾劾され3度目の流刑に遭います。
李芳遠(太宗)が鄭夢周を暗殺すると釈放され、李成桂を王に推戴しました。
朝鮮王朝の建国後、すべての権限は鄭道伝に集中します。
その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどで、開国一等功臣の認定を受け、門下侍郎賛成事、判義興三軍府事など、殆どすべての要職を歴任して居ます。
漢城遷都以後、宮と宗廟の位置や称号などを定め、「朝鮮経国典」を著わし法制等の基礎を作成。
崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立し、軍事的には「義興三軍府」の司令官として軍制を改革。
私兵化した軍隊を段階的に革罷し、国防力を強化させることに苦心しました。
政治的には太祖と自分の関係を劉邦と張良に準(なぞら)え、国王が全ての実権を握るより、宰相を中心とした士大夫が政治をリードすべきであると主張して居ます。
そのため強力な王権こそ社会の安定の根幹と考える李芳遠(太宗)と対立しました。
太祖と共に、幼い6男芳碩を太子に指名し、政権樹立に功績の芳遠を遠ざけるも、1398年「王子の乱」にて政敵、芳遠の軍勢により誅殺されてしまいます。
<実家跡が残る>
鄭道伝は農業と農地政策による人民の生活の安定化を目指し、新たな農地政策である科田法に多大な影響を及ぼしました。(科田法は近くワンポイントコラムにて説明)
民本思想と易姓革命が彼の思想で、
民衆こそが国の根本であり政治を行う王や士族は民のために存在するものとしました。
<ドラマのイバンウォン(太宗)>
また民の為にならない王は討つべしとの易姓革命思想は、朝鮮王朝創建の理論的な土壌になりましたが、「忠臣は二君に仕えず」と言う儒教の教えに背くもので、師の李穡や師弟の李崇仁、親友の鄭夢周など多くの保守派の士大夫と敵対する結果となりました。
腐敗した儒者、仏教への批判と崇儒抑仏政策も有名で、高麗の腐敗の温床と化していた仏教を批判し、仏教勢力の抑制を図りましたが、この政策により朝鮮王朝時代、僧は下賤の身とされ漢陽に入ることを禁じられ多くの寺院が無くなりました。
性格が苛烈で妥協を許さず、政敵への苛責ない弾圧は師弟であれ違(たが)わず、同志でさえ「鄭道伝は人に恨みを買い斬られたのだ」と言う程だったとの事。
<チョンモンジュが暗殺された 史跡 善竹橋ソンジュッキョ>
高麗最後の忠義の士、鄭夢周チョンモンジュとは同じ儒学者で学生時代から互いを励まし合う親友でした。
多くの友人が鄭道伝を見捨てた流刑時代にも鄭夢周は彼を決して見捨てることはなく、
鄭夢周が非難を受けても鄭道伝は彼を励まし弁護しています。
<ドラマのチョンモンジュ鄭夢周>
しかし高麗王朝打倒を目指す鄭道伝と高麗王朝を死守の鄭夢周とは相容れない関係になっていき、結局彼らは命を賭して戦う政敵になってしまいます。
鄭夢周が李芳遠に暗殺されたため彼に弾劾された鄭道伝が政界に復帰すると言う皮肉な関係になります。
最近では史劇も暗くて重いタッチが嫌われるのか、明るく軽いヒュージョン史劇やファンタジー史劇が旺盛で、KBSの大河ドラマも長らく中断して居ます。
やっと今年、6年ぶりに復活し『太宗イバンウォン』がなりの人気を博しました。
ヘプムタルやクルミなどの、史実を離れた架空のパラレルワールドならともかく、
実名を使いながらも一見して嘘と分かる歴史歪曲の酷いヒュージョン史劇を観るのは私的にはキツくツラいものが有ります。
仕方無く?観る事は観ますが、10に1つ位は正統派史劇の復活を心から望んでおり、
このドラマ「チョンドジョン」を毎日心待ちにして観る日々です。
現在20話まで進みましたから、あと30話残りました。
彼は果たしてイイモンでしょうかワルモンでしょうか?
多分息子は主人公なのでイイモンだと判断するかも知れません。
聞かれたら私はどう答えましょうか?
彼はイイモン?
それともワルモン?(笑)
↓続きはコチラ↓↓レビューその2です↓↓
<参考文献>
Wikipedia
한국민족문화대사전
나무위키
ブログ記事の書籍出版に向けて
現在クラウドファンディング挑戦中です。
ご協力ご支援お願いします。↓